箕子朝鮮と衛氏朝鮮

箕子朝鮮と衛氏朝鮮

古代の朝鮮半島には3つの国家が存在したとされるが、実在が確認できている衛氏朝鮮までである。
>> 古代朝鮮の時代区分と年表

中国史書に記された「箕子朝鮮」

3つの王朝「古朝鮮」

古代朝鮮では、檀君朝鮮箕子朝鮮衛氏朝鮮の3つを総称して「古朝鮮」と呼ぶ。
だが檀君朝鮮はあくまで伝説的な存在なので、歴史学では箕子朝鮮と衛氏朝鮮を指す。
ただ、箕子朝鮮も歴史書に記されているのみであり、発掘調査による裏付けが得られたわけではない。
そのため、文献で確認される最古の王朝は、衛氏のクーデターで倒された無名の王朝ということになる。(日本史においても神武朝など実在が確認できておらず、国家の興りの歴史に関しては神話的な要素を持つ国は多い)

箕子朝鮮は殷の王族が創建した

箕子朝鮮の始祖である箕子は、中国の殷王朝の親族にあたる。
殷の滅後、周に仕えることを潔しとせず、朝鮮で国を開いたという。
ただし、建国の経緯は当時の記録では見ることができない。
漢代の史書で見ることができる。

箕子が朝鮮の民を教化した

班固の『漢書』には、朝鮮に赴いた箕子が「犯禁(禁令に背く)八条」という法をもって民を教化したことを伝えている。
また、司馬遷の『史記』には、周の武王が箕子を朝鮮に封じたことが記されている。

秦が中国を統一

中国では周王朝が衰退し、春秋戦国と呼ばれる戦乱の時代に突入していた。
紀元前4〜前3世紀には、現在の北京を中心とする燕が遼東半島まで勢力を拡げた。

箕子朝鮮は学術的には「無名の王朝」

燕は将軍の秦開を朝鮮西方に派遣し、2000里余りの土地を奪い取った(『魏略』逸文)。
その結果、衛氏の前の無名の王朝(箕子朝鮮の事)は衰退の一途をたどった。

秦が朝鮮半島に接近

その後、中国大陸を統一した秦が遼東半島まで進出してきた。

衛満が建国「衛氏朝鮮」

衛満は中国から朝鮮半島へ

始皇帝の死後、再び動乱の時代に

紀元前210年に秦の始皇帝が亡くなると、中国大陸は再び動乱の時代に突入する。
燕や趙、斉からは、安住の地を求めて多くの人たちが朝鮮半島へ逃れてきた。
箕子朝鮮の準王は、彼らを西方地域に居住させた。

漢が建国、衛満は朝鮮半島へ

その後、中国大陸は劉邦によって統一され、漢(前漢)が建国された。
劉邦は幼なじみの盧綰を燕王に封じたが、彼は漢に背いて匈奴へ逃亡してしまった。
盧綰の部下である衛満も危機を感じ、兵を率いて朝鮮半島へ逃れた
準王は衛満を信任し、西方の守りを任じた。

存在が確実視できる王朝が朝鮮半島に

しかし、衛満は大陸からの亡命者を誘い入れ、着実に勢力を蓄えていく。
そして前194年、衛満は亡命民を率いて侵攻し、王権を奪って衛氏朝鮮を興した。

衛氏朝鮮が実質的には初代

「朝鮮」国号が付いた時期は不明

こうして朝鮮半島の歴史が本格的に始まったのだが、衛満は朝鮮半島出身ではなく、中国系の移民であった。(日本でも渡来系が多く政権の中枢にいた)
「朝鮮」という名称は正確にはいつから在ったのか分かっていないが「楽浪郡朝鮮県」の名に由来するようだ。
そのため、もともと国名が存在しなかった、もしくは、全く別の国名だった、という説もある。
(日本においても元々は日本ではなく「倭」と呼ばれ、恐らく「邪馬台」を自称しており、国名がいつ決まったかという歴史は紛失している場合が多い)

現在の平壌が王都だった

衛満は王険城(現在の平壌)を王都とし、漢の皇帝に臣従して東方の異民族の侵入に備える役割を担った。
そして、漢との交易で莫大な財を得て、それを元手に武力を蓄えて近隣諸国に攻め入った。

漢王朝と対立した衛氏朝鮮

高圧的だった漢

衛氏朝鮮は漢の外臣という立場にあったが、衛満の孫である衛右渠は漢の呼び出しに応じなかった。
そこで漢の武帝は、朝鮮に対して強い姿勢で臨んだ。
前109年、武帝は使とが者を派遣して衛右渠の違約を咎めた。
だが衛右渠は応じず、交渉は物別れに終わった。

漢が朝鮮の朝臣を殺害

このとき、漢の使者が見送りに来た朝鮮の朝臣を殺害したことから漢と朝鮮の関係が急速に悪化し、武力衝突が不可避となった。

中国が朝鮮半島を支配

漢が衛氏朝鮮を滅ぼす

紀元前109年、漢(前漢)の武帝は兵を動員して朝鮮半島に攻め入った。
そして翌年、衛氏朝鮮を滅ぼした。
衛氏朝鮮の滅亡後、武帝は朝鮮半島に楽浪郡臨屯郡・真番郡・玄菟郡を置き、4郡まとめて「漢四郡」と呼ばれた。
「郡」は漢王朝における地方の行政単位だが、植民地だったという説もある。
いずれにせよ、朝鮮半島北部は中華王朝の直接支配下に置かれた。

朝鮮県が設置される

楽浪郡は、本拠にあたる郡治所が朝鮮県(現在の平壌)に置かれた。
臨屯郡は楽浪郡の東、朝鮮半島の東海岸に設置され、真番郡の所在地は諸説あるが、漢本土からは楽浪郡よりも遠方にあったとされる。
そして、玄菟郡は鴨緑江の中流域から東海岸に達する地域に置かれたと考えられている。

漢による半島北部の直接支配

こうして漢王朝による朝鮮半島北部の直接支配が始まった。
日本は邪馬台国倭の五王の時代に中国王朝に金を授かり「王と認めてもらう」事で、間接的な中国の政治的干渉を(任意で)受けていたが、朝鮮半島の場合は武力による支配であった。

古代朝鮮の時代区分

箕子朝鮮は建国年代が不明なため、別個に実在した王朝が反映された伝承であるとする説もある。

西暦朝鮮半島中国
紀元前3万年 旧石器時代 旧石器時代
1万年 5000年間遺跡なし 新石器時代 夏
5000年 新石器時代/櫛目文土器文化
檀君朝鮮建国とされる
1000年 殷(商)
900年 青銅器時代/無文土器文化
古朝鮮(檀君朝鮮、箕子朝鮮、衛氏朝鮮)
西周
800年
700年 春秋時代 東周
戦国時代
600年
500年
400年
300年
200年
100年 四郡 前漢
紀元0年
100年 三韓時代(馬韓、辰韓、弁韓)、楽浪郡 新 後漢
200年 三国時代

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