アサガオ(朝顔)

アサガオ(朝顔)の歴史

ヒルガオ科サツマイモ属の一年性植物で、日本で最も発達した園芸植物・古典園芸植物。
江戸時代には、江戸でアサガオブームが起き、観賞用として園芸種がたくさん栽培されるようになる。
この花は古来より日本に存在したが、その原産地は日本ではない。

アサガオ(朝顔)

アサガオ(朝顔)

アサガオの原産地

アサガオの原産地は良く分かっていない。
中国との説が有力だが、自生種が存在することから、ヒマラヤ・ネパールから中国にかけての地域、熱帯アジア、熱帯アメリカなどの説がある。

中国におけるアサガオ

アサガオは中国では、「牽牛子(けにごし、けんごし)」「牽牛(けにご・けんご)」と呼ばれており、当時の中国でアサガオは薬用植物として扱われていた。
中国の『名医別録』(4世紀頃)にも記述があり、かなり古くから認知されていたようだ。
牽牛子または牽牛という名前は、朝顔の種子と牛が交換されたとことに由来している。
当時はとても貴重なものだったため、高値で取引されていた牛と交換していた。

日本におけるアサガオの歴史<

奈良時代 日本の伝来

日本への到来は、奈良時代末期に遣唐使がその種子を薬として持ち帰ったものが最初である。
アサガオの種の芽になる部分には下剤の作用がある成分がたくさん含まれており、漢名では「牽牛子(けにごし、けんごし)」と呼ばれ、奈良時代、平安時代には薬用植物として扱われていた。
和漢三才図会には4品種が紹介されている。
中国から入ってきた当時の朝顔は、現代のアサガオの姿とは違っており、丸い小さな青い花を咲かせていたという。
広島県の厳島神社に奉納された写経の巻物 「平家納経」(1164年)に、この青色の朝顔が描かれている。
なお、遣唐使が初めてその種を持ち帰ったのは、奈良時代末期ではなく、平安時代であるとする説もある。
この場合、古く万葉集などで「朝顔」と呼ばれているものは、キキョウあるいはムクゲを指しているとされる。

ホシアサガオ

ホシアサガオ

「朝顔」と呼ばれる花は複数あった?

奈良・平安時代には「アサガオ」と呼ばれる花が数種類あったといわれている。
当時は、朝に花が開く花をまとめて「朝顔」と呼んでいたようで、当然その花の数だけ「アサガオ」が存在した。
その習慣をうかがわせる歌が『万葉集』に残っており、日本最古の和歌集『万葉集』には、アサガオを詠んだ歌が5首残っている。

『万葉集』の一首

「朝顔は 朝露負ひて 咲くといへど 夕影にこそ 咲きまさりけり」という歌が残されているとが、これを現代語に訳すると「朝顔は朝露を浴びて咲くというが、夕方の薄暗い光の中でこそ輝いて見える」といったところ。
この歌を詠むと“アサガオは夕方まだ咲いている”と取ることが出来る。
その為、この歌に出てくる「朝顔」は、キキョウやムクゲを指しているいわれているのだ。
中国からアサガオ(牽牛子)が伝わる前から、日本には「朝顔」と呼ばれていた花が複数あったという事。

ムクゲ

ムクゲ

平安時代 アサガオが区別される

アサガオ(牽牛子)と、朝に咲く花一般としての「朝顔」の区別は、平安時代より徐々に広がっていった。
どこまで明確に区別していたのかは諸説あり、例えば、清少納言の『枕草子』の第46段「草の花は」にも、アサガオは登場している。
そこでは、アサガオを「大和のなでしこ」として、オミナエシ、キキョウ、カルカヤ、キク、ツボミスミレと並べて褒めた讃えている。
ここで清少納言はアサガオと、キキョウを区別している事が分かる。
ただし、平安時代ではまだ、アサガオ(牽牛子)と、朝に咲く花全般の「朝顔」の両方が人々に認知されていたと推測される。

キキョウ

キキョウ

安土桃山時代

アサガオにまつわる説話

アサガオには、日本の粋の文化を象徴する説話も残されている。
豊臣秀吉と茶人・千利休の間には一輪の朝顔にまつわる説話だ。
利休の屋敷のアサガオが素晴らしく咲き誇っていると聞いた秀吉は、利休に庭を見せて欲しいと頼む。
ある朝、利休から招かれた秀吉が利休の庭で見たものは、花を全て刈りとられたアサガオであった。
「アサガオなんてないじゃないか!」と驚く秀吉。
しかし、茶室を見ると、その床の間に一輪だけ朝顔が生けられていたという。
簡素な茶室に一輪だけ生けられた朝顔の美しさに、秀吉はいたく感嘆したようだ。

マルバアサガオ

マルバアサガオ

江戸時代 2度のアサガオブーム

時を経て江戸時代になると、アサガオ(牽牛子)と朝に咲く花全般の「朝顔」は明確に区別されていった。
また、江戸時代は草花の品種改良が盛んに行われていた時代。
イギリスの植物学者のロバート・フォーチュンは1860年に江戸を訪れると、「世界一の園芸都市」と称賛したほど。
数多くの草花の新種が生まれる中、朝顔は空前のブームを起こす。

アサガオ(朝顔)

アサガオ(朝顔)

品種改良の歴史

江戸時代の2度のアサガオブームを機に品種改良が大きく進んで観賞用植物となり、木版の図譜類も多数出版された。
この時代には八重咲きや花弁が細かく切れたり、反り返ったりして本来の花型から様々に変化したものが生まれた。
これらのアサガオを現代では「変化アサガオ」と呼ぶ。変化アサガオは江戸、上方を問わず大きく流行し、特に珍しく美しいものは、オモトや菊などと同様、非常に高値で取り引きされた。
「大輪アサガオ」も「正木(まさき)」と呼ばれる結実する変化アサガオの一種である。
江戸時代の変化アサガオブームは、文化・文政期(1804年-1830年)、嘉永・安政期(1848年-1860年)にあり、幕末には約1200系統が作られた。
ブームの発端は、文化3年(1806年)の江戸の大火で下谷に広大な空き地ができ、そこに下谷・御徒町村付近の植木職人がいろいろな珍しいアサガオを咲かせたことによる。
その後、趣味としてだけでなく、下級武士の御徒が内職のひとつとして組屋敷の庭を利用してアサガオ栽培をするようにもなった。

熊本藩

熊本藩では武士たちによる園芸が盛んで、アサガオも花菖蒲や菊、芍薬、椿、山茶花などと共に愛好されており、盛んに育種されて独自の系統が生まれた。
この花は変化アサガオとは違い、本来のアサガオの花型を保ち、大輪であり、「肥後アサガオ」と呼ばれる。
これが後世の大輪アサガオの祖先の一つになった。
これら熊本の六種類の園芸植物は現在「肥後六花」と総称され、熊本に伝えられている。

明治以降

明治時代以降も変化アサガオは発展して、「東京アサガオ研究会」などの愛好会が生まれた。
この頃にはあまりな多様性よりも花型の洗練が追求され、対象となる花型が絞られた。
当時の名花は石版画や写真として残されている。

やがて花型の変化ではなく、花径の大きさを追求する「大輪アサガオ」が発展し始める。
通常のアサガオの曜の数は5弁であるが、「大輪アサガオ」では曜の数が6-9弁程度に増える。
この曜の数を増やす変異は「州浜」と呼ばれ、肥後アサガオにもみられる。
この州浜変異をもつ系統を、他の系統と交配することにより次第に発展し、「青蝉葉系」と「黄蝉葉系」が生まれた。
前者は成長が早いため「行灯(あんどん)作り」、後者は「盆養(切り込み)作り」「数咲き作り」という仕立て方で咲かせるのが本式である。
行灯作りとは、支柱三個に輪が三つついている支柱、あるいは、らせん状にまいた針金を竹に取り付けたものに蔓を絡めていき仕立てをする方法である。
切り込み作りは、茎を切り込んで脇芽を出し、背丈の低い引き締めた形、まるで盆栽のように作る方法である。
名古屋式が有名であるがそれを、容易な栽培方法にした切り込み作りも良く見られる。
数咲き作りは同じように切り込んでいくが、一辺に多くの花を咲かせる仕立て方で京都式が有名である。

戦後

戦後は大輪アサガオが主流を占めるようになり、直径20cm以上にもなる花を咲かせることのできる品種も現れた。
もちろんそのためには高度な栽培技術が確立されたことも重要である。
変化アサガオは維持が難しいためごく一部でのみ栽培されているが、最近再び注目されつつある。

アメリカアサガオ

アメリカアサガオ

育種

おおよそは、江戸時代に突然変異により作られた品種をベースに交配を重ねて新しい品種がつくられている。
これを育種と呼ぶが、現代でもこの育種は積極的に開発されている。

アサガオの売買とアサガオ市

アサガオは別名「牽牛」といい、これは中華文化圏での名称でもあるが、アサガオの種が薬として非常に高価で珍重された事から、贈答された者は牛を引いて御礼をしたという謂れである。
平安時代に日本にも伝わり、百薬の長として珍重された。
その後、江戸時代には七夕の頃に咲く事と、牽牛にちなみアサガオの花を「牽牛花」と以前から呼んでいたことから、織姫を指し、転じてアサガオの花を「アサガオ姫」と呼ぶようになり、花が咲いたアサガオは「彦星」と「織姫星」が年に一度出会えた事の具現化として縁起の良いものとされた。
これらの事により、夏の風物詩としてそのさわやかな花色が広く好まれ、鉢植えのアサガオが牛が牽く荷車に積載されて売り歩かれるようになった。

アサガオ(朝顔)

アサガオ(朝顔)


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