尊氏が将軍に

足利尊氏が征夷大将軍に

室町幕府(北朝)と後醍醐の南朝

光明天皇の北朝と後醍醐天皇の南朝、朝廷が二つ存在する南北朝時代に入った。
建武式目制定で室町幕府の成立、足利尊氏征夷大将軍となるも南北朝の動乱は続く。
南北朝の争いは60年近くも続く事となり、北朝政権内部の騒乱である観応の擾乱も勃発。

光明天皇が即位、後に北朝となる

一旦、後醍醐と尊氏が和睦する

京へ入った尊氏は、建武3年(1336年)8月に光厳上皇の弟豊仁親王を天皇の位に就けたつけた(光明天皇)。
合戦が継続する最中、後醍醐と尊氏の和議が成立し、後醍醐は10月10日に比叡山を下りて京に戻った。
この前日の9日、新田義貞は後醍醐の命により、後醍醐の皇子で皇太子の恒良親王と尊良親王を奉じて越前国(福井県北部)へ向かった。
『太平記』によれば、尊氏と和睦することに納得がいかない義貞をなだめるため、後醍醐は恒良親王に天皇の位を譲ったうえで越前へ向かわせたという。

後醍醐が光明の即位を認める

11月2日、後醍醐は光明に天皇の象徴である三種の神器を渡して上皇となった。
光明の皇太子には、中先代の乱で鎌倉から戻っていた後醍醐の皇子成良親王がなった。
形としては、鎌倉時代後期の持明院統と大覚寺統による両統迭立の体制に戻ったことになる。

室町幕府の成立

尊氏が『建武式目』を制定

5日後の11月7日には、尊氏は『建武式目』を制定した。
『建武式目』は政権の基本方針を示したものであり、これをもって室町幕府の成立とされている。

南朝も成立

後醍醐天皇が独断で京を出る

12月21日、京にいた筈の後醍醐は、ひそかに脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)に入った。
南朝の成立である。
後醍醐は自らの退位を認めず、自分が天皇であると主張した。
後醍醐の南朝と光明の北朝、天皇が二人並び立つ南北朝時代が始まる。

遅れて尊氏が将軍に

そして建武式目の制定から2年近く過ぎた暦応元年/延元3年(1338年)8月、尊氏は北朝から征夷大将軍に任じられた。
征夷大将軍任官が遅れたのは、武家政権(幕府)を否定する後醍醐との和睦交渉のためであったとされる。

後醍醐から認められたかった尊氏

尊氏は、後醍醐も含めて誰もが認める形での征夷大将軍任官を望んでいたのであろう。
そのために、建武式目発布によって実質的に幕府(武家政権)を樹立した後も、征夷大将軍に任官せずに後醍醐との和睦を試み続けたのではないか。

新田義貞が討死

尊氏が征夷大将軍に任官したこの年には、5月に北畠顕家が和泉国堺浦(大阪府堺市)の戦いで、閏7月には新田義貞が越前国藤島(福井県福井市藤島町)戦いで討死にしている。

義貞を討ち取った事で将軍になれた

尊氏は征夷大将軍任官と同時に北畠顕家追討の賞として従二位に叙された。
同じ日に足利直義も従四位上左兵衛督になっているが、これは尊氏が新田義貞を追討した賞を譲られたものであった。
顕家・義貞を討ち取ったことが、尊氏の征夷大将軍任官の大きな理由であったことは間違いないであろう。

尊氏と直義の二頭体制

尊氏は征夷大将軍任官と同時に北畠顕家追討の賞として従二位に叙された。
同初期の室町幕府は、尊氏と直義の二頭体制をとったといわれる。
尊氏が主従制的支配権(恩賞宛行権、軍事指揮権)、直義が統治権的支配権(所領安堵権、所務沙汰権)を分掌した。
本来であれば将軍が一身に持つべきものを二人で分けて持っていた。

幕府の内乱・観応の擾乱

尊氏・直義の兄弟が反目

この尊氏と直義による二頭政治はしばらく続いたが、やがて観応の擾乱と呼ばれる内部抗争が起こる。
観応の擾乱は、貞和5年/正平4年(1349年)頃から表面化する将軍足利尊氏・尊氏の執事高師直派と、尊氏の弟足利直義派の対立による抗争であった。

事態が錯綜・混乱していく

南朝は後村上天皇に

高師直は直義を討つべく軍事行動を起こし、直義を引退させ尊氏の子息・義詮に跡を継がせた。
出家した直義は師直を追い落とす為、南朝との講和の道を選んだ。
後醍醐天皇は暦応2年/延元4年(1339年)に崩御していて、皇子・義良親王が跡を継いで即位し後村上天皇となっていた。

師直・師泰が滅ぶ

南朝との和睦の甲斐もあって、直義は尊氏・師直を敗北に追い込み、観応2年/正平6年(1351年)2月、師直・師泰兄弟を討ち滅ぼした。

直義(弟)と義詮(子)が不和に

直義は義詮の後見として政務に関わるが、義詮と不和になり京を逃れる。

尊氏が南朝と講和

今度は尊氏が南朝と講和する。

一時的に南朝が京・鎌倉を制圧

この状況を利用して、南朝方は京・鎌倉を同時制圧す軍事行動を起こした。
南朝方は正平7年閏2月に鎌倉を占領。
京も制圧し、北朝の崇光天皇と皇太子直仁親王を廃し、年号を正平に統一した。
これを正平の一統という。
しかし、すぐに南朝方は京から撤退せざるを得なくなる。
室町幕府の南朝年号使用もこれが最後であった。

南朝が皇太子を連れ去る

南朝が撤退するときに北朝の上皇や天皇・皇太子を連れ去ったため、北朝には天皇に立てるべき皇族がいなくなってしまった。
尊氏は光厳上皇の皇子の弥仁王を天皇の位につける(後光厳天皇)。

三代・義満によって南北朝合一

北朝が南朝を飲み込む形の合一

南北朝の合一は、尊氏の孫で室町幕府三代将軍の足利義満によってなされた。
明徳三年/元中九年(1392)閏十月、南朝の後亀山天皇後村上の子)の持参した神器が北朝の後小松天皇(後光厳の孫)に渡された。
しかし、正式な儀式もされず、南朝と北朝で交互に皇位を伝えるという条件も守られなかった。

合一に約60年もかかった

南北朝時代は、後醍醐天皇が吉野に奔った建武3年(1336年)から60年近くが経った1392年に終わりを告げたのである。


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