来たるべき議会開設の為には、憲法の制定が不可欠であった。
初の内閣総理大臣となった伊藤博文は、秘密裏に憲法の作成に取り掛かった。
大日本帝国憲法と帝国議会が成立する。
1881年、植木枝盛作成の「東洋大日本国国憲按(とうようだいにほんこくこっけんあん)」を初め、様々な私擬憲法案が発表された。
なかでも植木案は、国民の抵抗権、革命権、不服従権を認めるなど、極めて急進的なものだった。
政府も1882年に伊藤博文をヨーロッパに派遣し、ドイツ流憲法理論を調査させた。
帰国した伊藤は、1885年に太政官制を廃止して、内閣制度を創設。
自ら首相に就任すると、外国人顧問ロエスレルらの協力の下、井上毅らと憲法草案の起草に着手した。
1889年、大日本帝国憲法(明治憲法)が発布された。
明治憲法は、国家的権限を全て天皇に集中させ(天皇大権)、天皇の下にそれぞれ役割を分担した多くの国家機関を併置した。
一方、この時代の政治運営は宮中・府中の別を原則とし、天皇は原則的に自らの政治的思想を日常の政治運営に持ち込まない存在とされた。
このため、明治憲法体制下では、日本の国家決定は全て天皇の名で成されるものの、その実質的決定権は各国家機関がそれぞれの役割に応じて掌握する事になった。
そこには、各国家機関の間で生じた対立を調整する制度上のメカニズムがなく、やがて、この分権的体質が顕著になっていく。
1890年7月、第一回総選挙が実施された。
とはいえ、選挙人は満25歳以上の男子で直接国税(地租や所得税)15円以上を納入する者に限られた為、国民全体の1%程度だった。
選挙の結果、総議席300のうち、自由党を再建した立憲自由党130、立憲改進党41と民党が過半数を占め、吏党(政府系政党)を圧倒した。
1890年11月から始まった第一議会で、民党は政費削減、地租軽減などを訴え政府予算案に反対。
政府は自由党の一部を切り崩して予算を成立させるなど、波乱含みのスタートとなった。
大日本帝国憲法では、「天皇」を頂点とし、統治権を総攬し、天皇大権を保持していた。
天皇の下に「参謀本部・海軍令部」が有り、これらは天皇が統帥権を持ち、政府や議会から独立した存在であった。
「枢密院」も政府・議会から独立しており、重要な国事(条約・勅令)などを審議する天皇の最高諮問機関だ。
ただし、先に述べたように、実質的には天皇が保有する権力は殆どなかった。
臣民とは、天皇・皇族以外の国民を指し、法律の範囲内で、言論・集会・結社・出版の自由が認められた。
臣民は全て天皇の臣下とみなされ、徴兵の対象であった。