奈良時代に全国をつないだ道路網、七道駅路と駅制は現在までも受け継がれる古代の高速道路であった。
駅制とは、馬を使った情報伝達制度である。
駅とは中継基地のことであり、公的に認められた使者「駅使」に食糧を提供し、また、乗換え用の馬を準備する。
駅制で使われる馬を「駅馬」、通行する道路を「駅路」と呼ぶ。
駅制は主に緊急連絡に使われる。主に天皇家(大王家)に関する連絡手段に用いられた。
『日本書紀』に最初に駅制が登場するのは、6世紀後半、第29代・欽明天皇崩御の際の記事である。当時皇太子の敏達天皇を呼ぶために駅馬を走らせたという。
また、蘇我馬子が首謀したとされる崇峻天皇暗殺の際には駅使が九州・筑紫に飛んでいる。
また、646年に孝徳天皇が発したとされる改新の詔には、駅馬・伝馬の制度設置が短い条文の中に明記されている。
国家運営において、きわめて重要度の高い制度だった証拠だ。
律令制の整備によって、朝廷のある畿内を除いて全国は7つの「道」に区分された。
「道」とは現在の都道府県にあたる行政単位のことである。
現在の関東にあたる東海道、中部にあたる東山道、北陸道、山陽道、山陰道、四国にあたる南海道、九州にあたる西海道をつまり七道というが、この七道と都は駅路で結ばれていた。
この駅路が最近の発掘調査により各地で発見されているが、驚くべきことにそのほとんどが、必要に応じて埋め立て工事、切り通し工事を行った幅6メートルから最大30メートルほどの直線道路だったのである。
七道駅路は地方行政区と都を、最速連絡を目的に結んでいたことになる。
古代のハイウェイと呼ばれることもあるが、これはあながち比喩ではなく、現代の高速道路とルートのあり方、インターチェンジと駅の位置がほとんど一致するという研究まである。
七道駅路がいつ、誰によって建設されたか、2つの説がある。
まず、7世紀後半の天智天皇の命によるという説で、軍事道路として建設されたという。白村江の戦いの敗北による国防整備が目的である。しかし、当時の軍隊構成から、地方から都へ軍が集結する必要もなく、また地方に派遣する軍勢が都には用意されていなかったことで疑問視されてもいる説である。
もうひとつは7世紀末、天武天皇の命で、律令国家体制の確立のために建設されたという説。発掘調査から年代に合致すること、駅路の直線が、律令制下の税計算に欠かせない土地区画の基準線となっていることなどから、現在、天武天皇説が有力となっている。
律令国家体制は、中央が派遣した官僚が地方を治める体制であり、駅路による情報の高速伝達は不可欠だった。
また、道路の整備は対外国に権威と国力を示すものでもあった。
天武天皇は目に見えないシステムと見えるシステム、両方の完成を目指したといえるだろう。