世界一の経済力と軍事力を誇り、国際政治の場でも主導的な地位を築いたアメリカ合衆国。
アメリカは、もともと住んでいたネイティブ・アメリカンの土地を開拓し、移民によって築かれた国で、世界有数の多民族国家のひとつだ。
中南米では、北米以上にさまざまな民族が複雑に混血し、民族問題に根差した政治闘争が展開されてきた。民族間の差別や対立は、いまだに根強く残っている。
アメリカ合衆国の民族についてまとめる。
広大な南北アメリカ大陸であるが、意外なことに、この大陸からは、かつて類人猿が住んでいた形跡がまったく見つかっていない。
ノタルクタスという初期霊長類の化石は見つかっているが、人類へとつながる種ではない。
とすると、「インディアン」と呼ばれたアメリカ大陸の先住民たちは、現生人類に進化してかなり年月が経過してから、アメリカ大陸に移住してきたことになる。
インディアンは人種的には、アジア系モンゴロイドだ。
約3万〜2万年前の氷河期に、海面が下がり、ベーリング海峡が陸続きとなっていた時代があり、先住民族はこの時期に、ユーラシア大陸から移住してきたとされる。
この時期に、彼らは中央アジアやアルタイ山脈付近に広がり、さらにシベリアにも広がったとされる。
彼らはユーラシア北部に分布し、アジアに近接していたため、モンゴロイド人種に区分される。
彼らはシベリアを経てベーリング海峡を渡り、アメリカ大陸に移動したと考えられている。
この民族集団は同じモンゴロイドでも、いわゆるモンゴル人などと異なり、顔の彫りが深く、コーカソイド的な容貌の特徴も備えていた可能性がある。
この集団の遺伝子には、コーカソイドを特徴づけるもの(Rla)が含まれているからだ。
アメリカ先住民族は人種的にモンゴロイドに属していても、現代におけるアジア的な容貌とは異なっていたとおもわれる。
ネイティブ・アメリカンはなぜ、シベリアから極寒のベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に移動したのか。
当時の自然環境を考えれば、温暖で食物が豊かなユーラシア大陸の中央部や南部に移動するほうがいいように思える。
その理由として、シベリアやベーリング海峡付近にはマンモスやジャコウウシ、トナカイなどの大型動物が多く生息し、それらの動物を追ってアラスカに到達したという説がある。
狩猟中心で、農耕や牧畜に移行できなかったとする説もあり、その場合、大型獣は南方にはおらず、東方に進むしかなかったということになる。
ネイティブ・アメリカンの謎のひとつは、彼らが山岳地帯に住んだことだ。
メソポタミア、インダス、エジプト、中国といった有名な古代の四大文明はいずれも大河流域の平野で発生した。
そのため、四大河文明とも呼ばれる。
南北アメリカ大陸にも大河はあり、下流域には平野が広がっている。
ミシシッピ川の流域にはプレーリーと呼ばれる肥沃な大平野がある。
しかし、アラスカから南下してきモンゴロイドたちは、この大河エリアに住みついて文明を打ち立てようとはしなかった。
例えばペルーのマチュ・ピチュのような高山を選んだのである。
彼らは合理的な理由で居住地を決めたわけではない、と考えられている。
山や湖のある複雑な地形に神が宿ると彼らは考えたのかも知れない。
もちろん、それは不便な生活となるため、彼らは、海辺の人々と交流して必要な海産物を得たりしていた。
高地で牧畜民と盆地の農民による物々交換もあったらしい。
このように高度によって異なる資源を入手して生活することを、垂直統御という。
アメリカ大陸にはヨーロッパから多くの移民者が移住していったが、とくに多かったのがイギリスからの移民であった。
有名なのが、メイフラワー号で1620年にアメリカにやって来たピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖の意味)である。
当時のイギリスでは、イギリス国教会の改革を主張するグループである清教徒は弾圧を受けていた。
そんなイギリスを脱出し、新天地で理想のキリスト教社会を築こうとしたのである。
他にも、多くのイギリス人がアメリカに渡った理由として、貧困からの脱出があげられる。
17世紀になってイギリスの衛生環境は改善され、イギリスの人口は急速に膨れ上がった。
ところが乳児死亡率が減って平均寿命が長くなると、貧しい農家では分配する農地がなくなっていく。
これは都心部でも同様で、社会の許容量を超えた急激な人口増加によって失業者が溢れ、貧困者が増大した。
この傾向はヨーロッパ全土にあったが、イギリスは特に深刻だった。
そのためイギリスの貧層はアメリカを目指したが、ピルグリム・ファーザーズは、そのごく一部だった。
アメリカ大陸で、中南米はスペインが支配し、肥沃なミシシッピ川流域はフランスが支配していたため、行き先は荒れ地の広がる西海岸しかなかった。
荒れ地での耕作は非常に困難で、死者が続出したが、移民たちは清教徒としての宗教的情熱から、一歩も引くことはなかった。
単に自分たちの食い扶持を稼ぐために開拓をするのではない。
キリスト教の土地を拡張するのは、マニフェスト・ディスティニー(明白な使命)だと、彼らは信じていた。
この使命感は有色人種の異教徒の迫害をも正当化した。
アメリカにはネイティブ・アメリカンたちが住んでいたが、移民者たちは彼らを「インディアン」と呼んだ。
やがて移民者とネイティブ・アメリカンは土地、食糧をめぐって対立。
このとき銃で武装した移民たちは、異教徒である先住民に無慈悲だった。
キリスト教徒が異教徒に対して攻撃的になるのは歴史上よくみられることだ。
ネイティブ・アメリカンたちも反撃に出た。
こうして1622年から移民とネイティブ・アメリカンの、長い戦争が始まる。
1830年になるとインディアン移住法が成立。
ネイティブ・アメリカンを東部の原住地から、西部に移住させる法律で、ときの大統領アンドリュー・ジャクソンは、従わないネイティブ・アメリカンは絶滅させる、と宣言した。
戦況が不利だったネイティブ・アメリカンの多くが抵抗をあきらめてこのときに移住に応じた。
ところが、彼らはろくな食料も持たされず、徒歩での移住を強制された。
そのため西部に向かう途中で多くが生命を落とした。
2万5000年前、まずモンゴロイドがアメリカ大陸にやって来た。
17世紀になると、イギリスから白人が移民してきた。
一方、黒人は奴隷として、アフリカから連行されてきた。
最初にアフリカの黒人を奴隷にしたのはイスラム教徒で、アッバース朝の時代のことだった。
15世紀になるとスペイン、ポルトガルが黒人をヨーロッパに連れ去った。
16世紀、黒人たちは主に中南米で奴隷にされたが、そこでスペイン人が農園や鉱山を経営しており、そこで労働力として強制的に働かせれていた。
最初は現地の先住民を使っていたが、あまりに酷使したために数が減少し、アフリカに住む黒人がその穴埋めにされたのだ。
17世紀になると、大西洋三角貿易によってイギリスが組織的な奴隷貿易を開始する。
まず、イギリスから武器、繊維、ラム酒が西アフリカに船で運ばれ、黒人奴隷と交換された。
奴隷を捕まえて物々交換に応じていたのは、同じアフリカの黒人だった。
彼らはイギリス製の武器で奴隷狩りをしていたのだ。
拉致された奴隷を乗せた船は中南米や西インド諸島に向かい、そこで奴隷の代わりに砂糖を積み込んで、イギリスへと帰るのだ。
奴隷は「黒い積み荷」、砂糖は「白い積み荷」と呼ばれた。
この大西洋貿易は当初、奴隷商人や投資家に莫大な利益をもたらした。
北大西洋の海流は時計回りで流れており、三角貿易の航路としては最適だった。
また常に荷物を積んでいたため無駄がなかった。
18世紀前半、イギリスで産業革命が起きると、綿花の需要が増大した。
そこで奴隷たちは、北アメリカ大陸の南部の綿花プランテーンに売られるようになった。
綿花は新たな「白い積み荷」として砂糖とともにヨーロッパに送られた。
こうしてアメリカ大陸に大量の奴隷が送りこまれ、その子孫が、現在のアメリカの黒人なのだ。
1783年、アメリカはイギリスから独立したが、奴隷貿易は変わらず続いた。
18世紀後半までにアフリカから連行された黒人は約1000万から約1500万人に達したといわれる。
その結果、アフリカの黒人は数が減り、卸値が急騰、一方で砂糖も綿花も生産量増大で価格が低下した。
1807年、イギリスは利益率が下がった奴隷貿易を禁止した。
「非人道的」だと批判する世論も存在したため禁止とされ、翌年、アメリカでも奴隷輸入が禁止された。
ただし、禁止されたのは奴隷輸入であり、奴隷制自体がなくなったわけではなかった。
18世紀中盤、アメリカ北部にも産業革命の波が押し寄せ、工業化が進む。
労働力の不足に悩む北部の工場経営者たちは南部の黒人奴隷の労働力に目を付けた。
南部の奴隷を解放すれば、自分たちの労働力とできるからだ。そこで彼らは奴隷制廃止を画策した。
イギリスと同様に奴隷制度の非人道性に憤っていた白人はアメリカにもいた。
北部の奴隷制廃止論者は自由黒人(主人から解放された黒人など)と協力して「地下鉄道」という秘密組織を結成。
南部の奴隷を北部や奴隷制のないカナダに逃亡させていた。
また、1861年には奴隷制廃止論者の大統領エイブラハム・リンカーンが登場した。
彼と北部工場経営者の利害は一致し、北部は奴隷解放に向けて動き出した。
北部の動きに南部諸州は激しく反発、奴隷なしでは綿花プランテーションが成立しないからだ。
1861年、南部諸州はアメリカ連合国を結成して北部に戦争を仕掛けた。(アメリカ南北戦争)
この戦争は4年後、北部の勝利で終わり、奴隷は解放されて職業を選択する権利を得た。
しかし、その選択肢はどれも、安価な労働ではあった。