後小松天皇

後小松天皇

後小松天皇(ごこまつ:1377〜1433)は北朝の後円融天皇の第一皇子であり、称光天皇の父。
6歳で第6代北朝天皇に即位(北朝の歴代天皇は光厳・光明・崇光・後光厳・後円融)した。
その10年後、南朝の後亀山天皇から神器を受け取って第100代天皇となった。
その生涯は室町幕府3代将軍足利義満に翻弄され続けるものだった。

後小松天皇像(雲龍院蔵)

後小松天皇像(雲龍院蔵)

足利義満に翻弄された生涯

元中9年・明徳3年(1392年)、南北朝合一を主導した足利義満から後亀山に出された4つの条件(明徳の和約)のうち、「三種の神器の引き渡しは、後亀山から後小松へ譲位の儀をもって行う」という項は、南朝方にとって極めて重要だった。
神器を擁する南朝が正統である事を示す為だ。
しかし、記録では後亀山が携えてきた神器は、大覚寺から後小松の内裏(土御門殿)へ遷した事が伝わるのみで、譲位の儀式を示す両天皇会見は確認されていない。

義満の独裁を止められなかった

また、確約された北朝(持明院統(じみょういんとう)第88代後嵯峨天皇の子である第89代後深草天皇の子孫)と南朝(大覚寺統(だいかくじとう)第88代後嵯峨天皇の子である第90代亀山天皇の子孫)の両統迭立も、応永19年(1412年)に後小松が称光に譲位した事で反故にされた。
南朝を歴史から抹消した一連の経緯は、3代将軍足利義満の描いたシナリオに沿ったモノとみられる。
有力な守護大名を圧して将軍独裁を進めていた義満は、朝廷への影響力も強めて公武一体化による権力の集中を謀っていた。
既に弘和3年・永徳3年(1383年)には、皇族と同等の准后(じゅごう)の称号を得ている。

義満の傀儡に

南北朝合一の翌年、対立関係にあった後円融が死去すると、義満は野心をむき出しにする。
将軍職を子の義持に譲った後、武家として平清盛以来の太政大臣となり、事実上の上皇として振舞うようになった。
後小松はその下で傀儡として甘んじていた。

義満に国王を名乗られる

応永3年(1396年)、義満は明に朝貢して冊封を受け、「日本国王源道義(にほんこくおうげんどうぎ)」として名乗って返書を送っている。
国際的には、日本の国家元首は天皇である後小松ではなく義満と認められた事になる。

義満は天皇の乗っ取りを企てていた?

応永13年(1406年)、後小松は生母通陽門院(つうようもんいん)を失ったが、この際、義満の正妻・日野康子(ひのやすこ)を准母とした。
また応永15年には義満の政庁・宮廷である京の北山第(現在の金閣寺)に行幸している。
義満は次男義嗣(よしつぐ)を皇位継承候補としており、一連の行動から義満の皇位剥奪計画を読み取る見方が強い。
しかし、義満はこの年に急死している。
後を継いだ義持により義満路線は否定され、後小松の権威も回復される事となった。


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