アロー戦争(第2次アヘン戦争)

アロー戦争と太平天国の乱

アヘン戦争に続くアロー戦争で西欧列強の力に屈した清国。
この敗戦を受け、北京条約と天津条約という二つの条約を結び、清の半植民地化はさらに進む結果になる。
英・仏の協力により、内戦の鎮圧には成功した清だったが、度重なる混乱による内憂外患を打破する為、近代化への改革に取り組まざるを得なくなった。

内乱とアロー戦争でさらに弱体化する清

太平天国軍の蜂起

アヘン戦争の敗北で威信を失った清では、銀の流出による銀価の高騰などで税負担が重くなり、各地で抗租運動が激化した。
また、1851年にはキリスト教と民間信仰を融合させた宗教結社(上帝会(じょうていかい))を創設した洪秀全(こうしゅうぜん)が、平等な世界を理想とする太平天国の建設を目指して広西省金田村で蜂起する。
「滅満興漢(めつまんこうかん)」を掲げて、清朝の打倒や、辮髪(べんぱつ)・纏足(てんそく)といった古い習慣の禁止を唱えた。
さらに、男女に耕地を均分する天朝田畝制度(てんちょうでんぽせいど)を発布している。
この蜂起は貧農などが加わって勢力を広げ、53年には南京を占領して天京(てんけい)と改めるに行った。
辮髪(べんぱつ)とは清朝発祥の満州固有の髪型
纏足(てんそく)とは、女性に対して、足が大きくならないようにするという風習

英・仏軍がアロー戦争を仕掛ける

一方、イギリスは56年に起きたアロー号事件を口実に、フランスと共同で清に対しアロー戦争(第二次アヘン戦争)を仕掛けた。
英・仏軍が天津(てんしん)を占領すると、清朝政府は降伏して天津条約を結んでいる。
しかし、その後、清軍が批推を拒んだため英・仏軍はさらに北上して北京を占領、60年に北京条約を結んだ。
この時、英・仏軍が北京を占領した際には、清朝の離宮だった円明園が焼き払われてしまったという。

北京条約と天津条約

2つの条約により、清朝政府は、九竜半島(きゅうりゅうはんとう)の一部をイギリスに割譲したほか、天津など11港の開港、アヘン貿易やキリスト教布教の自由化などを認めさせられた。
また翌年には外国使節の北京駐在を許可し、そのための外交事務を扱う総理衙門(そうりがもん)が設置された。

アロー号事件

イギリス人が船長を務めるアロー号の清国人乗組員が逮捕され、その際、清の官憲が船に掲げられていたイギリス国旗を侮辱したとされる事件。

太平天国の鎮圧と洋務運動

列強による太平天国の鎮圧

太平天国に対しては中立の立場を取っていた列強だが、アロー戦争後は清朝から得た権益を守る為、鎮圧に乗り出す。
曽国藩(そうこくはん)の湘勇(しょうゆう)や李鴻章(りこうしょう)の淮勇(わいゆう)などの郷勇(きょうゆう)と呼ばれる民兵組織を支援した結果、年には太平天国は崩壊した。

近代化を目指す清

太平天国は鎮圧したものの、続発する国内反乱などの内憂と、アヘン戦争やアロー戦争などの外患を抱えた清朝は、国内体制の改革を迫られる事になった。
そして、曽国藩や李鴻章ら洋務派といわれた漢人官僚は、従来の制度はそのままに、軍事と生産技術の改革を行う洋務運動を展開する。
富国強兵や民間企業の育成に一定の成果を得て、同治中興と呼ばれる安定期を演出した。

列強の侵略が中国に与えたプラスの影響

中華思想とは?

中国の王朝は古来、自己を天下で唯一最高の中心と考える中華思想を持ち続けてきた。
そのため、外国からの使節や貿易は、家臣が主に対して行う朝貢という形でしか認めてこなかった。
また、対等な国の存在を認めていないため、ここまでが中国だと規定する国境や領土といった概念が希薄だった。
こうした事からも、18世紀以降進出してきた西欧諸国とも中々対等な交流が出来ず、やがて列強による侵略を許す事となった。

近代化には中華思想がジャマだった?

1861年の総理衙門の設置は、中国にとって初めての外国との対等な交流を認めるものであった。
侵略はされたものの、結果としては、列強の進出があったからこそ、中国は古い思想に固執する事を捨てる事が出来たのだ。
勿論、部分的に妥協しただけで、完全に中華思想が無くなったわけではない。


↑ページTOPへ