足利尊氏は後醍醐らの軍に敗北し一旦九州に逃れる。
しかし尊氏は九州へ落ち延びながらも、光厳上皇から新田義貞討伐の院宣を受けて官軍としての資格を得た。
楠木正成は尊氏との和睦を後醍醐に進言するも拒否される。
そして、九州で有力武家を味方に付けた尊氏が上洛作戦を仕掛けて来る。
新田義貞軍を追撃して京へ迫った足利尊氏軍は、1336年(建武三年)正月10日に入京する。
後醍醐天皇は比叡山(滋賀県大津市)へ避難し、後醍醐の居所である内裏も炎上。
尊氏自身は翌日に京へ入った。
13日には義良親王を奉じた北畠顕家軍が後醍醐方に合流し、尊氏軍との戦いは続いた。
淀大渡の戦い『絵本楠公記』に描かれた
『太平記』によると、この戦いで尊氏軍は80万騎で押し寄せたが、川底に打ち込まれた杭に邪魔され渡河することができなかったという『日本古典籍データセット』(国文研等所蔵)
正月27日からの合戦に尊氏軍は敗れ、京を出て丹波国篠村(京都府亀岡市)に逃れ、摂津国兵庫島(兵庫県神戸市兵庫区)に移る。
尊氏を敗退させた後醍醐は30日に京へ戻った。
後醍醐方は尊氏を追撃し、2月10日には尊氏軍と楠木正成が摂津国打出浜(兵庫県芦屋市)で合戦となり、翌日に尊氏軍は新田義貞軍と豊島河原(大阪府箕面市・池田市)で戦い、尊氏軍は敗れる。
尊氏は兵庫から船で九州を目指し落ち延ちびた。
尊氏はただ逃げただけではなかった。
まず「元弘以来没収地返付令」という、建武政権が発布した北条氏与党の所領没収令により没収された所領をもとの持ち主に返却するという法令を発布した。
これは武士たちの心を掴むための行動である。
また播磨国室津(兵庫県たつの市)で軍議を行い、山陽道四国の防備を固めるため足利一族や現地の有力武士出身の守護を配置した。
さらに、尊氏方は後醍醐に敵対して朝敵の汚名を受けないために、かつて鎌倉幕府が擁立していた持明院統の光厳上皇に使者を送り、九州へ向かう途上で光厳上皇の院宣の獲得に成功した。
尊氏は新田義貞討伐の院宣を得たとして武士たちに軍勢催促をしている。
尊氏もまた官軍であるという大義名分を得たのである。
この光厳の担ぎ出しは、天皇が二人並び立つ南北朝分立へと直結することとなる。
2月29日、後醍醐は年号を「建武」から「延元」に改元している。
この改元についても後醍酬と貴族たちとの間で意見の食い違いがみられ、建武政権内で意見が統一されていない様子が覗える。
同日、尊氏はに筑前国芦屋津(福岡県遠賀郡芦屋町)に上陸した。
尊氏方では「延元」を用いず「建武」の年号を使い続けた。
尊氏が京を追われた建武3年正月、後醍醐の側近の公卿、万里小路宣房と千種忠顕が出家している。
高齢の宣房はともかく、忠顕はまだ若く出家するような年齢ではなかった。
建武政権への批判が高まる中で責任を問われて詰め腹を切らされたとみられる。
建武政権内でも後醍醐に対する批判的な意見が出てきていたのだろう。
またこの頃、正成は尊氏を九州に没落させて浮かれる後醍醐や公卿たちに対し、新田義貞を誅して尊氏を呼び戻し、尊氏と和睦するよう進言。
さらに「使者には自分が立つ」と言ったという。
当然、後醍醐たちは取り合わなかったという。
正成はさらに続けた。
「北条氏を滅ぼしたのは、ひとえに尊氏の功績です。義貞が幕府を滅ぼしたことに間違いはありませんが、武士たちは尽く義貞ではなく尊氏に味方しています。主上には、御自身に徳がないのだということを自覚して頂きたい。しかも今回は御味方が勝利したのに、敗軍の将である尊氏に在京していた武士たちも付いて行ってしまっています。尊氏・直義は近いうちに再び攻め上って来るでしょうが、その時には防戦の術はありません。武略については正成の言葉に間違いはありませんから、この意見を聞いて頂きたい」と涙を流して言ったという。
当然のことながら後醍醐たちには受け入れられなかった。
正成は、元弘の乱での下赤坂城(大阪府南河内郡千早赤阪村)や千早城(同)の戦いで名高い武将で、倒幕に多大な功績を挙げている。
浮かれる後醍醐たちに対して、正成の意見はかなり辛辣であった。
この話は『梅松論』という、足利氏側が作ったといわれる史料に載っている話ではあるが、実態としてこれに近い状況はあったのではないだろうか。
事実、負けて落ち延びた尊氏に従う武士たちが多くいたのであり、彼らの心が後醍醐にはなかった事がわかる。
正成の予想通り、尊氏は大友氏・少弐氏といった九州の有力な武士たちを味方につけ、3月2日には筑前国多々良浜(福岡県福岡市東区)の戦いで後醍醐方の菊池武敏に勝利する。
尊氏は九州を支配下に納めた。
尊氏軍は4月3日に大宰府(福岡県太宰府市)を出発して、大友氏・少弐氏らを従えて上洛の途に就いた。