「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる
2018.11.16


明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」の8日後に、信長の重臣として知られる柴田勝家が織田方に宛てた直筆の書状が新潟県新発田市で見つかりました。光秀の討伐に出遅れた勝家が、当時、京都から大阪に展開していた光秀の居場所を正確に把握できていなかったことがうかがえる内容で、専門家は「本能寺の変直後の勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ」と指摘しています。

今回見つかった書状は、本能寺の変の8日後の天正10年6月10日、今の福井市の居城にいた柴田勝家が、織田方の武将、溝口半左衛門に宛てて書いたものです。

郷土史に詳しい新潟大学の冨澤信明名誉教授が新発田市の溝口家に残る歴史資料の中から見つけました。

書状の冒頭には、「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」と、本能寺の変について勝家の驚きのことばが記されています。そして明智光秀が、拠点としていた江州、今の滋賀県にいるとみて、当時の大坂にいた織田方の重臣、丹羽長秀と連携して光秀を討伐する計画を明らかにしています。

調査にあたった専門家によると、本能寺の変のあと勝家が光秀の居場所に言及したものが見つかったのは初めてで、光秀討伐に出遅れた勝家が当時、京都から大阪に展開していた光秀の動きを把握できていなかったことがうかがえます。

調査にあたった三重大学の藤田達生教授は「本能寺の変のあとの勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ。今後は、そうした状況のなかでなぜ、豊臣秀吉が光秀討伐に素早く動けたのかという点に関心が高まるのではないか」と話しています。
2018.11.16 13:58
飛鳥時代の舎利容器発見 当麻寺西塔から
2018.11.14


奈良県葛城市の当麻寺西塔(国宝)の心柱最上部から、三重の入れ子式となった金、銀、金銅製の舎利容器が見つかり、同寺と奈良国立博物館などが14日発表した。舎利容器は飛鳥時代後期(7世紀後半)に制作された現存最古級と推測され、仏教工芸史における貴重な資料といえそうだ。

県文化財保存事務所が昨年度、西塔の修理に際して調査したところ、高さ22メートルの心柱最上部に木製の蓋をした掘り込みを発見。その中で見つかった銅筒に舎利容器が収められていた。

奈良国立博物館による詳細な調査の結果、舎利容器はほぼ球形で、外側から金銅製(高さ約9センチ、直径約10センチ)、銀製(高さ、直径とも約3センチ)、金製(同約1センチ)の3つの容器が入れ子式になっていた。最も内側の金製容器には、舎利1粒を紙に包んで収納。容器はいずれも輝きを残し、美しい姿を保っている。

仏教を開いた釈迦の遺体は金、銀、銅、鉄製からなる四重の棺に安置されたとされ、三重入れ子式の舎利容器はその伝承に基づく。国内では飛鳥時代後期に多く作られたとされ、セットで残っていたのは、法隆寺五重塔(奈良県斑鳩町)や崇福寺塔跡(大津市)で見つかったものなどわずか数例。今回確認された容器は、当時の信仰や美術工芸について知るとともに、謎に包まれた当麻寺の創建期を探る手がかりにもなりそうだ。

舎利容器は奈良国立博物館に保管され、来年2月19日~3月14日に公開される予定。当麻寺西塔には、新たに制作された複製品が納められるという。

奈良国立博物館の内藤栄学芸部長は「3点セットである上、きれいな状態で残っている。白鳳期(飛鳥時代後期)のものとして(国宝の)崇福寺の容器と双璧になるだろう」と話している。
2018.11.14 20:47
発掘:信長の屋敷跡か 小牧山城で礎石見つかる
2018.11.14


織田信長が築城したとされる愛知県小牧市の小牧山城の発掘調査で、同市教育委員会は14日、山頂の天守(主郭)近くに屋敷建物があったことを示す礎石が見つかったと発表した。信長か身内の居宅だった可能性がある。天守近くに居宅があるのは近世城郭の特徴の一つで、市教委は「小牧山城が(岐阜城や安土城に先立つ)近世城郭のルーツとの見方が一層強まった」としている。

礎石は天守の南東側斜面下の平たん地で8個見つかり、周囲には玉石敷もあった。礎石は建物2棟の柱を支えていたとみられ、1.5~1.7メートル間隔でほぼ1列に並んでいた。建物2棟の大きさは不明。玉石敷は長さ約5メートル、幅約50センチで、同じ場所から天目茶わんや青磁の小わんなどの破片数点も出土した。

これまでの発掘調査では、天守周辺の平たん地がどのように使われたか不明だった。今回の調査で屋敷が建ち、しかも格式の高い茶室などの建物向けとみられる玉石敷や高級な陶器片が確認されたことで、信長一族の居宅があった可能性が高いという。

天守近くに居宅などの城主の生活空間が設けられたのは、これまで1567年に信長が岐阜城を攻略して設けたのが初めてとされていた。小牧山城は信長が岐阜に侵攻する4年前に築城されたことから、同城の方が早かったことになる。

小牧山城では2011年の発掘調査で天守を囲む石垣が見つかっており、当時、最古の石垣は1576年築城の安土城とされていた定説を覆した。今回の発見について、滋賀県立大の中井均教授(日本考古学)は「戦国時代の山城は防御空間だったが、信長は岐阜城に居住空間を構えた記録がある。だが今回の発見で小牧山城にさかのぼることが明らかになった。さらに玉石敷は特別な建物を示しており、信長の身内の屋敷地だった可能性が高い」とコメントした。【花井武人】


尾張を統一した信長が1563年、美濃の斎藤氏を攻める拠点として築いたとされる。岐阜城に移るまで約4年間居城とした。その後廃城となったが、1584年の小牧・長久手の戦いでは徳川家康が改修して本陣とした。美濃攻めのためのとりでにすぎないと長年考えられていたが、小牧市が2004年に史跡整備の一環として発掘調査を始め、実態の解明が進んでいる。
2018.11.14 20:21
8世紀初頭の大規模寺院か 藤岡の牛田廃寺 瓦で建造年代特定
2018.11.11


群馬県藤岡市牛田で7月中旬に発掘された古代寺院跡「牛田廃寺」について、8世紀初頭に創建され、複数の建物が集まる当時としては大規模な寺院だった可能性が高いことが8日、分かった。創建年代の特定につながる瓦が発見されたほか、建物2基の存在が判明した。藤岡市教委は「文献にも記されていない新たな発見」とし、市内で初めて見つかった古代寺院跡の全容把握に向けて調査を進める。

7月時点では瓦や寺院の土台となる基壇の一部が見つかっていたが、年代や規模を絞り込めなかった。発掘調査が進む中で、基壇を囲むように次々と瓦が出土し、二つの建物があったことが分かった。寺院が集積する伽藍がらんと思われ、市教委は他にも建物が存在していたとみている。さらに、8世紀初頭のものとされる「複弁蓮華文」の文様が入った「軒丸瓦」が出土し、創建年代が明らかになった。
2018.11.11 00:23
弘前城の新発見、市民が目の当たり
2018.11.05


青森県弘前市は4日、先月26日に石垣の解体作業が終わった弘前城本丸の一般向け現場見学会を開いた。参加者は濠(ほり)の内部に下りて、石垣の解体・修復と同時に進めている発掘調査の現状を目の当たりにし、新しい発見に関心を寄せた。

見学会は発掘調査に合わせ2014年度から始まった。今回は約170人が20人ごとのグループに分かれて見学した。

市公園緑地課の職員は、石垣の積み方の一つ「野面積み」や石を切り出した時にできる「矢穴」の四角い形状が築城当時の特徴であることを説明。元禄期に構築されたと考えられる井戸遺構の中央に木枠が見つかったことや、大正時代の石垣修理にコンクリートが基礎部分の補強のために使われたことなども解説した。
2018.11.05 15:07
岐阜)光秀出生地はどこ?岐阜各地で「おらが町」主張
2018.11.04


2020年の放送が決まった明智光秀が主人公のNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」。県内のゆかりの地では「全国から観光客を集める絶好の機会」と早くも期待が高まっている。だが、光秀の出生地ははっきりせず、言い伝えられる地域も複数ある。なぜなのか。

「間違いなく可児市で生まれたと思っている」。可児市の冨田成輝市長は自信を見せる。同市瀬田にあった明智城(長山城)では、光秀が生まれ育ったとされる。かつては「明智庄」という庄園(しょうえん)があり、光秀の家臣たちが地元出身という伝承もあることから、出生地の候補とされてきた。城址(じょうし)の近くには光秀の産湯に使われた井戸もあったと言い伝えられている。

「明智光秀ゆかりの地として、ずっと売り込みたいと思っていた」と話すのは恵那市の小坂喬峰(たかね)市長だ。同市明智町には県指定史跡「明知城跡」がある。地元では毎年「光秀まつり」が行われ、同町の千畳敷公園内には「明智光秀産湯の井戸」と書かれた井戸がある。小坂市長は「地元では『うちが出生地で間違いない』という思いが強い」とPRする。
2018.11.04 17:16
大石内蔵助の「遺書」公開 徳島、討ち入り前日に記す
2018.11.02


「忠臣蔵」で知られる大石内蔵助が討ち入り前日に心情をつづった手紙が残されていることが分かった。
遺書に当たる「いとま乞い状」で、3日から徳島城博物館で展示される。
1955年ごろに東京などで展示されていたが、その後、所在が分からなくなっており、約60年ぶりの公開。

手紙は縦約17センチ、横約75センチ。
日付は討ち入り前日の元禄15(1702)年12月13日付だった。
徳島藩家老の子で、浪人中の大石に資金援助した三尾豁悟宛てだった。

手紙には、討ち入りの経緯や決意が約50行にわたって記され「吉良邸に討ち入ることになった。
志のある48人が妻子や親類の後難を顧みず、あだ討ちを行う所存」との記述もある。
討ち入り直前に脱退した毛利小平太を含め48人としていた。

手紙は東京などでの公開後、所在不明となっていたが、昨年3月、東京都内に住む三尾の子孫が、同博物館に寄託を依頼し、現存していることが分かった。
2018.11.02 16:28
旧幕府軍「脱走様」が残した銃弾入れ 逃げ込んだ民家に
2018.10.29


時代が明治に変わる150年前、現在の千葉県船橋市や市川市で、戊辰(ぼしん)戦争での戦闘の一つ「市川・船橋戦争」があった。旧幕府軍の兵が逃げ込んだ家に残したとされる銃弾入れが、11月2日に船橋市西船3丁目の葛飾公民館である歴史民話講座で公開される。郷土史を研究する「かつしか歴史と民話の会」が企画した。

銃弾入れは船橋市印内2丁目の農家、田島隆さん(60)の家に伝わる。横約20センチ、縦約7センチ、厚さ約6センチの革製で、ふたの表に徳川家の家紋「三葉葵(みつばあおい)」が二つ入っている。

1868(慶応4)年閏(うるう)4月、江戸を脱走した旧幕府陸軍の撒兵(さっぺい)隊は、法華経寺(市川市)や船橋大神宮(船橋市)などに陣を敷き、新政府軍の福岡・黒田藩兵などと交戦。隊長の江原鋳三郎(後の素六、東京・麻布学園の創設者)が撃たれて重傷を負ったことで隊は散り散りとなった。

そのうち2人の兵が田島さんの先祖、七良兵ヱ(しちろべえ)の家に逃げ込み、風呂や食事など世話を受けた礼に銃弾入れを置いていったと伝わる。七良兵ヱは金塗りの葵紋が入った銃弾入れを仏壇の奥に隠し、大切に保管していたという。田島さんは「子どものころから祖父の五郎(故人)によく話を聞かされた」と懐かしむ。

「かつしか歴史と民話の会」によると、この地域は旧幕府軍を「脱走(だっそ)様」と呼び、戦死者を埋葬して墓碑をつくり、信仰の対象にもしていた珍しい土地柄だという。伊藤邦夫会長(81)は「こうした歴史を証明する非常に貴重な銃弾入れを見ることで、地域の歴史や文化に興味を持つきっかけになれば」と話す。
2018.10.29 18:40
「神武東征」神話 日本遺産に 奈良県橿原市や宮崎市が協議会発足へ
2018.10.29


古事記や日本書紀に登場する「神武東征」の神話について、奈良県橿原市と姉妹都市の宮崎市が中心となり、日本遺産への登録を目指す準備が進んでいる。
今月下旬には、ゆかりのある19市町村の首長が一堂に集い、準備会を開催。
活動を本格化させる。

神武東征は、初代神武天皇が生まれ育った日向(宮崎県)を出発し、現在の大分や広島、大阪、三重などを経由して大和を平定、橿原宮で即位するまでを記した建国神話。
橿原市は日本遺産登録を目指し、昨年度から宮崎市と連携して、東征に関連する西日本の自治体に共同申請を呼びかけてきた。

今月29日に宮崎市で開かれる準備会には、西日本の8府県19市町村が参加を予定。
関係自治体で議論を深めた後、年明けにも協議会を設立し、今年度中の申請を目指すという。

日本遺産は、地域に伝わる有形・無形の文化財について、歴史や文化、伝統を盛り込んだストーリーを構築し、文化庁が認定する制度。
地域振興を目的に、平成27年度に創設された。

神武東征が日本遺産に認定されれば、橿原市などは観光ルートの整備や説明板の設置、イベントなどを通じてPRする方針。
同市では「広域連携で地域の活性化につなげていきたい」と意気込んでいる。
2018.10.29 17:53
金閣寺に足利義満が造成した幻の池 発掘調査で
2018.10.28


京都市北区の金閣寺(鹿苑寺)の発掘調査で、同寺や市埋蔵文化財研究所は11日、金閣に面した鏡湖池南側にあったとされる「南池跡」について、創建した足利義満が造成し、未完に終わった池だったことが分かり、同時期の礎石建物も近くで新たに見つかったと発表した。義満が晩年を過ごした「北山殿」では金閣のほか、国内最大級の北山大塔が存在したことがすでに明らかになっている。幻とされた南池跡の出土は、北山殿が現在の建物規模より大規模に造成されたことを裏付け、室町幕府最盛期を築いた権力者・義満の権勢を示すものという。

金閣寺の境内整備に伴い、市埋文研が2018年8月までの約2年間、約840平方メートルを調査していた。

南池跡では、池を囲うように東、西、南側に盛り土し、堤(高さ0・6~1メートル、幅2~5メートル、総延長170メートル)を築いているのを確認した。池内部や堤沿いに、直径6~20メートルの島状の高まりが3カ所あった。遺物の出土状況から、北山殿が築かれた14世紀末ごろに造成されたとみられる。

ただ、造成土からは防水のために施す粘土層が見つからず、周縁部に護岸石もなかったため、未完だったとみている。

堤は15世紀後半ごろにかさ上げされ、高さ約2メートルの土塁のようになっていた。応仁・文明の乱(1467~77年)で西軍の陣地になった際、防御用に造り替えられたのではないかとする。

一方、南池跡の北東辺では、東西5・4メートル、南北6メートルの小型建物跡が出てきた。礎石13個が並び、正面方向で人目に付く東側柱や縁側には、30センチ四方に加工した白い花崗岩(かこうがん)を用いていた。土を固めて整えた舞台のような「三和土(たたき)」(東西10メートル、南北7メートル)が東南方向に広がっており、私的な空間として儀式などを行っていた可能性があるという。

北山殿は、義満が死去する1408年まで約10年間を過ごし、政務を行う会所や御所もあり、近くに武家や公家、門跡寺院住職らも集住したと、貴族や僧侶の日記から推定されている。近年の発掘調査では100メートル級の高さとされる北山大塔の頂部分を飾った相輪が見つかっている。

京都市埋文研は「今回見つかった大規模な造成跡や精密に加工された礎石から、義満の北山殿が想像以上に大規模な構造だったことが分かる。ただ、建物の配置や使い方に不明点が多く、文献に基づく検証を進めたい」としている。
2018.10.28 01:12
長岡京跡南西域から大型建物跡 皇室関係の邸宅か
2018.10.27


京都府長岡京市の長岡京(784~794年)跡から、南北約21メートル、東西約6メートルの大型掘っ立て柱建物跡が見つかり、市埋蔵文化財センターが25日発表した。
長岡京跡で出土した建物跡としては最大級。
重要な建物にしか使わない「旨」の字が刻印された瓦片も出土していることなどから、同センターは皇室関係の邸宅の可能性が高いとみている。

病院建設に伴い右京六条三坊三町の1200平方メートル調査。
この結果、調査地の西端から南北7間(21メートル)、東西2間(6メートル)、西側1間の庇(ひさし)付きの建物が出土した。柱穴跡は約1メートル四方と巨大で底には柱を支える木製の礎板もあった。
同京の南西域から大型建物跡が出土したのは初めて。

建物が西向きであることから同センターは、それと対の東に庇が付く建物が今回の調査地の西隣・同三坊六町に存在すると想定。
邸宅が少なくとも2町(南北120メートル、東西240メートル)に広がっていたことが分かるとしている。

また調査地の西側から南北5メートル、東西13メートルの建物跡とそれに伴う柵列跡が東西に出土。柱跡は長径20センチの楕円形で、底には瓦状のタイル「●(せん)」が礎板として据えられていた。
柱穴に●が使われた例は、同京跡では東院(離宮)跡など数例しかない。

同センターは「瓦や●を据えた柱、大規模建物跡などを考えると、身分が相当高い人の邸宅。
これまで出土していない南西域からの大型建物跡の出土で、京内の土地利用の解明にも大きな成果になった」と話している。
2018.10.27 21:30
東山遺跡から2棟の建物跡 紫香楽宮と関連 役所、工房跡か 滋賀
2018.10.19


さし東山遺跡で新たに2棟の建物跡発見
東山遺跡で見つかった2棟の掘っ立て柱建物跡。
人が立っているのが柱の穴のある場所(滋賀県甲賀市教育委員会提供)

滋賀県甲賀市信楽町黄瀬の「東山遺跡」で奈良時代中期の2棟の掘っ立て柱建物跡が見つかり、市教育委員会が18日発表した。聖武天皇が造営したとされる「紫香楽宮(しがらきのみや)」の関連施設とみられ、役所や工房として使われていた可能性が高いという。
市教委は「紫香楽宮の全容を解明するための重要な知見を得ることができた」としている。

紫香楽宮は聖武天皇が742~745年に大仏の造立を行うために造営したとされる。
東山遺跡は紫香楽宮跡に隣接しており、昨年の調査で奈良時代中期の大型建物跡(南北42メートル以上、東西約15メートル)を確認。

市教委は大型建物が宮殿の一部や儀礼用の施設だったと想定し、対となる同規模の建物を探して大型建物の西側の区域を調査していた。

市教委によると、大型建物の西側約120メートルの場所で、柱を据えるための11の方形穴が見つかった。
約1メートル四方で、深さは最大約50センチ。
柱穴の状況から、南北に細長い2棟の建物跡と分かった。
2棟とも柱と柱の間は約3・7メートルだった。

大型建物と同様、紫香楽宮に関連した施設とみられるが、大型建物よりも小さく、同時代の儀礼用の施設の特徴とされる左右対称の配置でもないという。

さらに、聖武天皇が大仏造立のために建てた甲賀寺跡が300メートル南にあることなどから、市教委は「2棟は役所や工房といった大仏を造るための実務的な施設だった可能性が高い」と分析している。
2018.10.19 09:37
武田信玄ゆかりの木像の色彩を再現 山梨
2018.10.19


山梨県の寺に伝わる戦国武将の武田信玄が造らせたとされる木像は、顔料がはがれ落ち、くすんだ状態になっています。
山梨県立博物館は、残った顔料を科学的に分析し、木像が制作された当時の華やかな色彩を再現しました。

山梨県山梨市の清水寺に伝わる室町時代の木像、「勝軍地蔵騎馬像」は、武田信玄が京都の仏師を招いて造らせたとされ、去年、県の有形文化財に指定されました。

しかし、木像は顔料がはがれ落ち、全体的にくすんでいることから、山梨県立博物館は、制作された当時の色彩の再現に挑みました。

表面に「蛍光X線」をあてて、水銀や銅、カルシウムなどの元素を検出し、当時の顔料の成分と照らし合わせて、本来の色を判断していきました。

その結果、衣服の赤く見える部分からは多くの金が検出されたことから実際には金色だったとみられ、黒っぽく見える袖やすその部分は、群青色をベースに金や赤の細かな文様で彩られていたと結論づけました。
そして、分析結果をもとに制作当時の華やかな姿を再現した画像データを作成しました。

県立博物館の学芸員の西願麻以さんは「今の色合いもよいですが、信玄が大事にしていたと思われる当時の華やかな姿も知ってほしい」と話しています。
2018.10.19 09:28
駿府城から「秀吉」遺構=金箔瓦や石垣見つかる-静岡
2018.10.16


静岡市は16日、徳川家康が築いた同市葵区の駿府城で、豊臣秀吉が家臣に作らせたとみられる金箔(きんぱく)瓦と、天守台の石垣が見つかったと発表した。

市によると、見つかったのは金箔瓦約330枚と、南北約37メートル、東西約33メートルの天守台の石垣。城の発掘調査を進める中、見つかった。石垣は自然石を積み上げた野面積みで、金箔瓦を作る技術も豊臣期の特徴を示しているという。

駿府城は家康が江戸城へ移った後に、秀吉の家臣中村一氏が入城。家康が晩年に再び駿府城に入り、大改修をしたとされる。これまで中村時代の駿府城についての詳細は分からず、幻の城となっていた。今回の発見によって、秀吉が中村一氏に新たに造らせたことは間違いないとみられるという。家康に対して威光を示す狙いがあったと考えられる。
2018.10.16 18:06
仁徳天皇陵、初の共同発掘調査 宮内庁と地元・堺市
2018.10.15
宮内庁は15日、仁徳天皇陵として管理する堺市の大山古墳に関し、保全整備の一環として行う発掘調査を、今月下旬から初めて堺市と共同で実施すると発表した。
宮内庁は、陵墓への部外者による立ち入りや調査を「皇室の祖先の墓であり、静安と尊厳が必要」として厳しく制限してきた経緯があり、前例のない画期的な試みとなる。

宮内庁が管理する陵墓は、貴重な文化財でもあり、学会などから外部の知見も調査に取り入れるべきだとの声が以前から上がっていた。
宮内庁の担当者は「陵墓は長年、地元の力で守られてきた。
より一層適切な管理をしていくため、地域の協力が欠かせないと判断した」としている。
2018.10.15 17:49
仁徳天皇陵を発掘へ 今月下旬から堺市と共同で
2018.10.15
宮内庁と堺市は15日、同市堺区にある日本最大の前方後円墳「大山古墳」(仁徳天皇陵)について、今月下旬から共同で発掘すると発表した。古墳の保存のための基礎調査だが、歴代天皇や皇族の陵墓を宮内庁が外部機関と共同で発掘するのは初めて。宮内庁は「周辺の遺跡や古墳に関する知見や調査経験を持つ堺市などとの連携は適切な保存につながる」としている。

大山古墳は全長約500メートルで、墳丘を三重の濠(ほり)が巡る。埋葬者は学術的には確定していない。調査は10月下旬~12月上旬、埴輪(はにわ)列などがあったと考えられる最も内側の堤(幅約30メートル)に幅2メートルの溝を3カ所掘り、堺市の学芸員1人も共同で調査や報告書作成などを行う。宮内庁陵墓課は今後、堤の別の部分や墳丘本体の裾部分の発掘も検討している。

宮内庁は全国の陵墓への立ち入りを原則認めず、単独で調査してきた。こうしたことから、考古学界は陵墓の公開と保全を訴えてきた。宮内庁は2008年から、日本考古学協会など考古・歴史学の16団体に限定的な立ち入り観察を認めた。16年3月には地元自治体や研究者に協力を求める方針に転換し、徐々に公開度を高めてきた。

宮内庁の陵墓管理委員会で委員を務める白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は「古墳全体を保存活用する上で地元自治体や研究者の協力は欠かせず、今回の共同発掘は重要な一歩だ。陵墓の公開に向けても歓迎できる」と評価。陵墓問題に詳しい岸本直文・大阪市立大教授は「今後の発掘・保存計画の説明や、発掘の現場公開を何らかの形で実現してほしい」と求めた。【矢追健介】

記事

2018.10.15 17:06
潜伏キリシタンが伝承、禁教期の元号入り暦発見
2018.09.11
潜伏キリシタンが伝承、禁教期の元号入り暦発見


「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産がある五島市・奈留島で、江戸時代の1850年(嘉永3年)の日付やキリスト教の記念日が記された潜伏キリシタンの暦が見つかった。1614年の禁教令発令後、1859年の開国までは国外から宣教師が入ってきていないことから、専門家は「禁教期に信者が暦を伝承したことを裏付ける貴重な証拠」と注目している。

 暦があったのは、世界文化遺産に登録されたキリシタン関連遺産の構成資産「奈留島の江上集落」と同じ西海岸に位置する同市奈留町浦、水産会社経営吉田茂樹さん(65)の自宅。先祖を祭る祭壇で杉箱に入れたままになっていたのを、「禁教期のキリシタン研究会」の柿森和年世話人が確認した。

 暦は十数ページの和紙に書かれ、「嘉永」の元号の日付が入っている。マリアがイエスを身ごもった受胎告知を祝う2月26日の「さんた丸や」(サンタマリア=聖母マリア)の記述から始まり、日曜日を意味する「どみんご」、日本で宣教が始まった日などが記されている。同じ内容を新しい和紙に書き写したものもあり、劣化した暦を更新したとみられる。

 暦の内容は、1634年の教会暦を日本の太陰暦に改編し、年間行事や儀礼の基準とされた「バスチャン暦」とほぼ同じ。潜伏キリシタンが信仰を続ける上で欠かせず、暦を管理する役職者が組織のリーダーを務めるほど重視されていた。

 暦が保管されていた杉箱には、殉教者の衣服とされる布きれも入っていた。集落では、隠れキリシタンの組織が昭和40年代まで残っており、死者を送る際に衣服の切れ端を持たせる習慣があったという。

 柿森世話人は「潜伏キリシタンの暦は各地で見つかっているが、元号が入っているものは珍しい。時代が分かる暦の中では、最も古い部類になるのではないか」と指摘。吉田さんは「先祖が代々伝承してきたもので、これからも大切に保管していきたい」と話した。(坂田元司)

読売新聞
2018.09.11 14:14
昭和20年 新宿駅前 撮影:影山光洋氏
2018.09.09
昭和20年 新宿駅前 撮影:影山光洋氏



右下に見えるのが新宿駅舎(現在ルミネエスト、元マイシティの場所)
正面のビルが聚楽
その後ろに見えるのが武蔵野映画館
2018.09.09 20:57
奈良時代の掘っ立て柱建物跡が出土 京都・城陽の「芝山遺跡」、北陸道沿いに整備か
2018.08.30
京都府城陽市の芝山遺跡・芝山古墳群から、奈良時代の掘っ立て柱建物跡が出土し、府埋蔵文化財調査研究センターが28日発表した。
東側には平城京(奈良)と北陸を結ぶ官道の北陸道があったとされ、官道沿いに建物が整備された可能性があるという。


奈良時代の掘っ立て柱建物跡。当時あったとされる北陸道沿いに建っていたとみられる=城陽市の芝山遺跡

新名神高速道路の整備事業に伴い、平成29年度から南北に走る府道西側の計約2400平方メートルを調べていた。奈良時代の須恵器や土師器(はじき)などとともに10棟分の掘っ立て柱建物跡が出土。過去の調査で、府道にほぼ並走する形で道路跡が南北で確認されており、うち2棟がその延長線上に沿って建てられていた。

真北に向いた建物跡1棟と、「田」の字状に柱を配置する総柱建物も4棟確認。
総柱建物は床を補強した倉庫として活用されていた可能性があるという。
直径9・5メートルの古墳時代後期(6世紀)の円墳も見つかり、墳丘の中央付近で埋葬施設1基を確認。
木棺が納められていたとみられる。

同センターの桐井理揮調査員は「建物が役所跡なのかは不明だが、遺跡の性格を分析するための貴重な史料」としている。
2018.08.30 10:49
奈良の箸墓古墳 被葬者は岡山出身?カギ握る埴輪の祖先
2018.08.28
奈良の箸墓古墳 被葬者は岡山出身?カギ握る埴輪の祖先



奈良県橿原市の弁天塚古墳で出土した宮山系特殊器台。
裾の広がった脚部が残っている(奈良県立橿原考古学研究所付属博物館提供)
奈良県桜井市の箸墓古墳(全長約280メートル)は、3世紀中ごろ、最初に築かれた大型の前方後円墳だとみられています。
このころの倭について記した中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場する女王・卑弥呼の墓の有力な候補地としても知られています。

この古墳でみつかった特殊な土器が、吉備(岡山県)の複数の地域の工人によってつくられたと考える新説を、最近、春成秀爾・国立歴史民俗博物館名誉教授が発表しました。
箸墓古墳に葬られた人物(被葬者)が、吉備と強い結びつきをもっていた可能性をうかがわせる研究成果です。

吉備では弥生時代後半、儀式の際に使われる壺などを載せる「器台」が発達し、複雑な文様を持つ高さ1メートル前後の円筒形の大きな土器がつくられました。
これは「特殊器台」と呼ばれています。
春成さんは1967年、師の近藤義郎・岡山大教授(故人)と連名で論文を発表し、この特殊器台が、のちの古墳時代に古墳の上に立てて並べられた「円筒埴輪」の原型だと考えました。
岡山県倉敷市には弥生時代最大級の墳墓・楯築墳丘墓(全長約80メートル)がありますが、この墓でも特殊器台がみつかっています。
2018.08.28 13:29
スマホかざすと平安時代の景観 「大内裏」表示するアプリ開発
2018.08.26
スマホかざすと平安時代の景観
「大内裏」表示するアプリ開発



大極殿跡でスマホをかざすと、画面に表示される平安時代の再現CG(京都市中京区)
平安時代の景観を現在の京都市内で見られるスマートフォン用アプリを、立命館大の教授らが開発し、無料公開している。
拡張現実(AR)技術を使い、平安京の政治中枢「大内裏」の各施設跡でスマホをかざすと、鮮やかな朱塗りの建物が現実風景に重なって表示される。
開発者は「史跡巡りや地域学習に活用してほしい」と期待する。

アプリは「バーチャル平安京AR」で、矢野桂司教授(人文地理学)らの研究チームが開発した。
GPSの位置情報と、京都アスニー(中京区)に展示されている平安京の復元模型の3次元データを活用し、平安京北部にあった大内裏内(南北1・4キロ、東西1・2キロ)の各施設跡に復元モデルを配した。

例えば千本丸太町交差点(上京・中京区)でアプリを起動して、北向きにスマホをかざすと、天皇が政務や国家儀式を行った大極殿の再現モデルが画面内に登場。
各施設跡で同様に操作すれば、それぞれの建物の再現モデルを見ることができる。
10秒ごとに位置情報が更新されるので、移動にも対応している。

大内裏内のほかにも、平安京のメインストリート朱雀大路の景観や平安京の南の入り口だった羅城門の外から都の中を見るような映像コンテンツも盛り込んだ。
グーグルプレイとアップルストアから無料でダウンロードできる。

矢野教授は「好評であれば、有名貴族の邸宅跡などの情報も拡充していきたい」と話している。
2018.08.26 20:50
ビッグ「人面石」クッキー再発売 弥生の重文モチーフに
2018.08.24
ビッグ「人面石」クッキー再発売 弥生の重文モチーフに



長崎県壱岐市の市立一支国(いきこく)博物館が、近くの遺跡から出土した「人面石」をかたどった巨大クッキーを販売している。大きさは、大人の顔ほど。博物館は「考古学や発掘史料に親しみを持って」と期待を寄せている。

人面石は市内の「原の辻遺跡」で2001年に発見された、縦10・2センチ、横7・4センチの石。弥生時代に五穀豊穣(ほうじょう)を願ったり、先祖の霊を鎮めたりする際に使ったとみられ、国重要文化財に登録されている。

博物館は10年の開館時から、人面石とほぼ同じ大きさの「人面石クッキー」を販売。地元の赤米を使ったクッキーはサブレのようなさくさくした食感で、バターのまろやかな味わいが特徴だ。開館初日に450枚が完売したほどの人気で、今でも「ミュージアムショップの主力商品」という。

朝日新聞
2018.08.24 22:04
幕末徳川将軍家の銀印見つかる
2018.08.23
幕末徳川将軍家の銀印見つかる
国家元首の意思示す



江戸末期、徳川将軍家が外交文書に押印した銀印「経文緯武」が見つかったと、徳川記念財団(徳川恒孝理事長)が20日付で発表した。徳川14代目将軍家茂と15代目将軍慶喜が、日米修好通商条約の批准書などで対外的に「国家元首」として意思表示したことを示す貴重な資料だ。

 銀印は昨年、徳川宗家の蔵を調査する過程で見つかった。徳川家の家紋「三つ葉葵」のある黒塗りの箱に収められていた。縦、横ともに9.2センチ、高さは7.8センチで、重さは2.7キロ。幕府側から命じられた篆刻家の益田香遠らが制作した。「経文緯武」の言葉によって、文武両面の力を示そうとしたと考えられるという。

https://this.kiji.is/404006555961295969?c=39550187727945729
2018.08.23 12:37

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