中国古代史

中国 古代王朝の成立

大邑を統合して殷王朝が誕生

B.C.5000からB.C.770年ごろの間、肥沃な黄河流域で古代中国文明が開化した。
やがて、都市国家を統合し、王朝が誕生した。

黄河文明で生まれた都市国家「大邑」

中国大陸のうち、淮河(わいが)の北は乾燥した気候で、季節風で運ばれる黄土が堆積する畑作に適した肥沃な地域だ。
一方の南は、湿潤な気候で、稲作に向く地域である。
華北を流れる雄大な黄河流域には、B.C.5000ごろに、雑穀を中心に農耕と牧畜をする人々が暮らし、黄河文明が生まれた。
黄河文明は、2つの文化期、仰韶文化(ぎょうしゃ)と竜山文化(りゅうざん)に分けられ、小規模な共同体の(ゆう)から大邑(たいゆう:都市国家)へと発展した。

古代王朝「殷」

B.C.1600頃、商(しょう)という大邑を中心とする連合体として、最初の王朝である(いん:伝説上の(か)を実在とする説もある)が誕生する。
殷では、占いによって政治・軍事などの決定がなされ、その内容は甲骨文字(こうこつもじ)で記録されている。
また、青銅器の製作を始まり、精巧さ祭器類が広範囲で出土している。

周に王朝が交代

殷周革命

B.C.1100頃、西方の渭水(いすい)流域に興った氏族が殷を滅ぼし、鎬京(こうけい)を都とする王朝(しゅう:西周)を建てる。
これを殷周革命という。

周によって、王朝統治の原型が出来る

周は、天帝の神意によって王権を得たと称し、その権威によって諸侯を従えた。
周王は一族や有力氏族らを諸侯とし、各邑を封土として与えてその統治を任せる代わりに、納税や従軍を課した。

封建制

また、諸侯は、それぞれ一族や功臣を卿(けい)・大夫(たいふ)・士(し)と序列化した。
王から士に至る支配階級は、宗族(そうぞく)という血縁集団を構成し、宗法(そうほう)という規範で結束した。
こうした体制を封建制という。

春秋・戦国時代

春秋五覇、戦国の七雄が争った戦乱の時代

B.C.770からB.C.221、古代から続く周王朝が衰え、有力諸侯が覇者を目指す春秋時代を経て「戦国の七雄」の時代へ。

異民族の侵入を機に長い戦乱の時代へ

周の遷都

B.C.770、異民族が周の都、鎬京に侵入、周は都を東の烙邑へ遷都した(東周)。
遷都以降、周王の権威は衰え、自立した諸侯が各地で派遣争いを展開する、戦乱の時代となる。

春秋時代

春秋時代(東周の前期)には、200余の諸侯があったが、春秋の五覇という有力諸侯に併合されていく。
彼らは覇者とされ、周王を尊び、夷狄(いてき:異民族)を退ける尊王攘夷を名目として勢力拡大に努めた。

戦国時代

やがて、諸侯の下の大夫層が実力で政権を奪う下剋上が起こるようになり、B.C.403、大国(しん)が3国に分裂した。
諸侯が王と称して領土拡大を図るこれ以降の時代を戦国時代という。
諸侯間の争いの結果、戦国の七雄と呼ばれる7大国が分立し、それぞれ富国強兵策を取った。

「邑」から「県」へ

この時代には、鉄製農具や牛耕の登場により農業生産力が向上し、それに伴って青銅貨が鋳造されるなど、商工業も発達した。
諸侯は、治水や灌漑、未開地の開墾、新都市の建設を進めた。
諸国は支配地の邑を県という行政単位に置き換え領内支配を強めた。

諸子百家の誕生

また、戦乱の世では、支配体制を強固にするための人材と思想が求められ、諸子百家(しょしひゃっか)と称される思想家たちが活躍した。

諸子百家とは

春秋・戦国時代に、各地で活躍した思想家たちを総称して諸子百家という。
この時代は中国の社会・経済ともに大きな変動期で、それまでの封建制の崩壊により、新しい思想を生むことになった。

儒家(じゅか)
孔子(こうし)を祖とする学派。
家族に対する孝悌(こうてい)を重んじ、それを他に及ぼす仁を最高の道徳とする。
孔子の後、孟子(もうし)、荀子(じゅんし)を輩出、前漢時代には官学となった。

孔子

BC551頃〜BC479。
魯(ろ)に生まれ、周を理想として政治家を志すが叶わず、諸国放浪の後、弟子の育成に専念。
墨家(ぼっか)
墨子を祖とする学派。
手工業従事者や農民を中心とし、博愛主義の兼愛、絶対平和の非攻を唱え、儒家と並ぶ勢力となった。
法家(ほうか)
法に基づく厳格な政治を行い、権力を君主に集中させ富国強兵を図る事を説く学派。
商鞅(しょうおう)、韓非(かんぴ)らに代表される。
道家(どうか)
万物は「道」に従ってあるがままにあるとし、ただ道にのみ従って生きる無為自然の立場に身を置く事を説いた。
老子(ろうし)や荘子(そうし)らに代表される。

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