大久保利通

大久保利通

大久保利通(1830〜1878)は薩摩藩出身の政治家。
明治維新の元勲であり、西郷隆盛木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。
また「維新の十傑」の1人でもある。
初代内務卿(実質上の首相)を務めるなど、内閣制度発足前の明治政界のリーダーであった。

維新政府で改革を推進

幕末期は、主に朝廷工作を担当し、王政復古の大号令(クーデター)に成功する。
明治政府では、官庁組織と官僚層を掌握する事で、薩摩藩閥とは別の権力基盤を持った。
維新を象徴する近代化政策を数多く推進したが、旧士族からの恨みを買い暗殺されてしまう。

大久保利通

大久保利通(維新後)

生い立ち

文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町に大久保利世と皆吉鳳徳のニ女・福の長男として生まれる。
幼名は正袈裟(しょうけさ)であった。
大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分で下級藩士であった。
幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住し、下加治屋町の郷中や藩校造士館で、西郷隆盛や税所篤、吉井友実、海江田信義らと共に学問を学び親友・同志となった。
武術は得意ではなかったが、討論や読書などの学問は郷中のなかで抜きん出ていたという。

新政府樹立の混乱を乗切り、実権を掌握

幕末

嘉永3年(1850年)のお由羅騒動では父・利世とともに連座して罷免され謹慎処分となる。
以後、大久保家は貧しい生活を強いられるが、島津斉彬が藩主となると謹慎を解かれ、嘉永6年(1853年)5月に記録所に復職し、御蔵役となる。
安政4年(1857年)10月1日、西郷とともに徒目付となる。
精忠組の領袖として活動し、安政5年の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・忠教(後の久光)に税所篤の助力で接近する。

朝廷との調整工作

幕末の大久保利通は、朝廷との調整工作で活躍した。
武力による新政府樹立を目指す大久保・西郷・小松は8月14日に長州藩の柏村数馬に武力政変計画を打ち明け、それを機に9月8日に京都において薩摩藩の大久保・西郷と長州藩の広沢真臣・品川弥二郎、広島藩の辻維岳が会し出兵協定である三藩盟約を結んだ。
10月14日、正親町三条実愛から倒幕の密勅の詔書を引き出した(ただしこの密勅には偽造説もある)大久保は、小松・西郷らと詔書の請書に署名し、倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功。
しかし、翌日に土佐藩の建白を受けていた将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たしたため、岩倉ら倒幕派公家とともに、王政復古のクーデターを計画して実行する。
王政復古の大号令を成功させ、錦旗の賜与と慶喜追討令を取り付け、新政府を官軍とし武力倒幕の大義名分をつくった。

新政府の調整役

新政府でも、大久保は調整役を担った。
木戸孝允と供に中央集権化を目指し、消極的な西郷隆盛と島津久光父子を動かし廃藩置県を成功させている。 なお、大久保は慶応4年(1868年)1月23日、太政官にて大阪への遷都を主張するが失敗する。

首班の三条実美は、大久保のこういった調整力を頼りにしていた。
岩倉使節団の渡米中に、各省の改革が急進化して三条のいる正院では統制できなくなると、ドイツ滞在中の大久保と木戸を急ぎ召還している。
ただし、この混乱は、大久保の帰国前に、開明派官僚の大隈重信が上手く収拾を付けている。

明治六年の政変

大久保が苦慮したのは、帰国後突如起こった征韓論争への対応だった。
閣議は西郷の朝鮮遣使を決定したが、大久保は民力養成を優先すべきとして、これに対抗。
天皇に極秘の上奏をして遣使延期の同意を得るという官中工作を行い、閣議決定を覆した(明治六年の政変)。
盟友であった西郷との決別を決意しての工作であったといわれる。

官僚機構を造り上げる

政変後の大久保は、政務の中心官庁として内務省を創設。
自分が内務卿となり、大隈と伊藤博文が補佐する体制を造り上げた。
この内務省機構が、現在の官僚機構に繋がっている。

殖産興業政策を推進

大久保は「富国強兵」をスローガンとして、民力を養う殖産興業政策を積極的に進めた。
学制や地租改正、徴兵令などを実施している。
仕事は部下に任せ、責任は自分が引き受けるというやり方だったが、彼が出勤すると、省内は静まり返ったという。

軍司令、交渉役としても力を発揮

明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発すると、ただちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させている。
また台湾出兵が行われると、戦後処理のために全権弁理大臣として清に渡った。
交渉の末に、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印する。
また出兵の経験から、明治8年(1875年)5月、太政大臣の三条実美に海運政策樹立に関する意見書を提出した。

西南戦争とその後

明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。
また自ら総裁となり、上野公園で8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会を開催している。
その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。

士族の不満を買い、暗殺

大久保の行った権力集中は政務遂行を目的とし、利権政治とは異なっていたが、政治の独裁化という点で周囲の批判を避けられなかった。
また、改革は士族の特権を奪う事に通じた為、不平士族の手で暗殺されてしまった。(紀尾井坂の変)
満47歳没、墓所は東京都港区の青山霊園にある。


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