フランク王国

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フランク王国によって、西欧世界が誕生

5世紀、後に世界をリードする西ヨーロッパでは、ゲルマン民族大移動で移住してきたフランク族が建てたフランク王国によって、その原型が造られた。
フランク王国は、各地の異民族国家を滅ぼし、王国の版図を拡大、さらにローマ教皇の支持を受ける事で、西ローマ帝国を後継する。
後にフランク王国は分裂し、現在の西欧各国の形へと受け継がれていく。

カール大帝の大王国

西ローマ帝国の滅亡後、再び西ヨーロッパを統一したのはフランク王国であった。
481年、メロヴィング家のクローヴィスは、小国分立状態であったフランク族を統一して、フランク王国を建設する。
8世紀になるとカロリング家のカール・マルテルが、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いウマイヤ朝のイスラム軍を破って、権威を確立し、その子のピピン3世が751年委カロリング朝を開いた。

カール大帝が急速に版図を拡大

ピピン3世の子カールは、ローマ教皇と対立していたランゴバルド王国を滅ぼした他、北方のゲルマン人豪族を制圧した。
また、イベリア半島(現スペイン・ポルトガル)では後ウマイヤ朝などのイスラム勢力と戦うなど武勇に優れ、王国の版図を拡大した。
そして、800年に教皇レオ3世からローマ皇帝の帝冠を受け、カール大帝(シャルルマーニュ)として西ローマ帝国を受け継いだ。

フランク王国の下、西欧の基礎が出来る

カール大帝は、各地で教会組織を整えた他、アルクインなどの学者を迎えて学芸を奨励し、カロリング・ルネサンスと呼ばれる時代を築いた。
こうして最盛期を迎えたフランク王国の下で、古代ローマゲルマンキリスト教文化の融合による西ヨーロッパ世界の基礎が形作られた。

フランク王国が西・中・東の3つに分裂

この時代の繁栄はカール大帝個人の力量によるところが大きかったという。
カール大帝の死後は王国の相続をめぐって争いが起こってしまい、ヴェルダン条約メルセン条約によって王国は3つに分裂してしまう。
その一つである東フランク王国は神聖ローマ帝国の起源になるなど、現在のドイツフランスイタリアの基となった。

カール大帝没後のフランク王国

843年 ヴェルダン条約
カロリング家の相続問題から起きた内紛を治めるため、フランク王国の3分割が取り決められた。
この条約によって、西フランク王国、中フランク王国、東フランク王国に分けられる。
ローマはどの国にも含まれていない。
870年 メルセン条約
中フランク王国のカロリング家が断絶した為、東西両フランクが中フランクの一部を分割する。
残りの中フランク王国の領土には、新たにイタリア王国が誕生する。
この時点でも、ローマはイタリア王国には含まれていない。

当時の教皇領

ランゴバルド王国に遠征したフランク王国のピピン3世は、ラヴェンナ地方を奪いローマ教皇に献上する。
この「ピピンの寄進」により教皇領が成立し、19世紀のイタリア統一まで続いた。


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