北越戦争において、長岡藩は新政府軍に「中立」を申し入れるが、拒否された為、戦端が開かれた。
河井継之助率いる長岡藩兵は最新鋭のガトリング砲などで善戦するが、数に勝る新政府軍に圧倒され、長岡城は戦火により焦土と化した。
新政府軍約2万と旧幕府軍約5000人のであった。
長岡藩家老・河合継之助は若い頃に江戸へ遊学し、佐久間象山の下で学んだ事があった。
その経験から藩政改革を行い、藩政を立て直すとともに、軍政改革を行い武器の近代化を進めた。
旧幕府勢力の一掃を図るため、新政府軍が柏崎を目指して進軍すると、1868年5月2日、継之助は単身、長岡近くの小千谷の慈眼寺に赴き、新政府軍軍監・岩村清一郎と会談する。
旧幕府側にも新政府側にも付かない「中立」の立場を取りたい旨を伝えるが、岩村がこれを拒否した為、継之助は新政府軍と戦う決意を固める。
そして、奥羽越列藩同盟に加わると、ガトリング砲(機関銃)など、外国から買い付けた最新式の兵器を駆使し、自ら陣頭指揮を執って、新政府軍に戦いを挑んだ。
継之助が当時の日本には3門しかなかったガトリング砲を2門も購入していたのだ。
5月19日に長岡城は陥落するが、八丁沖の戦いの末に7月25日には新政府軍からこれを奪還している。
一度落城した城が奪還されるのは異例の事態であり、新政府軍は混乱状態に陥った。
しかし、この戦いで長岡藩側も大きな被害を受け、継之助も脚に弾丸を受け負傷している。
一度は長岡城奪還した長岡藩側であったが、多くの軍艦をも駆使する新政府軍から再び城を護り通す事は出来なかった。
そして、新政府軍に補給拠点である新潟港を占領され、29日の総攻撃で再び長岡城が奪われると、長岡藩の敗北は決定的となった。
長岡城下は火に包まれ、城下街の大半が焼失した。
これにより北越戦争は終了し、以後、戦局は会津へと移る事になる。
この戦いで膝を膝を負傷した継之助は、会津へと逃走する途中、8月16日、会津領只見で破傷風を併発し、その生涯の幕を閉じた。