ツバキの花は古来から日本人に愛され、京都の龍安寺には室町時代のツバキが残っている。
文献資料においては『古事記』と『日本書紀』という最古の歴史書にもその名前が登場しており、日本人とツバキの関わりはとてつもなく長い。
ツバキ(椿、海柘榴)またはヤブツバキ(藪椿、学名: Camellia japonica)は、ツバキ科ツバキ属の常緑樹。
日本が原産で、本州、四国、九州、南西諸島から、それに国外では朝鮮半島南部と台湾から知られる。
本州中北部にはごく近縁のユキツバキがあるが、ツバキは海岸沿いに青森県まで分布し、ユキツバキはより内陸標高の高い位置にあって住み分ける。
他家受粉で結実するため、またユキツバキなどと容易に交配するために花色・花形に変異が生じやすいことから、古くから選抜による品種改良が行われてきた。
ツバキは『日本書紀』において、その記録が残されている。
景行天皇が九州で起こった熊襲の乱を鎮めたおり、土蜘蛛に対して「海石榴(ツバキ)の椎」を用いた。
これはツバキの材質の強さにちなんだ逸話とされており、正倉院に納められている災いを払う卯杖もその材質に海石榴が用いられているとされている。
733年の『出雲風土記』には海榴、海石榴、椿という文字が見受けられる。
『万葉集』において、ツバキが使用された歌は9首ある。
『源氏物語』においても「つばいもち」として名が残されている。
室町八代将軍・足利義政の代になると、明から椿堆朱盆、椿尾長鳥堆朱盆といった工芸品を数多く取りよせ、彫漆、螺鈿の題材としてツバキが散見されるようになった。
豊臣秀吉は茶の湯にツバキを好んで用い、茶道においてツバキは重要な地位を占めるようになる。
江戸時代に入ると、二代目将軍徳川秀忠がツバキを好み、そのため芸術の題材としてのツバキが広く知られるようになった。
この時期、烏丸光広、林羅山が相次いで『百椿図』を描き、絵画、彫刻、工芸品へツバキが定着する。
また、ツバキの栽培も一般化し、園芸品種は約200種にも及んだ。
江戸の将軍や肥後、加賀などの大名、京都の公家などが園芸を好んだことから、庶民の間でも大いに流行し、たくさんの品種が作られた。
好事家たちが、葉の突然変異を見つけ出し、選抜育成して観賞した。
茶道でも大変珍重されており、冬場の炉の季節は茶席が椿一色となることから「茶花の女王」の異名を持つ。
武士はその首が落ちる様子に似ているというのを理由にツバキを嫌った、という話もあるがそれは幕末から明治時代以降の流言であり、江戸時代に忌み花とされた記述は見付からない。
西洋に伝来すると、冬にでも常緑で日陰でも花を咲かせる性質が好まれ、大変な人気となり、西洋の美意識に基づいた豪華な花をつける品種が作られた。
年を経たツバキは化けるという言い伝えが日本各地に残る。
新潟の伝説では、荒れ寺に現れる化け物の正体が椿の木槌であったり、島根の伝説では、牛鬼の正体が椿の古根だったという話がある。
ツバキの花は花弁が個々に散るのではなく、多くは花弁が基部でつながっていて萼を残して丸ごと落ちる。
それが首が落ちる様子を連想させるために、入院している人間などのお見舞いに持っていくことはタブーとされている。
この様は古来より落椿とも表現され、俳句においては春の季語である。
なお「五色八重散椿」のように、ヤブツバキ系でありながら花弁がばらばらに散る園芸品種もある。
和名の「つばき」は、厚葉樹(あつばき)、または艶葉樹(つやばき)が訛った物とされている。
「椿」の字の音読みは「チン」で、椿山荘などの固有名詞に使われたりする。
なお「椿」の原義はツバキとは無関係のセンダン科の植物チャンチン(香椿)であり、「つばき」は国訓、もしくは、偶然字形が一致した国字である。
歴史的な背景として、日本では733年『出雲風土記』にすでに椿が用いられている。
その他、多くの日本の古文献に出てくる。
中国では隋の王朝の第2代皇帝煬帝の詩の中で椿が「海榴」もしくは「海石榴」として出てくる。
海という言葉からもわかるように、海を越えてきたもの、日本からきたものを意味していると考えられる。
榴の字は、ザクロを由来としている。
中国において、ツバキは主に「山茶」と書き表されている。