多氏(おおし、おおうじ、おほし)は「記紀」(古事記と日本書紀)の時代から存在した氏族。
19氏族のとなり、その後裔の多くが地方行政を担った。日本最古の皇別氏族とされ、始は神八井耳命(カンヤイミミ)。
奈良時代から続く楽家の一つで、「神楽歌」と「舞楽」を父子相伝した。
神八井耳命(生年不詳〜綏靖天皇4年4月)は、初代・神武天皇の皇子で、2代綏靖天皇(神渟名川耳尊:カンヌナカワミミ)の同母兄。学術的には実在した人物と考えられておらず、あくまで神話上の人物。ただし、モデルとなった豪族が存在した可能性は十分ある。
多氏は大和国十市郡飫富郷に本拠地とした氏族で、「太」「大」「飯富」「於保」「意富」とも書く。
始は初代・神武天皇の子・神八井耳命で、最古級の皇別氏族である。
『古事記』の編者である太安万侶は、多氏の人物である。
『日本書紀』綏靖天皇即位前紀によると、神武天皇の崩御後、庶兄の手研耳命(タギシミミ)は皇位につくため、2人の弟(神八井耳命と神渟名川耳尊、二人は同母で皇后の子)を亡き者にしようとしたという。
そこで兄弟は力を合わせ、庶兄・手研耳命を討とうとするが、神八井耳命は手足が震えて矢を射ることができなかった。
結局、弟の神渟名川耳尊が手研耳命を射殺したが、神八井耳命は己の失態を恥じ、弟に皇位を勧めた。
こうして神渟名川耳尊は即位し、2代・綏靖天皇となった。
12代・景行天皇の条には、多氏の祖のひとりとされる武諸木(たけもろき)が大王の筑紫巡幸(九州)に同行し、賊を討ち取ったことが記されている。
次に多氏が登場するのは天智天皇即位前紀で、百済王子の豊璋(ほうしょう)が多蒋敷(おおのこもしき)の妹を妻に迎えたとある。
壬申の乱では、多品治(おおのほむじ)が吉野方(天武側)の武将として活躍している。
久安5年(1149)の『多神宮注進状』によると、太安万侶(古事記の編者)の父は多品治とされる。
品治の官職は美濃国安八磨郡の湯沐令(皇族に与えられた事実上の領地の管理官)で、3000の兵を率いて伊賀の萩野に駐屯した。
攻め込んできた近江方の田辺小隅の軍を撃退し、大海人皇子(即位前の天武天皇)の勝利に貢献した。
和銅4年(711)、太安万侶は 稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう:読んでおぼえた)する『帝紀』『旧辞』を筆録し、史書を編纂することを命じられた。
この史書は『古事記』として翌年完成し、43代・元明天皇に献上された。『古事記』は上・中・下の3巻からなり、天地開闢から33代・推古天皇までの時代をまとめている。
また、養老4年 (720)に完成した『日本書紀』の編纂にも携わったといわれる。
安万侶は霊亀2年(716)には太氏(多氏)の氏上となっている。
平安時代には多自然麿(じねんまろ)が出てきて、 宮中に伝わる神楽の形式を定めた。
子孫も楽人の家として宮廷に仕え、多くの雅楽家を輩出した。
20世紀に入ると、クラシック音楽の多忠亮やジャズの多忠修など、ジャンルにとらわれずに幅広く活躍している。
『古事記』では、神八井耳命の後裔氏族としての氏族を挙げている。
(意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹羽臣・嶋田臣)
多氏は、中央政界をけん引するような有力な氏族ではない。
しかし、『古事記』に一大系譜が掲載されているのは、編者の太安万侶の出身氏族だったからなのだろう。
中央だけでなく、東国や九州で国造や県主になっている末裔が多い。
支流の都祁氏は大和国山辺郡都祁郷を本拠とし、『日本書紀』では闘鶏国造と称される。
『異本阿蘇氏系図』によると、神八井耳命の末裔である武比古命(たけひこのみこと)が、13代・成務天皇の代に国造に任命されたという。
『日本書紀』允恭天皇条には、闘鶏国造の1人である角古君(つのこのきみ)の“不祥事”が記載されている。
19代・允恭天皇の皇后である忍坂大中姫がまだ結婚する前、近くを通りかかった角古君が無礼な発言をした。姫は「私はお前を忘れない」と言い、後に皇后になると、角古君を探し出して死罪にしようとした。しかし、角古君が「私の罪は死に値します。しかし、その頃は貴いお方になられるとは思いもしませんでした」と弁解したため、皇后は死罪を赦して姓を「稲置」にした。
九州の同系氏族では、阿蘇神社神主家の阿蘇氏がよく知られる。
神八井耳命または後裔の健磐龍命(たけいわたつ)を祖とし、『日本書紀』では景行天皇の親征に阿蘇都彦という人物が出てくる。
東国の系統では、神八井耳命の4世孫である武五百建命が任じられた科野国造の家がある。
支配領域は後の信濃国全域で、末裔には29代・欽明天皇に仕えた金刺氏、30代・敏達天皇の皇居である他田宮の警護や雑用を行った他田氏がある。