アジサイ(紫陽花)

アジサイ(紫陽花)

初夏・梅雨の季節に咲く鮮やかな色のアジサイ。
アジサイは古くから日本人に愛され、知名度も高い。
自然の花は勿論、花壇で咲いているアジサイもよく見掛ける
アジサイの名所として観光名所になっている場所も全国にあり、鎌倉にある長谷寺も、アジサイの名所である。

奈良時代から記録が残るアジサイ

アジサイは日本原産の植物で、文献資料では奈良時代から記録がある。
ただし、アジサイが現在の様に観賞用の植物として親しまれるようになったのは戦後、極めて近年の事である。

ホンアジサイ

ホンアジサイ

アジサイの原産地は日本

実は沢山の種類があるアジサイ

アジサイはアジサイ科アジサイ属の植物で原産は、日本に自生しているガクアジサイと呼ばれるモノである。
海岸沿いで自生することから「ハマアジサイ」とも呼ばれる。
ただアジサイの「花弁」であるが、一見花にみえる大きなヒラヒラしたモノは「ガク」である。
ガクとは、花弁の基部・外側にある花葉の事で、アジサイはこのガクが花のように見える珍しい植物なのだ。
アジサイの本当の花弁は、このガクの中心にある小さい粒々である。
小さな花びらが5枚ほどついた花が咲きます。
このガクアジサイが変化したホンアジサイで、ガクアジサイがヨーロッパで品種改良されたモノをセイヨウアジサイと呼ぶ。

ガクアジサイ

ガクアジサイ

ガクアジサイの花弁

ガクアジサイの花弁

アジサイの歴史

アジサイは日本原産で、古い時代から自生していたが、歴史的には、1000年ほどの間忘れ去られてしまったといえる経緯のある不思議な植物だ。
一説には、アジサイは開花してから花の色が変わっていくことが移り気あるいは不道徳であると考えられたという説がある。
恐らく、品種改良が行われる前のアジサイは「花」に見えないシックなモノであったのだろう。

名前の由来

アジサイの漢字を「紫陽花」としたのは、平安時代中期の歌人・学者である源順(みなもとのしたごう)といわれる。
源順は、中国の白楽天の詩に登場する「紫陽花」の特徴から、ガクアジサイと同じ花と考え、この漢字を当てている。
しかし、アジサイは日本の固有種である為これは誤りで、白楽天が詩に詠んだ花とは違うモノであったようだ。
「アジサイ」という名前の由来として有力なのが、「集真藍」(アズサアイ)がなまったとされる説だ。
「あず」はものが集まることを意味し、「藍色が集まった」という意味である。
青い花が集まって咲く様を言い表したのかも知れない。

七変化(シチヘンゲ)

アジサイには「七変化(シチヘンゲ)」「八仙花」という別名がある。
咲き始めは白色で、時が過ぎるとともに水色から青色に変化し、夏には緑色に変わる事から付いた名前である。

奈良時代

日本においてアジサイが書物に登場したのは『万葉集』が最初であり、アジサイも2首の歌が詠まれている。
この2首の中で、アジサイは「味狭藍」「安治佐為」と記述されており、奈良時代はアジサイの漢字表記が統一されていなかったようだ。
『万葉集』に詠われた歌を紹介する。
「言問はぬ 木すら味狭藍 諸弟(もろと)らが 練の村戸(むらと)に あざむかえけり」
現代語に訳すると「物言わぬ木でさえ、紫陽花のように移り変わりやすい。諸弟らの巧みな言葉に、私は騙されてしまった。」
色を変えながら枯れていく紫陽花の様を、ころころと言葉や態度を変える人に例えている。
「安治佐為の 八重咲く如く やつ代にを いませわが背子 見つつ思はむ」
現代語に訳すると「紫陽花のように群がって咲く花のように、いつまでも健やかにおいでください。この花を見るたびにあなたを想います。」
奈良時代のアジサイは、決して目立つ存在ではなかったようだが、当時の日本人がアジサイを見て想いを馳せていた事は間違いないようだ。

平安 〜 鎌倉時代

平安時代に編纂された漢字辞典『新撰字鏡』(894〜900年刊)には「安治左井」と記されている。
『万葉集』の頃とは少し字が変わっている。
また、平安中期に作成された辞書『倭名類聚抄』(930〜937年刊)には「安豆佐為」との記述がある。
発音は「アジサイ」または「アズサイ」であった事が窺える。
平安時代に編纂された『古今和歌六帖』には、このような歌が載っている。
「あかねさす 昼はこちたし あぢさゐの 花のよひらに 蓬ひ見てしがな」
現代語に訳すと「昼は人の噂がうるさいので、紫陽花の花びらが4枚(よひら)であるように、宵(よひ)になったら逢いたい」
ここでは、「花のよひら」が紫陽花の花びらが4枚であることを意味しており、この「よひら」と宵の「よひ」という言葉をかけている。
ただし、平安時代を代表する書物、『源氏物語』『枕草子』『古今和歌集』などには、アジサイの記述は確認されていない。

ガクアジサイの花弁とガク

ガクアジサイの花弁とガク
ガクは4枚、花弁が5枚ある。
「よひら」とはガクの事であろう。

安土桃山時代

小さな花が集まって球状に見える、手まり咲きのアジサイの記録があるのは、安土桃山時代に入ってからの事である。
この時代、画家による最も古い紫陽花画が登場駿河、作品名は「松と紫陽花図」という。
織田信長豊臣秀吉にも仕えた画家、狩野永徳の作であり、現在京都の南禅寺に所蔵され、重要文化財に指定されている。

江戸時代

江戸時代になると、尾形光琳や俵屋宗達、酒井抱一ら画家によってもアジサイが描かれている。
文献では、江戸時代の日本初の園芸書『花壇網目』(1664)や『花壇地錦抄』(1696)にアジサイが登場している。
当時の江戸は世界に誇れる園芸文化が根付いていたが、アジサイはまだそれ程人気ではなかったようだ。
アジサイは簡単に増やせるため、植木屋などがアジサイを売りたがらなかったのが原因といわれる。
ただし、松尾芭蕉はアジサイに関する俳句を、葛飾北斎は「あじさいに燕」という絵画を残している。

幕末

江戸時代末期長崎の出島ではシーボルトとうドイツ人医師が日本に滞在していたが、シーボルトとアジサイは関係が深い。
シーボルトは「お滝」という日本人女性と結ばれ、日本で子を残す事となる。
その後、シーボルトはトラブルから国外退去処分となり、母国オランダへ帰国する(シーボルトは国籍を偽っていた為)。
帰国後、植物学者のツッカリニと共に『日本植物誌』を著し、その中でアジサイ属の花14種を新種として紹介している。
シーボルトが欧州に持ち帰ったアジサイが、欧州で人気を博し品種改良が盛んになる。
そして、現在では欧州で作出されたアジサイが日本に逆輸入されているのだ。
その逆輸入されたアジサイの中には「Otakusa」という名前の花がある。
この「Otakusa」という名前はシーボルトが付けたといわれる。

明治・大正時代

アジサイは1789年には、中国に伝わっていたものがロンドンに送られ、1900年代のはじめにはフランスで育種が始まる。
これがセイヨウアジサイへと発展、大正時代には西洋で改良を受けたアジサイが日本へ入って来る。

戦後

第二次世界大戦後、観光資源として注目され、アジサイは非常に人気の花の代表種となっていく。
全国には、アジサイの名所が数多くあるが、アジサイの名所は寺院などが非常に多い。
これには理由があり、アジサイが死者に手向ける花だと考えられた事に由来するそうだ。

米国に渡った品種たちは一部が鉢物に仕立てられ、戦後にその生産技術とともに品種が日本に伝わり、「西洋アジサイ」や「ハイドランジア」と呼ばれる。
日本のハイドランジアの生産増加の端緒を開いた品種が「ミセスクミコ」と呼ばれるモノ。
昭和59年に種苗登録が申請され、温かな桃色で巨大な花房をつける手まり咲きで、一世を風靡する。
その後も様々な品種が生まれている。

エンゲイアジサイ サンドラ

エンゲイアジサイ サンドラ

アジサイの分類

ガクアジサイ
房総半島、三浦半島、伊豆半島、伊豆諸島、足摺岬、南硫黄島、北硫黄島で海岸に自生する。
このため、ハマアジサイとも呼ばれる。
ホンアジサイ
日本原産のガクアジサイの品種だが、自生しているという説もあり、起源ははっきりしない。
花序はほとんど装飾花のみからなり、種子ができるのはまれであるため、挿し木や株分けで増やす。
古く日本から中国へ伝わったものが、18世紀にさらにヨーロッパへと持ち込まれ、多くの園芸品種が作られた。
日本では輸入したものがセイヨウアジサイとも呼ばれる。
ヤマアジサイ
本州では関東より西、また四国、九州などの山地に分布する。
千島列島、台湾、中国南部の山地にもみられる。
ガクアジサイと比べ、花の色が多様性に富む。
ガクアジサイ 花火

ガクアジサイ 花火


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