東郷平八郎

東郷平八郎

東郷平八郎(1847〜1934)は幕末から昭和時代初めの薩摩藩士・海軍軍人であり、最終階級は元帥海軍大将。
初陣は薩英戦争、多くの戦いに参戦した。
日清戦争では「浪速」艦長として参加しており、領海内を航行中の清国兵を乗せた英国船を、国際公法に基づいて撃沈し、有名になる。
日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執り、ロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で撃破し、日本を勝利に導いた。
日露戦争での完勝により国内外で英雄視され、「陸の大山 海の東郷」「アドミラル・トーゴー」「東洋のネルソン」と呼ばれた。
世界三大提督(ジョン・ポール・ジョーンズ、ホレーショ・ネルソン、東郷平八郎)の1人。
現在では日本各地に東郷神社の名を残す。

東郷平八郎

東郷平八郎

東郷の経歴

弘化4年12月22日(1848年1月27日)、薩摩国鹿児島城下の加治屋町二本松馬場に、薩摩藩士・東郷実友と堀与三左衛門の三女・益子の四男として生まれる。
文久3年(1862年)、薩摩藩士として薩英戦争に従軍し初陣を飾る。
戊辰戦争では春日丸に乗り組み、新潟・箱館まで転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦う。

イギリス留学

明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学する。
イギリスに官費留学する際、最初は大久保利通に「留学させて下さい」と頼み込んだが良い返事はもらえなかった。
大久保は東郷を「お喋り」と感じており、それを知った東郷は以降、自省してその後は寡黙に努めたという。
それが長じて、後年は「沈黙の提督」との評価を得るまでになった。
東郷は留学の間に国際法を学んでおり、その知識により、国際法に違反しない判断力を培っている。
帰国途上、西郷隆盛が西南戦争を起こして自害したと現地で知った東郷は、「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷の死を悼んだという。

日清戦争

明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より防護巡洋艦「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(高陞号事件を含む)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍する。
高陞号撃沈事件において、停船の警告に応じないイギリスの商船「高陞号」を撃沈するが、留学で得た知識により、撃沈は国際法に違反しない行為であると正しく判断出来たのだろう。
威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成のため実際には連合艦隊第一遊撃隊司令官として澎湖島攻略戦に参加した。

日本海海戦でロシア艦隊に勝利

日露戦争を前に司令に任命される

日露戦争の開戦に際し、東郷平八郎が連合艦隊司令長官に任命されたとき、多くの人々が、その人事を意外に受け止めた。
東郷は海上勤務の経験こそ長く積んでいたが、これといった戦績はなかったのだ。
彼を抜擢した海軍大臣の山本権兵衛は、明治天皇に対し、「東郷は運の強い男ですから」と説明したといわれる。

ただし東郷の立てる戦略は綿密で、十分に考慮を重ねられており、決して運任せのモノではなかった。
その特徴が最も良い形現れたのが、日本海海戦だった。

綿密に計画された戦術を駆使

参謀の秋山真之によれば、自分が作成したプランは、古来ありふれた攻撃法だったという。
だが、このプランを取り入れた東郷は、作戦の要となるT字戦法を3度にわたってリハーサルし、内容を入念に練り上げた。
リハーサルと言っても実戦の中で行われたもので、旅順から出撃して来たロシア艦隊を迎撃する作戦で試された。
このとき東郷は、3度も敵艦隊を取り逃がしている。
しかし、これで作戦の不備を洗い出し、本戦のバルチック艦隊迎撃に向け、改良を重ねる事が出来たのだ。
この積み重ねが、日本海海戦での快勝に繋がった。

やはり強運な男だった

しかし、参謀の秋山が後に回顧手記で、『実戦には想定外の障害が付き物なのに、敵がいちいち思う壺にハマってくれた』と書いている。
好天に恵まれた事、敵艦隊が対馬海峡を通過した事など、多くの幸運が重なってもいたのも事実。
東郷は強運であった事も確かである。


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