かつては、アフリカにもアフリカ人による王国、クシュ王国やガーナ王国が存在していた。
しかし、それらの王国は、アラブ人の国(アクスム王国)やイスラム教の影響を受けた国(マリ王国)によって滅ぼされてしまった。
そしてアフリカではキリスト教やイスラム教が普及、純粋なアフリカ人・アフリカ宗教による王国が栄える事はなかった。
やがて、アフリカはヨーロッパ人の侵略を受けるようになるが、その植民地支配から解放された現代でも、多くの宗教対立が続いている。
アフリカでは、地形や天候の影響からか、ユーラシア大陸のような広大な版図を有した帝国は出現しなかった。
しかし、紀元前10世紀にはナイル川上流にアフリカ最古の黒人の王国が成立している。
当時エジプトで栄えていたエジプト新王朝に対抗して、クシュ人が樹立した王国だ。
紀元前7世紀くらいからエジプトに侵入するようになったアッシリア人から製鉄技術を学び、黄金時代を迎えた。
紀元前6世紀には遷都を機にクシュ王国はメロエ王国となったが、4世紀にエチオピアのアクスム王国に攻撃され、滅亡した。
アクスム王国は黒人ではなく、アラビア半島南端から移住してきたアラブ人の国だ。
アラブ人はクシュ王国領に入ってそこの住民(黒人)と混血していった。
このことが、現在でも東アフリカ人の容姿を特徴づけている。
西アフリカ人よりも鼻が高く、顔の彫りが深いのだ。
アラブ人はコーカソイドなので、その特徴が顔に出ているのである。
アクスム王国では言語もアラビア語化していた。
また、アクスム王国人はヨーロッパと交易していたので、キリスト教の影響を受けていた。
このため、東アフリカにはキリスト教も入ってきた。
彼らはその言語から、アフロ・アジア語族と分類されている。
一方、アフリカ西岸ニジェール川流域の住人は、混血することがなかった。
この地域の人々を、ニジェール・コンゴ語族と呼ぶ。
彼らは北部がニジェール派、南部がバンツー派に分けられる。
ニジェール・コンゴ語族の地域ではクシュ王国のような、ある程度の規模を持った王国は誕生しなかった。
紀元前3世紀頃から、この地域ではイモ、コーヒー、ヤシなどの栽培が行われ、経済的に発展していたと思われるが、諸部族に分かれて生活していた。
周辺にエジプトやエチオピアのような大国がなかったため、平和を維持できたのだ。
しかし、農業技術がさらに向上して人口が増大すると、諸部族は土地をめぐって対立するようになり、部族同士の連携が進んだ。
こうして出現したのが、8世紀に成立したガーナ王国だ。
ガーナ王国は豊富に産出した金をアラブ商人が持ちこんだ岩塩と交換した。
そのガーナ王国を13世紀に滅ぼのしたのはマリ王国である。
マリ王国の民族はガーナ王国と同じだったが、ひとつ異なる点があった。
イスラム教を導入したのである。
14世紀前半、王国の最盛期には国王マンサ・ムーサは金をバラまきながらメッカへ巡礼し、その豪華さはヨーロッパにまで伝わったという。
しかし、このような行いが侵略を招いてしまった。
西アフリカの人々はアラブ商人と取引し、イスラム教も受け入れたが、混血はしなかったとみられ、これが、東西民族の個性の違いになっている。
マリ王国を15世紀後半に滅ぼしたソンガイ王国は黄金目当てのサアド朝モロッコの軍隊によって16世紀末に壊滅させられた。
なお、このときには、この地域の金は枯渇していたという。
そして次の王国が出現する間もなく、この地域はヨーロッパ人の侵略を受けるようになる。
アフリカ南部にはコイサン語族が存在する。
ニジェール・コンゴ語族に属さない、独立した言語を使用する人々だ。
アフリカ最古の人種といわれ、初期ホモ・サピエンスの特徴を残しているとされる。
近年のアフリカではキリスト教徒とイスラム教徒が各地で衝突している。
とくに中央アフリカ共和国では1960年の独立以来、幾度ももクーデターが起こっており、キリスト教徒とイスラム教徒が常に政権をめぐって争っている。
スーダン内戦の原因も宗教対立だった。
イスラム教徒が多い北部とキリスト教徒が主流派の南部の間で内戦が続いた。
南部は2011年に南スーダン共和国として独立したが、スーダンとの国境紛争は絶えず、また国内に住むわずかなイスラム教徒の反政府活動も激しい。
中央アフリカには金やダイヤモンド、南スーダンには石油があるが、つまり、富をもたらす地下資源がある国でこそ宗教対立が顕著だともいえる。
これらの国々では宗教対立に加え、資源の利権争いが生まれ、争乱を招いている。
エチオピアとエリトリアと長年にわたり争いが続いてきた。
このふたつの国はどちらも1952年、イギリスの保護領から独立してエチオピア・エリトリア連邦として独立した。
両国は対等のはずだったが、10年後にエチオピアがエリトリアを併合した。
エチオピアの支配に反発したエリトリア側は、ただちに独立運動を開始した。
当時のエチオピアは帝政で、世界で最後の帝国と呼ばれていたが、1974年にメンギスツ少佐によるクーデターが起き、帝政は崩壊。
メンギスツが独裁体制を敷く社会主義国家となった。
エリトリアとの独立をめぐる戦闘も継続された。
1991年、エリトリアの武装勢力がエチオピア首都のアジスアベバに突入し、メンギスツ政権は崩壊した。
エチオピアはエリトリアの分離独立を承認したが、今度は国境をめぐって両国は対立するようになる。
国連の介入による停戦合意はそのたびに破られ、隣国でイスラム教国のソマリアがエリトリア側に立ち、事態はますます複雑になった。
さらに2006年には、アメリカがエチオピアに肩入れしてソマリアに侵攻している。
2018年、和平交渉がはじめられ、サウジアラビアの仲介でエチオピアとエリトリアの両国は「ジッダ平和協定」に署名した。
しかし、まだ予断を許されない状況である。
アフリカの宗教対立は、サハラ砂漠南部の北緯10度を境界線として起きている。
サハラ砂漠以北がイスラム教、以南がキリスト教の勢力圏なのだ。
このような境界ができた経緯だが、一時期、アフリカのほとんどはイスラム圏だった。
しかし、ヨーロッパの侵略がはじまると、自分たちの文明、宗教が優れていると思いこんでいる侵略者たちは、植民地で布教を行った。
植民地の上層階級は宗主国に迎合するために改宗し、それが庶民にも影響していった。
こうしてアフリカ中部以南は、キリスト教圏となったのである。
イギリスやドイツの植民地がプロテスタント、フランスが支配した地域がカトリックになった。
もともとアフリカに先住していた多くの黒人にとってイスラム教は、他民族がもたらした外来の宗教であり、キリスト教への改宗に抵抗感がなかったとされる。
一方、サハラ砂漠以北の地域に住むアラブ人の血を引く民族はイスラム教からキリスト教への改宗を拒否した。
アラブの血を引く民族は、イスラム教への信仰心が強かったのだ。