武士の特権を次々と奪う新政府に、士族の不満は頂点に達した。
職も誇りも失った士族は最期の武力抗争に打って出る。
不平士族の反乱、武士による最後の内乱西南戦争が勃発した。
1873年、岩倉使節団(岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら)が欧米視察中、西郷隆盛・板垣退助らが預かる留守政府内では、征韓論が高まっていた。
明治政府を認めず、「鎖国」を続ける朝鮮を武力で開国させ、勢力を拡大しようというモノであった。
高まる士族の不満を緩和するため、武士に新たな仕事・役割を用意する目的もあった。
しかし、帰国した大久保らは内治優先を唱えて征韓論に反対、政府は征韓論派と内治派とに分裂した。
結果、閣議決定していた西郷の朝鮮派遣は覆され内治派が勝利すると、征韓派は一斉に下野した。
これを明治六年の政変という。
一方、新政府の政策によって、士族(旧武士階級)の特権は次々に失われていった。
なかでも、1876年の秩禄処分は、多くの士族を困窮に陥れた。
※秩禄処分は、秩禄奉還をすべての華族・士族に求め、金禄公債証書の交付を代償として秩禄支給を全廃した処置
廃藩置県後も華士族などに秩禄(家禄・賞典禄)が支給されたが、国家の歳出の約30%を占め、財政を圧迫していた。
そこで政府は、金禄公債証書(それぞれの禄高の数年分相当額に利子を付けた公債)を与えて、禄制を全廃する措置をとったのである。
さらにこの時代、士族が失われた武士の特権は、平民の名字の許可、徴兵令公布、廃刀令公布などもあった。
一人当たり平均は、華族が6万4000円程度だったのに対して、士族は5000円足らずに過ぎなかった。
下級武士の中には、生活苦から金禄公債を手放して没落していく者も現れた。
こうして士族の間では政府に対する不満が募り、明治六年の政変を機に、西日本で反乱が続出。
維新の立役者を自負する薩長土肥の下級士族の怒りが強かった事が分かる。
そして1877年、鹿児島士族が西郷隆盛を首領とする大規模な反乱「西南戦争」を起した。
征韓論に敗れて政府を辞した西郷隆盛は、鹿児島で私学校を経営して九州各地の士族の子弟を多数養成し、新政府に不満を持つ士族から絶大な声望をもっていた。
鹿児島県令大山綱良は西郷の支持者で、鹿児島は反政府主義の最大の拠点となる観を呈した。
しかし西郷は征韓と士族の特権保護を主張し、有事の際に自己の兵力を率いて国家に奉仕しようと考えていた。
西郷とともに下野した桐野利秋、村田新八ら私学校の幹部や、血気にはやる同校生徒らは、中央政府への反感をつのらせた。
政府側も鹿児島の反政府風潮を警戒し、鹿児島にあった政府の武器、弾薬を大阪に移そうとした。
ここに、私学校側の怒りは頂点に達し、西郷暗殺と私学校弾圧を政府が企てていると断定してついに挙兵した。
西郷もこれを制止しえず、みずからも決意して中央政府を問責する名目のもとに1万3000の軍を指揮して、熊本城に迫った。
高知県においても林有造ら立志社の一派がこれに呼応しようとして捕えられた。
政府は事態を重視し、有栖川宮を征討大総督とし、全国から徴募した平民主体の鎮台兵を集結して1877年4月ついに熊本城と連絡した。
以後、田原坂の激闘で西郷軍の将篠原国幹が戦死し、総退却した西郷は、同年9月城山において官軍総攻撃の最中に幹部らとともに自決した。
最大の反乱・西南戦争が政府に鎮圧されると、士族の武力による抵抗は急速に衰えていった。