アジアで第5の原人 6万年前、比ルソン島に
2019.04.11
フィリピンの洞窟で見つかった歯などの化石が新種の原人と判明
現生人類のホモ・サピエンス(新人)が到達する前か
化石は5万年前から6万7千年前のものと推定
「アジアに多様な人類がいたことが示された」
2019.04.11 20:31
弥生人もウナギ好き? 漁に使う「筌」出土、鳥取
2019.04.11


青谷上寺地遺跡展示館(鳥取市)は、同遺跡で出土し、ウナギ漁などに使用される道具「筌」を展示。弥生時代後期(約1900年前)に作られたが、現在使われているものと形はほとんど変わらない。
弥生時代のウナギの骨も見つかっている。同遺跡では多様な種類の魚の骨が出土しており、漁に合わせて道具を作っていたことが推測できるという。
川底などに沈めて使う筒状の漁具で、通常、入り口は入った魚が逃げないようかえしが付いている。出土品はテイカカズラとイネ科の植物を編んでおり、長さ49.4センチ。
2019.04.11 19:49
葛飾北斎の『富嶽百景』より「宝永山出現」。
2019.04.07


葛飾北斎の『富嶽百景』より「宝永山出現」。
宝永4年(1707)に噴火した富士山。
吹き飛ばされてしまった人々や飛び散った家財道具を、まるでシャッタースピードの速いカメラで撮影したかのよう。
北斎の卓越した描写力です。原宿の太田記念美術館にて開催中の「北斎ー富士への道」展にて4/29まで展示中。
2019.04.07 19:10
新元号「令和」
2019.04.01


新元号「令和」
出典は万葉集

万葉集巻五
梅花の歌三十二首、并せて序

「初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。」

初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。
2019.04.01 11:54
復元の「尼崎城」記念式典 兵庫、観光名所に期待
2019.03.28


1873(明治6)年の廃城令で取り壊され、兵庫県尼崎市の公園に復元された「尼崎城」で28日、一般公開に先立つ記念式典が開かれた。

模擬天守閣は鉄筋コンクリート造りで、高さ約24メートル。江戸初期には尼崎藩主戸田氏鉄の居城として築かれていた。当時の城跡から約300メートル離れた阪神電鉄尼崎駅そばの公園に再建し、昨年11月に完成した。
一般公開は29日から。入場料は大人500円、小中高校生250円。
2019.03.28 22:41
秀吉から清正へ「朝鮮出兵の命令書」、本物発見
2019.03.28


豊臣秀吉が、加藤清正に宛てて朝鮮出兵を命じた朱印状が見つかった。「文禄の役」で清正が出兵する直前に出されたものとみられる。
清正に対し、「(第1軍の)小西行長らに朝鮮出兵を命じたので、お前も出陣せよ。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断しないように」と伝える。また、「先に行った者たちが道中で詰まっているので、皆で相談してスムーズに進めるように」という趣旨の秀吉らしい細かい指示もある。
2019.03.28 14:28
最古じゃなかった 丸岡城天守は寛永年間に建造
2019.03.27


最古じゃなかった 丸岡城天守は寛永年間に建造 坂井市教育委調査 福井

現存天守では最古との説もあった丸岡城。調査の結果、寛永年間に整備され、最古ではなかった
現存最古との説もあった国重要文化財、丸岡城の天守について部材の柱などを調査したところ、江戸期の寛永年間(1624~44年)に建造されたことが判明した。

城が築かれたのは1576年と伝えられるが、天守の建築年代は不明だった。1600年以前に建造された現存天守は、1590年代の築とされる松本城乾小天守だけとなり、丸岡城の天守が最古でないことが確定した。
2019.03.27 02:11
秀吉の最古級の検地帳発見 信長配下時代の貴重な史料
2019.03.26


羽柴秀吉が、織田信長の家臣として播磨を治めていたころにつくらせた検地帳の写しがみつかった。信長政権下の検地帳が確認されるのは珍しく、これまでにみつかった秀吉の検地帳の中でも2番目の古さ。

みつかったのは「播磨国飾東郡緋田村」の検地帳の写し。二つ折りにした18枚の和紙の表裏を使って計72ページに及ぶ。表紙に天正8(1580)年10月24日の日付と村名が記され、本文には税をまとめて収める名請人150人の名前や地名、その土地の面積、耕地の等級など、のちの太閤検地と類似した項目が並ぶ。

末尾に秀吉の家臣だった「小出秀政」「桑原貞也」の名前があったことなどから、博物館は秀吉の検地帳と断定。2人の名前に「殿」と敬称を書き加えており、緋田村が原本を書き写して保存していたとみる。
2019.03.26 17:27
大坂冬の陣「真田丸」も復元 びょうぶ絵をデジタル彩色
2019.03.25


1614(慶長19)年に徳川幕府と豊臣家が戦った大坂冬の陣の様子を描いた「大坂冬の陣図屛風」を、当時の色で復元する作業が山場を迎えた。

夏の陣を描いた作品は多いものの、冬の陣で現存が確認されているのはこの屛風だけという。凸版印刷などがデジタル技術で着色して屛風を複製。大坂城の天守閣や、徳川方を苦しめた真田信繁(幸村)の出丸「真田丸」も鮮やかによみがえった。

屛風は東京国立博物館の所蔵。高さ約1・8メートル、幅約7・2メートル。豊臣秀頼や淀君、真田幸村らが描かれている。登場人物は約2300人。江戸時代の作品とされるが、時代や作者は不明だ。
2019.03.25 02:23
奈良時代の長岡京跡から貴族邸宅 寝殿造りに似た配置
2019.03.03


桓武天皇が造営した奈良時代末の都・長岡京(784~794年、京都市伏見区など)跡から、3棟の掘っ立て柱建物跡が見つかり、発掘会社京都平安文化財が28日に発表した。

奈良時代は正殿が最北にあり、それより南側に脇殿が並ぶ建物配置が一般的だったが、今回の建物は脇殿が正殿より北側に置かれており、平安京跡(京都市)で見つかった平安前期の邸宅跡と似ているという。この邸宅跡は寝殿造りの原型とも考えられている。

「寝殿造りにつながる可能性のある建物配置が、長岡京時代にも存在したことは大きな発見」
2019.03.03 01:35
慶喜直筆の書「誠」発見、「広辞苑」新村出の旧宅で
2019.02.26


江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜(1837~1913年)直筆とみられる書が、「広辞苑」(岩波書店)の編者として知られ、京都大教授を務めた言語学者の新(しん)村(むら)出(いずる)の旧宅(京都市北区)から発見された。出の養父、猛(たけ)雄(お)が慶喜に仕えていた縁で新村家に受け継がれたという。約1メートル四方の絹地に「誠」と大きく墨書きされ、専門家は押してある印の形から、慶喜が明治になって書いたものと分析している。
2019.02.26 22:00
京都)飛鳥から奈良時代の工人集落か 八幡・美濃山遺跡
2019.02.09


京都府埋蔵文化財調査研究センター(向日市)は、八幡市南部の美濃山遺跡で、飛鳥時代から奈良時代にかけての多数の掘立柱(ほったてばしら)建物や焼土坑(しょうどこう)が見つかったと発表した。鉄製品などを製造する工人の集落と考えられるという。
2019.02.09 01:40
横たわる夕顔、嘆く光源氏…幻の「夕顔の死」見つかる
2019.01.15


江戸時代初期に描かれ、全容がわからないこともあって「幻」とも呼ばれる「盛安本源氏物語絵巻」のうち、ヒロインの一人である夕顔の死を描いた場面が新たにフランスで見つかった。源氏物語絵巻で不幸な場面を描いたものは、極めて珍しい。

横たわる夕顔や死を嘆く光源氏、駆けつける家臣、建物の内装などが精巧に描かれた図は縦35センチ、横132センチ。保存状態はよく、金がふんだんに使われている。
2019.01.15 22:36
竹島関連の古文書、島根に寄贈 江戸時代の日本人のアシカ猟など記述
2019.01.15
竹島関連の古文書、島根に寄贈 江戸時代の日本人のアシカ猟など記述

島根県は15日、同県竹島で江戸時代から日本人が漁をしていたとされる古文書を含む「大谷家文書」553点を昨年7月、大谷家の関係者から寄贈されたと明らかにした。松江市で会見した県竹島問題研究会の下條正男座長は「資料を読み解いていくことで、あらためて日本海での漁業活動や当時の生活が明らかにできる」と話した。

県などによると、大谷家は現在の鳥取県米子市にあった商家。文書は江戸~明治時代のもので1950年代に外務省が調査し、研究者の間では存在が知られていた。

文書には竹島でアワビが採れたことを示す「竹島松島産干鮑」との記述や、竹島でアシカ猟をして油を取ったとの記述があった。竹島を目印や停泊地としていたことを裏付ける鬱陵島への往来手形や、旗本が幕府に竹島まで行けるようお願いしたとする書状なども含まれている。
2019.01.15 21:48
明智光秀が築いた城跡?
2019.01.13



明智光秀が築いた城跡? シカが草食べ、姿露わに 謎の山城を追う(上)/兵庫・丹波市

兵庫県丹波市柏原町の柏原八幡宮がある八幡山(入船山)に残る山城跡。
戦国武将・明智光秀が築いたとも伝わるが、昭和50年代の兵庫県教育委員会の調査で初めて正式に存在が確認され、「八幡山城」と名付けられるまでは名前さえない”名無しの城跡”だった。
調査以降も、諸説ある上、史料の少なさから地元でもその存在を知る人は少ない。
近年、シカが下草を食べることで、より遺構がはっきりとわかるようになる。

「神社壊し、城を築城」

八幡山城は、現在の神社社域と雑木地にあった城で、創築者は明智光秀と記述。
城史の項には「織田信長の軍将として西丹波平定にあたった光秀は、(氷上郡、現・丹波市と多紀郡、現・篠山市の境にある金山に)金山城を築いて拠点としていたが、氷上郡進攻の前進拠点として、柏原八幡社殿と付属建物を壊して城塞を築いた」とあり、「神殿を壊したのは、郷民に畏伏感を抱かせることを狙ったと考えられる」と考察している。

長くてわずか3年、短命の城

天正7年(1579)、光秀と地元の波多野宗貞との「八幡山での戦い」で社殿などが焼失したとされており、この後に八幡山城が築城された可能性がある。
また、天正10年(1582)、光秀が信長に対して反旗を翻した「本能寺の変」後に、光秀を討った豊臣秀吉配下の地元、黒井城主・堀尾吉晴が普請奉行を務めて神社を再建している。

これらから考えると、天正7年ごろに光秀が陣城として八幡山城を造っていたとすれば、長くてもわずか3年ほどという短命の城だったとみられる。

八幡山城跡の中心遺構は、柏原八幡宮の社域を城地とする南半分と、大きな堀切(山肌などを削って溝にしたもの。空堀とも)を隔てて尾根に築いた連郭部。
報告書は「短期間に築造した臨時の城としては規模も大きいし、構法もすぐれている」と評価、「地元の反織田勢力の拠点だった高見山城や穂壺城の近くにあり、進攻の格好地だった。
城の歴史は短かったが、果たした役割は極めて大きかった」とまとめられている。

八幡山城跡には、高い石垣が残る金山城跡のように、織田・豊臣系城郭の特徴は確認できないが、平らに開けた曲輪(土塁や石垣、堀などで区画した区域)状の遺構が多数見られる。

県教委の報告書には、光秀築城と書かれているが、断定できる根拠は見つかっていない。
果たして光秀が築いた山城だったのだろうか。
2019.01.13 15:46
前橋四公・秋元家と総社の交流示す 国替え後の古文書見つかる
2019.01.02


前橋ゆかりの4大名家「前橋四公」の一つで、江戸時代初期に総社藩主を務めた秋元家と旧領民の交流を示す書状など古文書計10点が、前橋市元総社町の松田充雄さん(87)方から見つかった。江戸時代中期に秋元家側近から松田さんの祖先に送られた書簡で、献上品への礼や法事のやりとりが記されていた。秋元家は国替え後も旧領地を気に掛けていたことで知られ、総社地域との深いつながりを裏付ける史料だ。
2019.01.02 02:22
高まるブーム、安土城も再建? 復元向け滋賀県が調査(京都新聞)
2019.01.01


戦国時代に織田信長が築き、豪壮華麗な天主を誇ったとされる安土城(滋賀県近江八幡市)の復元に向け、滋賀県が新年度から本格的な検討に乗り出す。全容の分かる資料がない「幻の城」で、海外の資料も調査してきたが実を結んでこなかった。近年の「城ブーム」などを追い風に民間団体の再建熱も高まり、県は調査団の再派遣も視野に、名城復活への道を探る。

安土城は築城から3年後の1582(天正10)年、天主が焼失した。長年復元を望む声がある一方、城跡は国指定特別史跡のため、文化庁の許可を得るには建造当時の設計図や絵図などをそろえる必要があった。
そのため県と旧安土町は1984年、信長が天正遣欧使節を通じてローマ法王に献上したとされる屏風(びょうぶ)絵「安土城之図」を探す調査団をバチカンに派遣。その後も調査は続けられたが、発見には至っていない。
一方で全国的に城巡り観光が注目され、信長を討った武将明智光秀が主人公のNHK大河ドラマの2020年放映が決定。国も文化財の保護から活用へかじを切る中、県は経済効果が大きいとみて、復元の糸口を探ることにした。
ただ、仮に屏風絵が見つかっても、耐震性の観点などから木造での復元は難しいとの見方が優勢だ。そのため県庁内には、城跡に近く、かつ史跡指定外の場所に、信頼性が高いとされる復元図面で再建するのが最も現実的とする意見もある。いずれにせよ巨額を要するため、民間と連携して可能性を探る方針だ。
2019.01.01 16:31
江戸初期に「大坂幕府構想」か
2018.12.20
江戸時代の初期、大坂を徳川幕府の本拠地とする「大坂幕府構想」が検討されていた可能性を示す新たな書状が見つかりました。
書状からは、当時江戸にいた将軍の居城になることを想定して大坂城の築城が進められていたことがわかり、調査に当たった専門家は、構想が具体化していたことがうかがえると指摘しています。

この書状は、三重県に住む男性が茶道具店から購入し、三重大学の藤田達生教授などが調査を行いました。
その結果、書状は花押や筆跡などから、「大坂の陣」のあと大坂城の建て直しを担当していた小堀遠州が、遠州の義理の父親で徳川秀忠の側近、藤堂高虎に宛てたもので、記された内容から、寛永3年=西暦1626年に書かれたと考えられることがわかりました。
藤田教授によりますと、書状の中で遠州は、大坂城の茶室の庭に置く石を献上するよう高虎に進言し、その理由について、「大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべきところ」と説明しています。
誰の城になるかは明記されていませんが、城に「御」という敬称が付けられていることなどから、当時江戸城にいた大御所の徳川秀忠や三代将軍、家光の居城になるという前提で、遠州が大坂城の整備を進めていたことがわかるということです。
徳川幕府の本拠地を江戸から大坂に移す「大坂幕府構想」は、この書状の10年ほど前、「大坂夏の陣」の直後の史料にも記されていますが、間接的な聞き書きにとどまっていました。
この構想について藤田教授は、「大坂は豊臣家以来の伝統的な場所で、京都と大坂で体制を安定させていく目的があった。豊臣家が滅亡したときから家康が近畿地方を政権の本拠地にしていこうと考えるのは自然なことだ」と指摘しています。
そのうえで、「『ゆくゆくは居城になる』というような表現については、あまりにも大きな内容なのでびっくりした。家康の構想に沿って秀忠も動いていたことがうかがえる」と話しています。
2018.12.20 21:37
徳川家光は「ヘタウマ」画家? 水墨画を公開
2018.12.20



徳川幕府の礎を築いた3代将軍家光の水墨画2点の実物が来年3月、東京・府中市美術館の「へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで」展で初めて公開される。家光の作品はこれまで10点弱しか見つかっていないが、いずれも素朴な画風だといい、金子信久学芸員は「意図して下手に描いたのかはわからないが、これが家光のスタイルだった」と話す。

東京都文京区の養源寺に保管されていた図」はとぼけた表情を向け、数年前に京都で見つかった「兎図」は、大きな黒目で切り株の上にちょこんとたたずむ。兎図が表装された掛け軸には、葵の紋があしらわれている。美術館によると、家光は政務の傍ら絵をたしなみ、家臣に作品を与えることもあった。
2018.12.20 16:28
筋骨隆々の弥生人? 佐世保市の高島「宮の本遺跡」 太い上腕の人骨出土 [長崎県]
2018.12.19


筋骨隆々の弥生人の集団が西北九州にいた-。
佐世保市・高島の「宮の本遺跡」でこの夏、上腕骨が一般的な弥生人よりも一回り太い、約2千年前の人骨が出土した。
人類学者によると、西北九州の離島で見つかった弥生人骨には、こうした特徴があるという。
「弥生文化=農耕社会」と思われがちだが、高島の弥生人は異なる暮らしをしていたようだ。
2018.12.19 00:57
日本最古とみられる仏像の光背の鋳型片発見 滋賀・榊差遺跡
2018.12.12

滋賀県草津市の榊差遺跡で見つかった仏像の光背用とみられる土製鋳型の破片

滋賀県草津市野路(のじ)町の榊差(さかきざし)遺跡で、8世紀初頭(奈良時代前半)の仏像の「光背(こうはい)」の土製鋳型(いがた)の破片が見つかったと市教育委員会が12日、発表した。現存する飛鳥-奈良時代の金銅仏で光背があるのは法隆寺の献納宝物「四十八体仏」などわずかで、それらを製作した鋳型がこれまでに確認されておらず、国内最古の鋳型の可能性があるという。

当時の光背は、透かし彫りなど金工細工で作られたものが多いと考えられていたが、市教委は「今回の発見により、鋳造でも光背を製作していたことが分かった。古代の仏像の製作過程を知るうえで極めて貴重な成果」と分析している。
同遺跡ではこれまでに、奈良時代前半の獣の脚を模して鉄製の鍋や釜に付けた鍋の脚「獣脚(じゅうきゃく)」の鋳型片が見つかっている。光背の鋳型片は、その出土場所近くで出土していることから、同時期のものとみられる。
2018.12.12 22:06
西郷隆盛2番目の妻の名は「アリカナ」戸籍で確認
2018.12.08


西郷隆盛の2番目の妻の名が、広く知られている愛加那(あいかな)ではなく「アリカナ」だったと、京都市在住の歴史研究家、原田良子さん(51)が7日、鹿児島県で発表した。これまでも一部の研究者が指摘していたが、原田さんが初めて西郷家の戸籍で確認した。
2018.12.08 15:28
応仁の乱で途絶えた「北野祭礼」記録、15世紀前半の文書見つかる 北野天満宮
2018.12.08


北野天満宮(京都市上京区)は6日、室町時代に応仁の乱で大部分が途絶えた「北野祭礼」を記録した15世紀前半の文書「御祭礼之事書」など新史料が見つかったと発表した。

北野祭礼は天皇の使者が派遣される「勅祭」で、行列などがあったとされる。現在は一部の神事のみが伝わり、謎が多い。

御祭礼之事書は京都市内の古書店で昨年12月、京都文化博物館の西山剛学芸員が発見。祭礼に伴う帳簿で、表紙に応仁の乱以前の「応永11(1404)年より」と年号があり、社務を担った「目代家」という名前があった。祭礼を巡る「御幣役」「伝馬役」といった役職や、周辺地域から米を徴収したことも記載。
2018.12.08 15:20
900年前の金貨24枚、イスラエルで発見 十字軍制圧時のものか
2018.12.05


イスラエル北部にある地中海沿いの古代港湾遺跡「カイサリア(Caesarea)」で、金貨と金のイヤリングが発見された。イスラエル考古学庁(IAA)が3日、発表した。900年前に十字軍がこの地域を制圧した際に残され、その後回収されなかったと考えられるという。

IAAの発表によると、見つかったのは、金貨24枚とイヤリングの片方で、小さな青銅製のつぼに入っていたという。つぼは約900年前にさかのぼるアッバース(Abbasid)朝からファーティマ(Fatimid)朝時代の遺跡内に位置する家屋跡で発見された。家屋跡には井戸があり、この側壁の2つの石の間に置かれていた。

IAAの発掘責任者の話によると、この隠されていた金貨が造られた年代は11世紀末だという。
2018.12.05 01:06
北方領土:択捉に松前藩士の墓所
2018.12.03


北方領土・択捉島中部の振別(ふるべつ)付近で、在島ロシア人が日本人の墓所を発見した。墓石の氏名や亡くなった時期が江戸時代後期の松前藩の史料と一致し、南下するロシアに備えて「北辺警備」の最前線に派遣され、島で亡くなった藩士らの墓と判明した。北方領土で松前藩の墓所が確認されたのは初めて。研究者は当時の状況を知る手がかりになると注目している。
2018.12.03 12:29
明治期に埼玉遷都論 幻の本庄首都
2018.12.02
首都・東京の移転論は浮上しては消えることを繰り返しているが、明治初期に現在の埼玉県本庄市へ首都を移す「本庄遷都論」があった。明治政府の元老院(当時の立法機関)議長で、日本赤十字社の創立者が意見書にまとめたものだが、残念ながら正式に審議されることはなく、幻に終わった。江戸期に本庄は中山道で最大の宿場だったうえ、意見書でも立地条件の良さなどが列記されており、日本の顔や中心になれると期待されたことがうかがえる。【松下英志】

本庄遷都論を唱えたのは、幕末の主役となった「薩長土肥」の肥前・佐賀藩士だった佐野常民(1822~1902年)。勝海舟らと共に長崎海軍伝習所で学び、67年のパリ万博に藩代表として参加。渡欧先での見聞を基に77年、博愛社(のちの日本赤十字社)を創立し、80年に大蔵卿(前任は大隈重信、後任は松方正義)、82年には元老院議長に就任した。87年に日本赤十字社の初代社長となって子爵(のち伯爵)を授かり、92年に第1次松方内閣で農商務大臣も歴任。現在、佐賀市には彼の記念館が建っている。
2018.12.02 15:29
県が七つしかないのになぜ「九州」なのか
2018.12.01


九州が「九州」と呼ばれるようになったのは、8世紀ごろに遡るとされる
古くは四つの国に分かれていたが、律令時代になって九つに細分
明治時代の廃藩置県でこの九つの国が廃止され、七県が設置された

古くは4つの国だった

この地方は、古くは筑紫の国、豊国・火の国(肥の国)・日向の国の4つに分かれていましたが、律令時代になって九つの国に細分された。
その九つとは、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隈。
そして、筑前にあり、「遠の朝廷(とおのみかど)」とされた大宰府が、この九つの国々を統率していた。
明治時代に入って廃藩置県がおこなわれ、全国の行政区分が再構成されていく過程で、この九つの国も廃止され、かわりに七県が設置されることになった。
2018.12.01 03:47
芝山遺跡に丘陵地を平地にした跡 京都府
2018.12.01


古墳時代から奈良時代にかけて集落があったとみられる城陽市の芝山遺跡で丘陵地を切り崩して平地にした跡などが新たに見つかり、当時の集落の移り変わりを知る手がかりになるとみられています。

京都府埋蔵文化財調査研究センタ−が去年から発掘調査を行っている城陽市の芝山遺跡では、▼縦およそ40メートル、▼横およそ30メートルの範囲で丘陵地を切り崩して平地にした跡が見つかりました。
出土した土器などから奈良時代に行われたとみられ、同じころに地面に掘った穴に柱を立てて作った掘立柱建物の跡も新たに9棟見つかりました。
このうちの8棟は人工的に造成した平地の上に建てられ、新しくなるほど建物は北側から次第に西側を向くようになっていたことがわかったということです。
京都府埋蔵文化財調査研究センターは当時の集落の移り変わりを知る手がかりになるとみて、さらに調査を進めていくことにしています。
菅博絵調査員は、「芝山遺跡がどれほどの規模の集落だったかを考える大きな手がかりであり、遺跡の性格を明らかにするため調査を続けていきたい」と話しています。
2018.12.01 00:50
元号の由来となった古文書などの展示会 栃木 足利
2018.11.30


天皇陛下の退位と皇太子さまの即位に伴って元号が改められるのを前に、日本最古の学校と言われる栃木県足利市の足利学校では、これまでの元号の由来となった古文書などを紹介する展示会が開かれています。

足利学校には、来年の改元を前に、いにしえからの元号の由来に関わりのある30冊余りの書物を展示しています。

このうち、政治の在り方などが書かれた中国の歴史書『尚書正義』は、「平成」の由来の1つとなった世の中が平穏であることなどを意味する「地平天成」ということばが記されています。

また、「大正」と「明治」の由来となったことばは、中国の周の時代の占いの書物『周易』に記されていて、元号に込められた国の繁栄などの願いを書物でたどることができます。

訪れた60代の男性は「書物に即した説明があって、元号の由来への理解が深まりました」と話していました。

足利学校を管理する「史跡足利学校事務所」の石川維主査は「元号が改められる機会に、これまでの元号にも関心を持ってほしい」と話していました。

この展示会は、来月2日まで開かれています。
2018.11.30 13:51
祭祀用?「石剣」3本発掘 千葉市若葉区 加曽利貝塚
2018.11.23


昨年、特別史跡に指定された加曽利貝塚(千葉市若葉区)で、同市教委は20日、約3千年前の縄文時代晩期とみられる竪穴住居跡から「石剣」3本を発掘したと発表した。同じ住居跡から3本同時に見つかるのは全国的に珍しいという。
2018.11.23 00:00
16世紀末のキリシタン画か 神奈川・大磯の沢田美喜記念館所蔵品
2018.11.20


神奈川県大磯町の「沢田美喜記念館」は19日、所蔵品のキリシタンの宗教画が、キリスト教が日本に伝来した1549年から間もない16世紀末に描かれた可能性が高いことが判明したと発表した。専門家は「庶民が信仰の道具として描いたとみられる宗教画は他に確認されておらず、江戸幕府の弾圧を乗り越えて残ったのは奇跡的だ」としている。

記念館によると、縦22センチ、長さ320センチの和紙の巻物に、墨で「受胎告知」や「受難」などイエス・キリストと聖母マリアにまつわる15の場面が描かれ、ラテン語の祈りの言葉が仮名文字で書かれている。

巻物には「千五百九十二年」と記され、放射性炭素による年代測定法で、1556~1633年に作られた和紙との結果が出た。

この宗教画の巻物は以前から同記念館に所蔵されていたが、初めて本格的に調査した。23日から一般公開される。
2018.11.20 11:52
弥生時代の人骨“渡来系”か 青谷上寺地遺跡
2018.11.18


実際にDNA分析をされた青谷上寺地遺跡出土の人骨=鳥取市で2018年11月17日午後0時55分、園部仁史撮影

国史跡・青谷上寺地(かみじち)遺跡(鳥取市)で出土した弥生時代の大量の人骨=2世紀ごろ=のDNA分析の中間報告で、人骨の大半は朝鮮半島や中国大陸などからの“渡来系”である可能性が高いことが分かった。分析が進み、日本人の成り立ちの解明につながる成果が期待される。弥生時代の人骨の本格的なDNA分析は全国で初めて。【園部仁史】

遺跡は弥生時代前期~古墳時代前期に存在した。保存状態の良い、多種多様な出土品や老若男女の人骨が100体以上見つかるなど「地下の弥生博物館」と呼ばれている。

DNA分析を進めてきた国立科学博物館などは17日、鳥取市内で報告会を開催。同館の篠田謙一副館長は約40の人骨から母系の遺伝情報が分かる「ミトコンドリアDNA」を分析し、32体の塩基配列の特徴を調べることができたと説明した。

その結果、日本古来の“縄文系”は32体のうち、わずか1体だったといい、出土した人骨のほとんどは新たに大陸から渡ってきた人のものとみられる。さらにその“渡来系”の人骨は少なくとも12のDNAのグループに分けられることから、同遺跡が多様な人の集う交易拠点だったとする従来の説を強く裏付ける結果になった。

出土した人骨には殺傷痕のあるものも含まれ、戦乱などがあったとされる。弥生時代の日本について記された中国の史料「魏志倭人伝」などには「倭国大乱」の記述もあり、人骨を保管する県埋蔵文化財センターの浜田竜彦係長は「『どのような人が殺害されたか』などを知ることで、当時の日本の状況を探る手がかりになるかもしれない」と期待する。
2018.11.18 14:59
墳墓とみられる遺構6基見つかる 大館市の片貝家ノ下遺跡
2018.11.18


秋田県埋蔵文化財センターは16日、大館市比内町の片貝家ノ下遺跡(約6ヘクタール)で、墳墓とみられる遺構6基が見つかったと発表した。昨年度から本年度にかけて地中レーダー探査を行い、6基が遺跡の西部に集中していることを確認。これまでに竪穴建物跡や水田跡も見つかっており、同センターは「集落が墓域、居住域、耕作域に分かれていたとみられ、当時の景観がより具体的になる」としている。

同センターによると、墳墓とみられる遺構は幅約1メートル、深さ約40~50センチの溝を円形に掘り、中央部分に土を盛って造ったとみられる。直径約13メートルが1基、同9メートルが4基、同6メートルが1基あり、墳丘の高さは当時の地表から50~60センチ。

直径13メートルの遺構は、盛り土の中心に楕円(だえん)形に掘られた部分があり、溝の外側には平らに整地されたとみられる箇所がある。同センターは「楕円形の部分は埋葬場所、溝の外側の平らな部分は葬送儀礼の場だった可能性がある」とし、来年度以降も調査を続ける方針だ。
2018.11.18 12:02
「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる
2018.11.16


明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」の8日後に、信長の重臣として知られる柴田勝家が織田方に宛てた直筆の書状が新潟県新発田市で見つかりました。光秀の討伐に出遅れた勝家が、当時、京都から大阪に展開していた光秀の居場所を正確に把握できていなかったことがうかがえる内容で、専門家は「本能寺の変直後の勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ」と指摘しています。

今回見つかった書状は、本能寺の変の8日後の天正10年6月10日、今の福井市の居城にいた柴田勝家が、織田方の武将、溝口半左衛門に宛てて書いたものです。

郷土史に詳しい新潟大学の冨澤信明名誉教授が新発田市の溝口家に残る歴史資料の中から見つけました。

書状の冒頭には、「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」と、本能寺の変について勝家の驚きのことばが記されています。そして明智光秀が、拠点としていた江州、今の滋賀県にいるとみて、当時の大坂にいた織田方の重臣、丹羽長秀と連携して光秀を討伐する計画を明らかにしています。

調査にあたった専門家によると、本能寺の変のあと勝家が光秀の居場所に言及したものが見つかったのは初めてで、光秀討伐に出遅れた勝家が当時、京都から大阪に展開していた光秀の動きを把握できていなかったことがうかがえます。

調査にあたった三重大学の藤田達生教授は「本能寺の変のあとの勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ。今後は、そうした状況のなかでなぜ、豊臣秀吉が光秀討伐に素早く動けたのかという点に関心が高まるのではないか」と話しています。
2018.11.16 13:58
飛鳥時代の舎利容器発見 当麻寺西塔から
2018.11.14


奈良県葛城市の当麻寺西塔(国宝)の心柱最上部から、三重の入れ子式となった金、銀、金銅製の舎利容器が見つかり、同寺と奈良国立博物館などが14日発表した。舎利容器は飛鳥時代後期(7世紀後半)に制作された現存最古級と推測され、仏教工芸史における貴重な資料といえそうだ。

県文化財保存事務所が昨年度、西塔の修理に際して調査したところ、高さ22メートルの心柱最上部に木製の蓋をした掘り込みを発見。その中で見つかった銅筒に舎利容器が収められていた。

奈良国立博物館による詳細な調査の結果、舎利容器はほぼ球形で、外側から金銅製(高さ約9センチ、直径約10センチ)、銀製(高さ、直径とも約3センチ)、金製(同約1センチ)の3つの容器が入れ子式になっていた。最も内側の金製容器には、舎利1粒を紙に包んで収納。容器はいずれも輝きを残し、美しい姿を保っている。

仏教を開いた釈迦の遺体は金、銀、銅、鉄製からなる四重の棺に安置されたとされ、三重入れ子式の舎利容器はその伝承に基づく。国内では飛鳥時代後期に多く作られたとされ、セットで残っていたのは、法隆寺五重塔(奈良県斑鳩町)や崇福寺塔跡(大津市)で見つかったものなどわずか数例。今回確認された容器は、当時の信仰や美術工芸について知るとともに、謎に包まれた当麻寺の創建期を探る手がかりにもなりそうだ。

舎利容器は奈良国立博物館に保管され、来年2月19日~3月14日に公開される予定。当麻寺西塔には、新たに制作された複製品が納められるという。

奈良国立博物館の内藤栄学芸部長は「3点セットである上、きれいな状態で残っている。白鳳期(飛鳥時代後期)のものとして(国宝の)崇福寺の容器と双璧になるだろう」と話している。
2018.11.14 20:47
発掘:信長の屋敷跡か 小牧山城で礎石見つかる
2018.11.14


織田信長が築城したとされる愛知県小牧市の小牧山城の発掘調査で、同市教育委員会は14日、山頂の天守(主郭)近くに屋敷建物があったことを示す礎石が見つかったと発表した。信長か身内の居宅だった可能性がある。天守近くに居宅があるのは近世城郭の特徴の一つで、市教委は「小牧山城が(岐阜城や安土城に先立つ)近世城郭のルーツとの見方が一層強まった」としている。

礎石は天守の南東側斜面下の平たん地で8個見つかり、周囲には玉石敷もあった。礎石は建物2棟の柱を支えていたとみられ、1.5~1.7メートル間隔でほぼ1列に並んでいた。建物2棟の大きさは不明。玉石敷は長さ約5メートル、幅約50センチで、同じ場所から天目茶わんや青磁の小わんなどの破片数点も出土した。

これまでの発掘調査では、天守周辺の平たん地がどのように使われたか不明だった。今回の調査で屋敷が建ち、しかも格式の高い茶室などの建物向けとみられる玉石敷や高級な陶器片が確認されたことで、信長一族の居宅があった可能性が高いという。

天守近くに居宅などの城主の生活空間が設けられたのは、これまで1567年に信長が岐阜城を攻略して設けたのが初めてとされていた。小牧山城は信長が岐阜に侵攻する4年前に築城されたことから、同城の方が早かったことになる。

小牧山城では2011年の発掘調査で天守を囲む石垣が見つかっており、当時、最古の石垣は1576年築城の安土城とされていた定説を覆した。今回の発見について、滋賀県立大の中井均教授(日本考古学)は「戦国時代の山城は防御空間だったが、信長は岐阜城に居住空間を構えた記録がある。だが今回の発見で小牧山城にさかのぼることが明らかになった。さらに玉石敷は特別な建物を示しており、信長の身内の屋敷地だった可能性が高い」とコメントした。【花井武人】


尾張を統一した信長が1563年、美濃の斎藤氏を攻める拠点として築いたとされる。岐阜城に移るまで約4年間居城とした。その後廃城となったが、1584年の小牧・長久手の戦いでは徳川家康が改修して本陣とした。美濃攻めのためのとりでにすぎないと長年考えられていたが、小牧市が2004年に史跡整備の一環として発掘調査を始め、実態の解明が進んでいる。
2018.11.14 20:21
8世紀初頭の大規模寺院か 藤岡の牛田廃寺 瓦で建造年代特定
2018.11.11


群馬県藤岡市牛田で7月中旬に発掘された古代寺院跡「牛田廃寺」について、8世紀初頭に創建され、複数の建物が集まる当時としては大規模な寺院だった可能性が高いことが8日、分かった。創建年代の特定につながる瓦が発見されたほか、建物2基の存在が判明した。藤岡市教委は「文献にも記されていない新たな発見」とし、市内で初めて見つかった古代寺院跡の全容把握に向けて調査を進める。

7月時点では瓦や寺院の土台となる基壇の一部が見つかっていたが、年代や規模を絞り込めなかった。発掘調査が進む中で、基壇を囲むように次々と瓦が出土し、二つの建物があったことが分かった。寺院が集積する伽藍がらんと思われ、市教委は他にも建物が存在していたとみている。さらに、8世紀初頭のものとされる「複弁蓮華文」の文様が入った「軒丸瓦」が出土し、創建年代が明らかになった。
2018.11.11 00:23
弘前城の新発見、市民が目の当たり
2018.11.05


青森県弘前市は4日、先月26日に石垣の解体作業が終わった弘前城本丸の一般向け現場見学会を開いた。参加者は濠(ほり)の内部に下りて、石垣の解体・修復と同時に進めている発掘調査の現状を目の当たりにし、新しい発見に関心を寄せた。

見学会は発掘調査に合わせ2014年度から始まった。今回は約170人が20人ごとのグループに分かれて見学した。

市公園緑地課の職員は、石垣の積み方の一つ「野面積み」や石を切り出した時にできる「矢穴」の四角い形状が築城当時の特徴であることを説明。元禄期に構築されたと考えられる井戸遺構の中央に木枠が見つかったことや、大正時代の石垣修理にコンクリートが基礎部分の補強のために使われたことなども解説した。
2018.11.05 15:07
岐阜)光秀出生地はどこ?岐阜各地で「おらが町」主張
2018.11.04


2020年の放送が決まった明智光秀が主人公のNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」。県内のゆかりの地では「全国から観光客を集める絶好の機会」と早くも期待が高まっている。だが、光秀の出生地ははっきりせず、言い伝えられる地域も複数ある。なぜなのか。

「間違いなく可児市で生まれたと思っている」。可児市の冨田成輝市長は自信を見せる。同市瀬田にあった明智城(長山城)では、光秀が生まれ育ったとされる。かつては「明智庄」という庄園(しょうえん)があり、光秀の家臣たちが地元出身という伝承もあることから、出生地の候補とされてきた。城址(じょうし)の近くには光秀の産湯に使われた井戸もあったと言い伝えられている。

「明智光秀ゆかりの地として、ずっと売り込みたいと思っていた」と話すのは恵那市の小坂喬峰(たかね)市長だ。同市明智町には県指定史跡「明知城跡」がある。地元では毎年「光秀まつり」が行われ、同町の千畳敷公園内には「明智光秀産湯の井戸」と書かれた井戸がある。小坂市長は「地元では『うちが出生地で間違いない』という思いが強い」とPRする。
2018.11.04 17:16
大石内蔵助の「遺書」公開 徳島、討ち入り前日に記す
2018.11.02


「忠臣蔵」で知られる大石内蔵助が討ち入り前日に心情をつづった手紙が残されていることが分かった。
遺書に当たる「いとま乞い状」で、3日から徳島城博物館で展示される。
1955年ごろに東京などで展示されていたが、その後、所在が分からなくなっており、約60年ぶりの公開。

手紙は縦約17センチ、横約75センチ。
日付は討ち入り前日の元禄15(1702)年12月13日付だった。
徳島藩家老の子で、浪人中の大石に資金援助した三尾豁悟宛てだった。

手紙には、討ち入りの経緯や決意が約50行にわたって記され「吉良邸に討ち入ることになった。
志のある48人が妻子や親類の後難を顧みず、あだ討ちを行う所存」との記述もある。
討ち入り直前に脱退した毛利小平太を含め48人としていた。

手紙は東京などでの公開後、所在不明となっていたが、昨年3月、東京都内に住む三尾の子孫が、同博物館に寄託を依頼し、現存していることが分かった。
2018.11.02 16:28
旧幕府軍「脱走様」が残した銃弾入れ 逃げ込んだ民家に
2018.10.29


時代が明治に変わる150年前、現在の千葉県船橋市や市川市で、戊辰(ぼしん)戦争での戦闘の一つ「市川・船橋戦争」があった。旧幕府軍の兵が逃げ込んだ家に残したとされる銃弾入れが、11月2日に船橋市西船3丁目の葛飾公民館である歴史民話講座で公開される。郷土史を研究する「かつしか歴史と民話の会」が企画した。

銃弾入れは船橋市印内2丁目の農家、田島隆さん(60)の家に伝わる。横約20センチ、縦約7センチ、厚さ約6センチの革製で、ふたの表に徳川家の家紋「三葉葵(みつばあおい)」が二つ入っている。

1868(慶応4)年閏(うるう)4月、江戸を脱走した旧幕府陸軍の撒兵(さっぺい)隊は、法華経寺(市川市)や船橋大神宮(船橋市)などに陣を敷き、新政府軍の福岡・黒田藩兵などと交戦。隊長の江原鋳三郎(後の素六、東京・麻布学園の創設者)が撃たれて重傷を負ったことで隊は散り散りとなった。

そのうち2人の兵が田島さんの先祖、七良兵ヱ(しちろべえ)の家に逃げ込み、風呂や食事など世話を受けた礼に銃弾入れを置いていったと伝わる。七良兵ヱは金塗りの葵紋が入った銃弾入れを仏壇の奥に隠し、大切に保管していたという。田島さんは「子どものころから祖父の五郎(故人)によく話を聞かされた」と懐かしむ。

「かつしか歴史と民話の会」によると、この地域は旧幕府軍を「脱走(だっそ)様」と呼び、戦死者を埋葬して墓碑をつくり、信仰の対象にもしていた珍しい土地柄だという。伊藤邦夫会長(81)は「こうした歴史を証明する非常に貴重な銃弾入れを見ることで、地域の歴史や文化に興味を持つきっかけになれば」と話す。
2018.10.29 18:40
金閣寺に足利義満が造成した幻の池 発掘調査で
2018.10.28


京都市北区の金閣寺(鹿苑寺)の発掘調査で、同寺や市埋蔵文化財研究所は11日、金閣に面した鏡湖池南側にあったとされる「南池跡」について、創建した足利義満が造成し、未完に終わった池だったことが分かり、同時期の礎石建物も近くで新たに見つかったと発表した。義満が晩年を過ごした「北山殿」では金閣のほか、国内最大級の北山大塔が存在したことがすでに明らかになっている。幻とされた南池跡の出土は、北山殿が現在の建物規模より大規模に造成されたことを裏付け、室町幕府最盛期を築いた権力者・義満の権勢を示すものという。

金閣寺の境内整備に伴い、市埋文研が2018年8月までの約2年間、約840平方メートルを調査していた。

南池跡では、池を囲うように東、西、南側に盛り土し、堤(高さ0・6~1メートル、幅2~5メートル、総延長170メートル)を築いているのを確認した。池内部や堤沿いに、直径6~20メートルの島状の高まりが3カ所あった。遺物の出土状況から、北山殿が築かれた14世紀末ごろに造成されたとみられる。

ただ、造成土からは防水のために施す粘土層が見つからず、周縁部に護岸石もなかったため、未完だったとみている。

堤は15世紀後半ごろにかさ上げされ、高さ約2メートルの土塁のようになっていた。応仁・文明の乱(1467~77年)で西軍の陣地になった際、防御用に造り替えられたのではないかとする。

一方、南池跡の北東辺では、東西5・4メートル、南北6メートルの小型建物跡が出てきた。礎石13個が並び、正面方向で人目に付く東側柱や縁側には、30センチ四方に加工した白い花崗岩(かこうがん)を用いていた。土を固めて整えた舞台のような「三和土(たたき)」(東西10メートル、南北7メートル)が東南方向に広がっており、私的な空間として儀式などを行っていた可能性があるという。

北山殿は、義満が死去する1408年まで約10年間を過ごし、政務を行う会所や御所もあり、近くに武家や公家、門跡寺院住職らも集住したと、貴族や僧侶の日記から推定されている。近年の発掘調査では100メートル級の高さとされる北山大塔の頂部分を飾った相輪が見つかっている。

京都市埋文研は「今回見つかった大規模な造成跡や精密に加工された礎石から、義満の北山殿が想像以上に大規模な構造だったことが分かる。ただ、建物の配置や使い方に不明点が多く、文献に基づく検証を進めたい」としている。
2018.10.28 01:12
長岡京跡南西域から大型建物跡 皇室関係の邸宅か
2018.10.27


京都府長岡京市の長岡京(784~794年)跡から、南北約21メートル、東西約6メートルの大型掘っ立て柱建物跡が見つかり、市埋蔵文化財センターが25日発表した。
長岡京跡で出土した建物跡としては最大級。
重要な建物にしか使わない「旨」の字が刻印された瓦片も出土していることなどから、同センターは皇室関係の邸宅の可能性が高いとみている。

病院建設に伴い右京六条三坊三町の1200平方メートル調査。
この結果、調査地の西端から南北7間(21メートル)、東西2間(6メートル)、西側1間の庇(ひさし)付きの建物が出土した。柱穴跡は約1メートル四方と巨大で底には柱を支える木製の礎板もあった。
同京の南西域から大型建物跡が出土したのは初めて。

建物が西向きであることから同センターは、それと対の東に庇が付く建物が今回の調査地の西隣・同三坊六町に存在すると想定。
邸宅が少なくとも2町(南北120メートル、東西240メートル)に広がっていたことが分かるとしている。

また調査地の西側から南北5メートル、東西13メートルの建物跡とそれに伴う柵列跡が東西に出土。柱跡は長径20センチの楕円形で、底には瓦状のタイル「●(せん)」が礎板として据えられていた。
柱穴に●が使われた例は、同京跡では東院(離宮)跡など数例しかない。

同センターは「瓦や●を据えた柱、大規模建物跡などを考えると、身分が相当高い人の邸宅。
これまで出土していない南西域からの大型建物跡の出土で、京内の土地利用の解明にも大きな成果になった」と話している。
2018.10.27 21:30
東山遺跡から2棟の建物跡 紫香楽宮と関連 役所、工房跡か 滋賀
2018.10.19


さし東山遺跡で新たに2棟の建物跡発見
東山遺跡で見つかった2棟の掘っ立て柱建物跡。
人が立っているのが柱の穴のある場所(滋賀県甲賀市教育委員会提供)

滋賀県甲賀市信楽町黄瀬の「東山遺跡」で奈良時代中期の2棟の掘っ立て柱建物跡が見つかり、市教育委員会が18日発表した。聖武天皇が造営したとされる「紫香楽宮(しがらきのみや)」の関連施設とみられ、役所や工房として使われていた可能性が高いという。
市教委は「紫香楽宮の全容を解明するための重要な知見を得ることができた」としている。

紫香楽宮は聖武天皇が742~745年に大仏の造立を行うために造営したとされる。
東山遺跡は紫香楽宮跡に隣接しており、昨年の調査で奈良時代中期の大型建物跡(南北42メートル以上、東西約15メートル)を確認。

市教委は大型建物が宮殿の一部や儀礼用の施設だったと想定し、対となる同規模の建物を探して大型建物の西側の区域を調査していた。

市教委によると、大型建物の西側約120メートルの場所で、柱を据えるための11の方形穴が見つかった。
約1メートル四方で、深さは最大約50センチ。
柱穴の状況から、南北に細長い2棟の建物跡と分かった。
2棟とも柱と柱の間は約3・7メートルだった。

大型建物と同様、紫香楽宮に関連した施設とみられるが、大型建物よりも小さく、同時代の儀礼用の施設の特徴とされる左右対称の配置でもないという。

さらに、聖武天皇が大仏造立のために建てた甲賀寺跡が300メートル南にあることなどから、市教委は「2棟は役所や工房といった大仏を造るための実務的な施設だった可能性が高い」と分析している。
2018.10.19 09:37
武田信玄ゆかりの木像の色彩を再現 山梨
2018.10.19


山梨県の寺に伝わる戦国武将の武田信玄が造らせたとされる木像は、顔料がはがれ落ち、くすんだ状態になっています。
山梨県立博物館は、残った顔料を科学的に分析し、木像が制作された当時の華やかな色彩を再現しました。

山梨県山梨市の清水寺に伝わる室町時代の木像、「勝軍地蔵騎馬像」は、武田信玄が京都の仏師を招いて造らせたとされ、去年、県の有形文化財に指定されました。

しかし、木像は顔料がはがれ落ち、全体的にくすんでいることから、山梨県立博物館は、制作された当時の色彩の再現に挑みました。

表面に「蛍光X線」をあてて、水銀や銅、カルシウムなどの元素を検出し、当時の顔料の成分と照らし合わせて、本来の色を判断していきました。

その結果、衣服の赤く見える部分からは多くの金が検出されたことから実際には金色だったとみられ、黒っぽく見える袖やすその部分は、群青色をベースに金や赤の細かな文様で彩られていたと結論づけました。
そして、分析結果をもとに制作当時の華やかな姿を再現した画像データを作成しました。

県立博物館の学芸員の西願麻以さんは「今の色合いもよいですが、信玄が大事にしていたと思われる当時の華やかな姿も知ってほしい」と話しています。
2018.10.19 09:28
駿府城から「秀吉」遺構=金箔瓦や石垣見つかる-静岡
2018.10.16


静岡市は16日、徳川家康が築いた同市葵区の駿府城で、豊臣秀吉が家臣に作らせたとみられる金箔(きんぱく)瓦と、天守台の石垣が見つかったと発表した。

市によると、見つかったのは金箔瓦約330枚と、南北約37メートル、東西約33メートルの天守台の石垣。城の発掘調査を進める中、見つかった。石垣は自然石を積み上げた野面積みで、金箔瓦を作る技術も豊臣期の特徴を示しているという。

駿府城は家康が江戸城へ移った後に、秀吉の家臣中村一氏が入城。家康が晩年に再び駿府城に入り、大改修をしたとされる。これまで中村時代の駿府城についての詳細は分からず、幻の城となっていた。今回の発見によって、秀吉が中村一氏に新たに造らせたことは間違いないとみられるという。家康に対して威光を示す狙いがあったと考えられる。
2018.10.16 18:06
潜伏キリシタンが伝承、禁教期の元号入り暦発見
2018.09.11
潜伏キリシタンが伝承、禁教期の元号入り暦発見


「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産がある五島市・奈留島で、江戸時代の1850年(嘉永3年)の日付やキリスト教の記念日が記された潜伏キリシタンの暦が見つかった。1614年の禁教令発令後、1859年の開国までは国外から宣教師が入ってきていないことから、専門家は「禁教期に信者が暦を伝承したことを裏付ける貴重な証拠」と注目している。

 暦があったのは、世界文化遺産に登録されたキリシタン関連遺産の構成資産「奈留島の江上集落」と同じ西海岸に位置する同市奈留町浦、水産会社経営吉田茂樹さん(65)の自宅。先祖を祭る祭壇で杉箱に入れたままになっていたのを、「禁教期のキリシタン研究会」の柿森和年世話人が確認した。

 暦は十数ページの和紙に書かれ、「嘉永」の元号の日付が入っている。マリアがイエスを身ごもった受胎告知を祝う2月26日の「さんた丸や」(サンタマリア=聖母マリア)の記述から始まり、日曜日を意味する「どみんご」、日本で宣教が始まった日などが記されている。同じ内容を新しい和紙に書き写したものもあり、劣化した暦を更新したとみられる。

 暦の内容は、1634年の教会暦を日本の太陰暦に改編し、年間行事や儀礼の基準とされた「バスチャン暦」とほぼ同じ。潜伏キリシタンが信仰を続ける上で欠かせず、暦を管理する役職者が組織のリーダーを務めるほど重視されていた。

 暦が保管されていた杉箱には、殉教者の衣服とされる布きれも入っていた。集落では、隠れキリシタンの組織が昭和40年代まで残っており、死者を送る際に衣服の切れ端を持たせる習慣があったという。

 柿森世話人は「潜伏キリシタンの暦は各地で見つかっているが、元号が入っているものは珍しい。時代が分かる暦の中では、最も古い部類になるのではないか」と指摘。吉田さんは「先祖が代々伝承してきたもので、これからも大切に保管していきたい」と話した。(坂田元司)

読売新聞
2018.09.11 14:14
奈良の箸墓古墳 被葬者は岡山出身?カギ握る埴輪の祖先
2018.08.28
奈良の箸墓古墳 被葬者は岡山出身?カギ握る埴輪の祖先



奈良県橿原市の弁天塚古墳で出土した宮山系特殊器台。
裾の広がった脚部が残っている(奈良県立橿原考古学研究所付属博物館提供)
奈良県桜井市の箸墓古墳(全長約280メートル)は、3世紀中ごろ、最初に築かれた大型の前方後円墳だとみられています。
このころの倭について記した中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場する女王・卑弥呼の墓の有力な候補地としても知られています。

この古墳でみつかった特殊な土器が、吉備(岡山県)の複数の地域の工人によってつくられたと考える新説を、最近、春成秀爾・国立歴史民俗博物館名誉教授が発表しました。
箸墓古墳に葬られた人物(被葬者)が、吉備と強い結びつきをもっていた可能性をうかがわせる研究成果です。

吉備では弥生時代後半、儀式の際に使われる壺などを載せる「器台」が発達し、複雑な文様を持つ高さ1メートル前後の円筒形の大きな土器がつくられました。
これは「特殊器台」と呼ばれています。
春成さんは1967年、師の近藤義郎・岡山大教授(故人)と連名で論文を発表し、この特殊器台が、のちの古墳時代に古墳の上に立てて並べられた「円筒埴輪」の原型だと考えました。
岡山県倉敷市には弥生時代最大級の墳墓・楯築墳丘墓(全長約80メートル)がありますが、この墓でも特殊器台がみつかっています。
2018.08.28 13:29
スマホかざすと平安時代の景観 「大内裏」表示するアプリ開発
2018.08.26
スマホかざすと平安時代の景観
「大内裏」表示するアプリ開発



大極殿跡でスマホをかざすと、画面に表示される平安時代の再現CG(京都市中京区)
平安時代の景観を現在の京都市内で見られるスマートフォン用アプリを、立命館大の教授らが開発し、無料公開している。
拡張現実(AR)技術を使い、平安京の政治中枢「大内裏」の各施設跡でスマホをかざすと、鮮やかな朱塗りの建物が現実風景に重なって表示される。
開発者は「史跡巡りや地域学習に活用してほしい」と期待する。

アプリは「バーチャル平安京AR」で、矢野桂司教授(人文地理学)らの研究チームが開発した。
GPSの位置情報と、京都アスニー(中京区)に展示されている平安京の復元模型の3次元データを活用し、平安京北部にあった大内裏内(南北1・4キロ、東西1・2キロ)の各施設跡に復元モデルを配した。

例えば千本丸太町交差点(上京・中京区)でアプリを起動して、北向きにスマホをかざすと、天皇が政務や国家儀式を行った大極殿の再現モデルが画面内に登場。
各施設跡で同様に操作すれば、それぞれの建物の再現モデルを見ることができる。
10秒ごとに位置情報が更新されるので、移動にも対応している。

大内裏内のほかにも、平安京のメインストリート朱雀大路の景観や平安京の南の入り口だった羅城門の外から都の中を見るような映像コンテンツも盛り込んだ。
グーグルプレイとアップルストアから無料でダウンロードできる。

矢野教授は「好評であれば、有名貴族の邸宅跡などの情報も拡充していきたい」と話している。
2018.08.26 20:50
幕末徳川将軍家の銀印見つかる
2018.08.23
幕末徳川将軍家の銀印見つかる
国家元首の意思示す



江戸末期、徳川将軍家が外交文書に押印した銀印「経文緯武」が見つかったと、徳川記念財団(徳川恒孝理事長)が20日付で発表した。徳川14代目将軍家茂と15代目将軍慶喜が、日米修好通商条約の批准書などで対外的に「国家元首」として意思表示したことを示す貴重な資料だ。

 銀印は昨年、徳川宗家の蔵を調査する過程で見つかった。徳川家の家紋「三つ葉葵」のある黒塗りの箱に収められていた。縦、横ともに9.2センチ、高さは7.8センチで、重さは2.7キロ。幕府側から命じられた篆刻家の益田香遠らが制作した。「経文緯武」の言葉によって、文武両面の力を示そうとしたと考えられるという。

https://this.kiji.is/404006555961295969?c=39550187727945729
2018.08.23 12:37

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