ヨーロッパの火薬庫

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ヨーロッパの火薬庫となったバルカン半島

オスマン帝国の衰退によって、バルカン半島では小国が誕生する。
しかし、この地域の特性上、複雑な民族対立が目立っており、常に一触即発の空気が漂っていた。
さらに、近隣諸国の利害が絡み合い、「ヨーロッパの火薬庫」となったバルカン半島で、第一次世界大戦の火ぶたが切られた。

大国の思惑が渦巻くバルカン半島

オスマン帝国の衰退に伴い、19世紀以降のバルカン半島では次々と国民国家が誕生した。
しかし、もともと他民族が混在する地域であった為、これらの国ではしばしば国境をめぐって対立が起こった。
こうした状況をみたロシアは、スラヴ系諸民族の一体性を主張するパン・スラブ主義を唱えて介入する。
これに対し、オーストリア・ハンガリー帝国ドイツの後ろ盾でパン・ゲルマン主義を唱え、パン・スラブ主義を押さえ込もうとした。

バルカン戦争勃発

1908年、オーストリアが突然、ボスニアとヘルツェゴビナを併合する。
これに対抗する為、ロシアが1912年にセルビアを中心にバルカン同盟を締結させるが、ロシアの目論見は外れてしまう。
バルカン同盟諸国(ブルガリア、セルビア、ギリシャ、モンテネグロ)はイタリアと戦っていたオスマン帝国に戦争(第一次バルカン戦争)を仕掛け、バルカン半島のオスマン帝国領のほとんどを奪った。
さらに、獲得した領土の分配をめぐり、ブルガリアと周辺国との第二次バルカン戦争が勃発する。

ヨーロッパの火薬庫となったバルカン半島

2度のバルカン戦争は、この地域に住む民族たちの強いナショナリズム(民族主義)に起因している。
この領土戦争の結果、敗北したブルガリアがドイツ・オーストリアに接近するなど、バルカン半島は大国と小国の利害が複雑に絡み合う「ヨーロッパの火薬庫」となった。

王族射殺事件が、世界大戦を引き起こす

サラエボ事件

1914年6月28日、ボスニアでサラエボ事件が起こる。
事件当日、陸軍演習の観閲に、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者夫妻が訪れていた。
その夫妻が、南スラヴ統一国家建設を目指す秘密組織の援助を受けたセルビア人青年に射殺されてしまったのである。
この事件を受け、オーストリアはセルビア政府の責任を追及する。

第一次世界大戦勃発

オーストリアはドイツの支持を支持を得る事に成功し、一ヶ月後の7月28日、セルビアに宣戦布告する。
セルビアを支持するロシアが総動員令を出してこれに応じると、今度はドイツがロシアとフランスに宣戦布告。
これによって、第一次世界大戦が始まった。


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