吉野宮
2019.07.19
飛鳥・奈良時代に天皇がたびたび行幸した離宮「跡と推定される奈良県吉野町の宮滝遺跡(国史跡)で、昨年見つかった奈良時代前半(8世紀前半)の大型建物跡の周辺に、同時期の建物群や空間を囲う塀が整然と並んでいたことが新たに分かり、吉野町教委と県立橿原考古学研究所が19日発表した。出土した瓦の特徴なども合わせ、聖武天皇(在位724~749年)が行幸した離宮であることが確実になったという。
2019.07.19 20:22
「百舌鳥・古市古墳群」世界遺産に決定 
2019.07.06


アゼルバイジャンの首都、バクーで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は6日、世界最大級の墳墓である「仁徳天皇陵古墳」(大山(だいせん)古墳)を含む「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」(大阪府)を世界文化遺産に登録すると決定した。天皇や皇族の墓として宮内庁が管理する「陵墓」の登録は初めて。
2019.07.06 18:10
竹島、最古の地図発見 1752年に航路示す
2019.06.27


竹島への航路を示した日本地図としては最古とみられる「日本志山陰部隠岐国地図」が見つかった。東京の国立国会図書館所蔵の資料を精査して発見した舩杉力修・島根大准教授は「竹島を自国の領土と捉えていたことを示す貴重な資料」としている。

地図は江戸時代中期の1752年に地図学者、森幸安が作成。隠岐の島町の「福浦湊」の北西方向に、江戸時代は「松島」と呼ばれていた現在の竹島があり、2日間で到着する旨が記載されていた。当時は竹島と呼ばれていた現在の韓国・鬱陵島から「高麗を見ることは出雲から隠岐を見るほど近い」という内容もある。

舩杉准教授は江戸幕府の鎖国政策下にあえて「高麗を見る」との表現に注目し、日本人が古くから竹島や鬱陵島へ通っていた事実を物語ると解釈する。

これまで確認されている竹島が描かれた最古の日本地図は、水戸藩の地理学者・長久保赤水(せきすい)が1768(明和5)年に作成した「改製扶桑分里図」だった。
2019.06.27 02:52
松江城下に大規模防空壕 戦争末期の原形残す
2019.06.12
松江市の松江城の敷地内に、太平洋戦争末期に造られた大規模な防空壕があることが市の調査で分かった。島根県庁に近く、当時の文書から職員の退避用として造成したとみられる。専門家は「ここまで原形を残したものは珍しい。戦争の記憶をとどめる文化財だ」と指摘する。

防空壕には出入り口に当たる二つの坑道があり、城の敷地の南側、かつての内堀に面している。中は2メートルほどの高さがあり、幅2.7メートル、長さ7.5メートルと8.9メートルの二つある坑道の突き当たりに、幅約28メートル、奥行き約4.5メートルの広い空間があった。
2019.06.12 17:35
豊臣大坂城の遺構確認=地中に石垣や基礎部分-大阪市立大
2019.06.04


豊臣秀吉によって築かれた当初の大坂城の遺構からやぐらとみられる構造物の基礎部分や石垣などが地中に残っていることを確認したと発表した。
大坂城は1583年に築かれたが、大坂夏の陣で落城。その後徳川幕府の再建工事によって埋められ、新たな城が建てられた。
調査は2015年から行われ、金属棒を突き刺す方法で地中の様子を探った。
その結果、天守台の外郭から続く3段構造の石垣や、やぐらとみられる構造物の基礎部分、土橋状の構造物などの存在を確認した。これらは当時の大坂城を描いた江戸時代から伝わる絵図とも、おおむね一致しているという。
2019.06.04 19:42
北方領土・国後島に竪穴住居跡 100軒発見「奇跡的」
2019.05.28
北方領土の国後島を24~27日の日程で訪れていた学術交流訪問団が27日、同島で続縄文時代の竪穴住居跡約100軒を見つけたと発表した。古いもので約2300年前のものという。

竪穴住居は深いもので1.5メートルで、形状からほとんどを続縄文時代のものと推定した。かつては海だった場所に砂丘ができ、そこに竪穴住居の集落が形成されたとみている。
2019.05.28 00:11
武田信玄、諏訪大社信仰の文書 長野県立歴史館が入手
2019.05.24
長野県千曲市の県立歴史館は24日、戦国武将武田信玄の朱印状を入手したと発表した。1567年に諏訪大社内にあった同県諏訪市の寺院に宛てて新たな寄付を約束した公的な文書。信玄の諏訪大社への厚い信仰心を示す貴重な朱印状という。

信玄は当時、信濃国の大半を領有。廃れた諏訪大社上社の祭礼を復興させるために関係寺社を支援していた。朱印状は復興が一段落したのを受け、寺院に与えていた特例的な収入を召し上げる代わりとして、新たに土地を寄付すると記されている。

7月6日から8月18日まで歴史館で展示される。
2019.05.24 17:53
弥生の青銅製環状分銅か、滋賀 下鈎遺跡、国内初
2019.05.23
弥生時代の環濠集落として知られる下鈎遺跡(滋賀県栗東市)で、20年前に出土した弥生時代後期後半(2世紀後半)のリング状の青銅品1点が、てんびんばかりに用いる分銅「環権」である可能性が高いことが分かり、市教育委員会が23日発表した。青銅製環権は中国や韓国では墓に副葬された例があるが国内で見つかるのは初めて。

下鈎遺跡では青銅器や祭祀に使う赤色顔料「朱」を生産しており、市教委は「中国か朝鮮半島からの渡来品と考えられる。青銅の配合、朱の計量など精密な計量に用いたのだろう」としており、弥生時代に度量衡制度が伝わっていたことを示す史料として注目されそうだ。
2019.05.23 17:43
清盛ら平氏の拠点「六波羅邸」初の確認
2019.05.17
清盛ら平氏の拠点「六波羅邸」初の確認 堀跡を発見、京都東山 

平安時代末期に平清盛ら平氏一族が屋敷を構えた「六波羅邸」の堀跡が京都市東山区で見つかったと、16日発表した。清盛が活躍していた時代の遺構とみられ、六波羅邸に関わる屋敷跡の確認は初めて。敵の侵入を防ぐために掘られたとみられ、軍事防御用の堀では京都最古の出土例という。

調査地は東山区五条通東大路西入ル北側の浅見五郎助窯跡。

堀跡は東西15メートル、深さ1・3メートルの逆台形で幅は上面3メートル、底面1・8メートル。水も張られていたとみられ、南側には幅1・5メートルの土塁もあった。堀の西側5メートルは早くに埋め立てられ、埋めた部分と堀との境には土留めの石垣が築かれていた。石垣は石を積み、土を固めて補強する工法「版築」で築くなど鳥羽離宮跡(伏見区)にある同時代の白河天皇陵の堀によく似た造りという。

堀跡からは平安末期の12世紀中ごろの中国から輸入した高級な白磁などが見つかり、一帯を拠点にした平氏の屋敷遺構と判断した。

同志社女子大の山田邦和教授は「この時期の京都における軍事用の堀の出土例はなく、相当大きなサイズだ。武士が台頭する時代を象徴する貴重な遺構といえる」と話している。
2019.05.17 16:45
卑弥呼はカエルを神にお供えしてた?出土した骨を分析
2019.04.25
纒向遺跡で、カエルが何らかの祭祀に利用された可能性のあることが分かった。
カエルは古代日本列島や中国王朝で神事や食用に使われるケースがあったとみられ、専門家は纒向遺跡でもカエルが神に供えられた可能性を指摘する。
2019.04.25 16:10
纒向遺跡で、祭しに使われたとみられるカエルの骨が見つかる
2019.04.25
纒向遺跡で、祭しに使われたとみられるカエルの骨が見つかり、専門家はカエルが供えられたことを示す具体的な資料で、当時の祭しを知るうえで貴重な発見だとしています。

この動物の骨を奈良女子大学の宮路淳子教授と琉球大学博物館の中村泰之協力研究員が詳しく調べたところ、12匹分のカエルの骨、合わせて117点が含まれていることが分かりました。

カエルの骨には無数の傷があり、個体ごとではなくバラバラの状態で埋まっていたということで、宮路教授は「カエルが桃などと一緒に意図的に埋められていて、祭しに使われた可能性がある」と話しています。

同志社大学の辰巳和弘元教授は「地面をふんばって跳びはねるカエルは大地の主とされ、古代中国では霊力のある動物とされている。そのカエルが供えられたことを示す初めての具体的な資料で、当時の祭しを知るうえで貴重な発見だ」と話しています。
2019.04.25 15:05
アジアで第5の原人 6万年前、比ルソン島に
2019.04.11
フィリピンの洞窟で見つかった歯などの化石が新種の原人と判明
現生人類のホモ・サピエンス(新人)が到達する前か
化石は5万年前から6万7千年前のものと推定
「アジアに多様な人類がいたことが示された」
2019.04.11 20:31
弥生人もウナギ好き? 漁に使う「筌」出土、鳥取
2019.04.11


青谷上寺地遺跡展示館(鳥取市)は、同遺跡で出土し、ウナギ漁などに使用される道具「筌」を展示。弥生時代後期(約1900年前)に作られたが、現在使われているものと形はほとんど変わらない。
弥生時代のウナギの骨も見つかっている。同遺跡では多様な種類の魚の骨が出土しており、漁に合わせて道具を作っていたことが推測できるという。
川底などに沈めて使う筒状の漁具で、通常、入り口は入った魚が逃げないようかえしが付いている。出土品はテイカカズラとイネ科の植物を編んでおり、長さ49.4センチ。
2019.04.11 19:49
新元号「令和」
2019.04.01


新元号「令和」
出典は万葉集

万葉集巻五
梅花の歌三十二首、并せて序

「初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。」

初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。
2019.04.01 11:54
復元の「尼崎城」記念式典 兵庫、観光名所に期待
2019.03.28


1873(明治6)年の廃城令で取り壊され、兵庫県尼崎市の公園に復元された「尼崎城」で28日、一般公開に先立つ記念式典が開かれた。

模擬天守閣は鉄筋コンクリート造りで、高さ約24メートル。江戸初期には尼崎藩主戸田氏鉄の居城として築かれていた。当時の城跡から約300メートル離れた阪神電鉄尼崎駅そばの公園に再建し、昨年11月に完成した。
一般公開は29日から。入場料は大人500円、小中高校生250円。
2019.03.28 22:41
秀吉から清正へ「朝鮮出兵の命令書」、本物発見
2019.03.28


豊臣秀吉が、加藤清正に宛てて朝鮮出兵を命じた朱印状が見つかった。「文禄の役」で清正が出兵する直前に出されたものとみられる。
清正に対し、「(第1軍の)小西行長らに朝鮮出兵を命じたので、お前も出陣せよ。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断しないように」と伝える。また、「先に行った者たちが道中で詰まっているので、皆で相談してスムーズに進めるように」という趣旨の秀吉らしい細かい指示もある。
2019.03.28 14:28
秀吉の最古級の検地帳発見 信長配下時代の貴重な史料
2019.03.26


羽柴秀吉が、織田信長の家臣として播磨を治めていたころにつくらせた検地帳の写しがみつかった。信長政権下の検地帳が確認されるのは珍しく、これまでにみつかった秀吉の検地帳の中でも2番目の古さ。

みつかったのは「播磨国飾東郡緋田村」の検地帳の写し。二つ折りにした18枚の和紙の表裏を使って計72ページに及ぶ。表紙に天正8(1580)年10月24日の日付と村名が記され、本文には税をまとめて収める名請人150人の名前や地名、その土地の面積、耕地の等級など、のちの太閤検地と類似した項目が並ぶ。

末尾に秀吉の家臣だった「小出秀政」「桑原貞也」の名前があったことなどから、博物館は秀吉の検地帳と断定。2人の名前に「殿」と敬称を書き加えており、緋田村が原本を書き写して保存していたとみる。
2019.03.26 17:27
慶喜直筆の書「誠」発見、「広辞苑」新村出の旧宅で
2019.02.26


江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜(1837~1913年)直筆とみられる書が、「広辞苑」(岩波書店)の編者として知られ、京都大教授を務めた言語学者の新(しん)村(むら)出(いずる)の旧宅(京都市北区)から発見された。出の養父、猛(たけ)雄(お)が慶喜に仕えていた縁で新村家に受け継がれたという。約1メートル四方の絹地に「誠」と大きく墨書きされ、専門家は押してある印の形から、慶喜が明治になって書いたものと分析している。
2019.02.26 22:00
横たわる夕顔、嘆く光源氏…幻の「夕顔の死」見つかる
2019.01.15


江戸時代初期に描かれ、全容がわからないこともあって「幻」とも呼ばれる「盛安本源氏物語絵巻」のうち、ヒロインの一人である夕顔の死を描いた場面が新たにフランスで見つかった。源氏物語絵巻で不幸な場面を描いたものは、極めて珍しい。

横たわる夕顔や死を嘆く光源氏、駆けつける家臣、建物の内装などが精巧に描かれた図は縦35センチ、横132センチ。保存状態はよく、金がふんだんに使われている。
2019.01.15 22:36
明智光秀が築いた城跡?
2019.01.13



明智光秀が築いた城跡? シカが草食べ、姿露わに 謎の山城を追う(上)/兵庫・丹波市

兵庫県丹波市柏原町の柏原八幡宮がある八幡山(入船山)に残る山城跡。
戦国武将・明智光秀が築いたとも伝わるが、昭和50年代の兵庫県教育委員会の調査で初めて正式に存在が確認され、「八幡山城」と名付けられるまでは名前さえない”名無しの城跡”だった。
調査以降も、諸説ある上、史料の少なさから地元でもその存在を知る人は少ない。
近年、シカが下草を食べることで、より遺構がはっきりとわかるようになる。

「神社壊し、城を築城」

八幡山城は、現在の神社社域と雑木地にあった城で、創築者は明智光秀と記述。
城史の項には「織田信長の軍将として西丹波平定にあたった光秀は、(氷上郡、現・丹波市と多紀郡、現・篠山市の境にある金山に)金山城を築いて拠点としていたが、氷上郡進攻の前進拠点として、柏原八幡社殿と付属建物を壊して城塞を築いた」とあり、「神殿を壊したのは、郷民に畏伏感を抱かせることを狙ったと考えられる」と考察している。

長くてわずか3年、短命の城

天正7年(1579)、光秀と地元の波多野宗貞との「八幡山での戦い」で社殿などが焼失したとされており、この後に八幡山城が築城された可能性がある。
また、天正10年(1582)、光秀が信長に対して反旗を翻した「本能寺の変」後に、光秀を討った豊臣秀吉配下の地元、黒井城主・堀尾吉晴が普請奉行を務めて神社を再建している。

これらから考えると、天正7年ごろに光秀が陣城として八幡山城を造っていたとすれば、長くてもわずか3年ほどという短命の城だったとみられる。

八幡山城跡の中心遺構は、柏原八幡宮の社域を城地とする南半分と、大きな堀切(山肌などを削って溝にしたもの。空堀とも)を隔てて尾根に築いた連郭部。
報告書は「短期間に築造した臨時の城としては規模も大きいし、構法もすぐれている」と評価、「地元の反織田勢力の拠点だった高見山城や穂壺城の近くにあり、進攻の格好地だった。
城の歴史は短かったが、果たした役割は極めて大きかった」とまとめられている。

八幡山城跡には、高い石垣が残る金山城跡のように、織田・豊臣系城郭の特徴は確認できないが、平らに開けた曲輪(土塁や石垣、堀などで区画した区域)状の遺構が多数見られる。

県教委の報告書には、光秀築城と書かれているが、断定できる根拠は見つかっていない。
果たして光秀が築いた山城だったのだろうか。
2019.01.13 15:46
江戸初期に「大坂幕府構想」か
2018.12.20
江戸時代の初期、大坂を徳川幕府の本拠地とする「大坂幕府構想」が検討されていた可能性を示す新たな書状が見つかりました。
書状からは、当時江戸にいた将軍の居城になることを想定して大坂城の築城が進められていたことがわかり、調査に当たった専門家は、構想が具体化していたことがうかがえると指摘しています。

この書状は、三重県に住む男性が茶道具店から購入し、三重大学の藤田達生教授などが調査を行いました。
その結果、書状は花押や筆跡などから、「大坂の陣」のあと大坂城の建て直しを担当していた小堀遠州が、遠州の義理の父親で徳川秀忠の側近、藤堂高虎に宛てたもので、記された内容から、寛永3年=西暦1626年に書かれたと考えられることがわかりました。
藤田教授によりますと、書状の中で遠州は、大坂城の茶室の庭に置く石を献上するよう高虎に進言し、その理由について、「大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべきところ」と説明しています。
誰の城になるかは明記されていませんが、城に「御」という敬称が付けられていることなどから、当時江戸城にいた大御所の徳川秀忠や三代将軍、家光の居城になるという前提で、遠州が大坂城の整備を進めていたことがわかるということです。
徳川幕府の本拠地を江戸から大坂に移す「大坂幕府構想」は、この書状の10年ほど前、「大坂夏の陣」の直後の史料にも記されていますが、間接的な聞き書きにとどまっていました。
この構想について藤田教授は、「大坂は豊臣家以来の伝統的な場所で、京都と大坂で体制を安定させていく目的があった。豊臣家が滅亡したときから家康が近畿地方を政権の本拠地にしていこうと考えるのは自然なことだ」と指摘しています。
そのうえで、「『ゆくゆくは居城になる』というような表現については、あまりにも大きな内容なのでびっくりした。家康の構想に沿って秀忠も動いていたことがうかがえる」と話しています。
2018.12.20 21:37
徳川家光は「ヘタウマ」画家? 水墨画を公開
2018.12.20



徳川幕府の礎を築いた3代将軍家光の水墨画2点の実物が来年3月、東京・府中市美術館の「へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで」展で初めて公開される。家光の作品はこれまで10点弱しか見つかっていないが、いずれも素朴な画風だといい、金子信久学芸員は「意図して下手に描いたのかはわからないが、これが家光のスタイルだった」と話す。

東京都文京区の養源寺に保管されていた図」はとぼけた表情を向け、数年前に京都で見つかった「兎図」は、大きな黒目で切り株の上にちょこんとたたずむ。兎図が表装された掛け軸には、葵の紋があしらわれている。美術館によると、家光は政務の傍ら絵をたしなみ、家臣に作品を与えることもあった。
2018.12.20 16:28
応仁の乱で途絶えた「北野祭礼」記録、15世紀前半の文書見つかる 北野天満宮
2018.12.08


北野天満宮(京都市上京区)は6日、室町時代に応仁の乱で大部分が途絶えた「北野祭礼」を記録した15世紀前半の文書「御祭礼之事書」など新史料が見つかったと発表した。

北野祭礼は天皇の使者が派遣される「勅祭」で、行列などがあったとされる。現在は一部の神事のみが伝わり、謎が多い。

御祭礼之事書は京都市内の古書店で昨年12月、京都文化博物館の西山剛学芸員が発見。祭礼に伴う帳簿で、表紙に応仁の乱以前の「応永11(1404)年より」と年号があり、社務を担った「目代家」という名前があった。祭礼を巡る「御幣役」「伝馬役」といった役職や、周辺地域から米を徴収したことも記載。
2018.12.08 15:20
北方領土:択捉に松前藩士の墓所
2018.12.03


北方領土・択捉島中部の振別(ふるべつ)付近で、在島ロシア人が日本人の墓所を発見した。墓石の氏名や亡くなった時期が江戸時代後期の松前藩の史料と一致し、南下するロシアに備えて「北辺警備」の最前線に派遣され、島で亡くなった藩士らの墓と判明した。北方領土で松前藩の墓所が確認されたのは初めて。研究者は当時の状況を知る手がかりになると注目している。
2018.12.03 12:29
県が七つしかないのになぜ「九州」なのか
2018.12.01


九州が「九州」と呼ばれるようになったのは、8世紀ごろに遡るとされる
古くは四つの国に分かれていたが、律令時代になって九つに細分
明治時代の廃藩置県でこの九つの国が廃止され、七県が設置された

古くは4つの国だった

この地方は、古くは筑紫の国、豊国・火の国(肥の国)・日向の国の4つに分かれていましたが、律令時代になって九つの国に細分された。
その九つとは、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隈。
そして、筑前にあり、「遠の朝廷(とおのみかど)」とされた大宰府が、この九つの国々を統率していた。
明治時代に入って廃藩置県がおこなわれ、全国の行政区分が再構成されていく過程で、この九つの国も廃止され、かわりに七県が設置されることになった。
2018.12.01 03:47
元号の由来となった古文書などの展示会 栃木 足利
2018.11.30


天皇陛下の退位と皇太子さまの即位に伴って元号が改められるのを前に、日本最古の学校と言われる栃木県足利市の足利学校では、これまでの元号の由来となった古文書などを紹介する展示会が開かれています。

足利学校には、来年の改元を前に、いにしえからの元号の由来に関わりのある30冊余りの書物を展示しています。

このうち、政治の在り方などが書かれた中国の歴史書『尚書正義』は、「平成」の由来の1つとなった世の中が平穏であることなどを意味する「地平天成」ということばが記されています。

また、「大正」と「明治」の由来となったことばは、中国の周の時代の占いの書物『周易』に記されていて、元号に込められた国の繁栄などの願いを書物でたどることができます。

訪れた60代の男性は「書物に即した説明があって、元号の由来への理解が深まりました」と話していました。

足利学校を管理する「史跡足利学校事務所」の石川維主査は「元号が改められる機会に、これまでの元号にも関心を持ってほしい」と話していました。

この展示会は、来月2日まで開かれています。
2018.11.30 13:51
「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる
2018.11.16


明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」の8日後に、信長の重臣として知られる柴田勝家が織田方に宛てた直筆の書状が新潟県新発田市で見つかりました。光秀の討伐に出遅れた勝家が、当時、京都から大阪に展開していた光秀の居場所を正確に把握できていなかったことがうかがえる内容で、専門家は「本能寺の変直後の勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ」と指摘しています。

今回見つかった書状は、本能寺の変の8日後の天正10年6月10日、今の福井市の居城にいた柴田勝家が、織田方の武将、溝口半左衛門に宛てて書いたものです。

郷土史に詳しい新潟大学の冨澤信明名誉教授が新発田市の溝口家に残る歴史資料の中から見つけました。

書状の冒頭には、「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」と、本能寺の変について勝家の驚きのことばが記されています。そして明智光秀が、拠点としていた江州、今の滋賀県にいるとみて、当時の大坂にいた織田方の重臣、丹羽長秀と連携して光秀を討伐する計画を明らかにしています。

調査にあたった専門家によると、本能寺の変のあと勝家が光秀の居場所に言及したものが見つかったのは初めてで、光秀討伐に出遅れた勝家が当時、京都から大阪に展開していた光秀の動きを把握できていなかったことがうかがえます。

調査にあたった三重大学の藤田達生教授は「本能寺の変のあとの勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ。今後は、そうした状況のなかでなぜ、豊臣秀吉が光秀討伐に素早く動けたのかという点に関心が高まるのではないか」と話しています。
2018.11.16 13:58
幕末徳川将軍家の銀印見つかる
2018.08.23
幕末徳川将軍家の銀印見つかる
国家元首の意思示す



江戸末期、徳川将軍家が外交文書に押印した銀印「経文緯武」が見つかったと、徳川記念財団(徳川恒孝理事長)が20日付で発表した。徳川14代目将軍家茂と15代目将軍慶喜が、日米修好通商条約の批准書などで対外的に「国家元首」として意思表示したことを示す貴重な資料だ。

 銀印は昨年、徳川宗家の蔵を調査する過程で見つかった。徳川家の家紋「三つ葉葵」のある黒塗りの箱に収められていた。縦、横ともに9.2センチ、高さは7.8センチで、重さは2.7キロ。幕府側から命じられた篆刻家の益田香遠らが制作した。「経文緯武」の言葉によって、文武両面の力を示そうとしたと考えられるという。

https://this.kiji.is/404006555961295969?c=39550187727945729
2018.08.23 12:37

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