武蔵国造の乱

武蔵国造の乱

武蔵国造の乱は古墳時代後期(安閑天皇元年:534年頃)に武蔵国(現在の関東地方)で起こった豪族同志の争いで、これに大和朝廷が介入・鎮圧した。
これはこの時期には既に大和朝廷による全国統治が進んでいた事を示している。
※ただし、この乱は『日本書紀』に記される歴史であり、史実であるとの確認は取れていない
また、乱といえるような大規模な戦は起こっていない。

関東地方(武蔵国)で起きた内紛

大和朝廷の支配力が増大

27代・安閑天皇から28代・宣化天皇の治世の時代に掛けて、大和朝廷の地方豪族に対する指導力が急速に強化されていった。
武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)は、埼玉県行田市稲荷山古墳を残した乎獲居臣(おわけのおみ)の流れを引く伝統ある地方豪族であった。

笠原氏による国造の地位を巡る争い

『日本書紀』によれば、笠原使主(かさはらのおみ)とその親戚の笠原小杵(かさはらのおき)とが、長年にわたって国造の地位を争っていたという。
安閑天皇の治世の534年閏12月、小杵は上毛野小熊(かみつけののおくま)と結んで使主を殺害する計画を立てる。
上毛野(かみつけの)氏は上野(現在の群馬県)を本拠とする有力な地方豪族であった。
これを知った使主は大和を訪れ朝廷に助けを求める。

関東の有力豪族、上毛野氏

上毛野氏は古代の関東地方で最も有力な豪族であったという。
彼らは同族の下毛野(しもつけの)氏とともに毛野(つけの:現在の群馬県全域と栃木県南部)を地域を支配していた。

上毛野氏の力を示す巨大な古墳

上毛野氏は四世紀に大和朝廷と交流を持ちつつ、勢力拡大を進めている。
四世紀の八幡山古墳(群馬県前橋市)と天神山古墳(群馬県前橋市)は、上毛野氏の首長を葬ったモノだと考えられている。
八幡山古墳は全長130m、天神山古墳は全長126mの前方後円墳だ。

朝廷の介入で小杵が暗殺される

この武蔵国造の乱で、上毛野氏はそれに介入したが大和朝廷まで敵に回すつもりはなかっただろう。
『日本書紀』にはこの時、安閑天皇が使主を国造に任命すると共に小杵を殺害したと記している。

武蔵国造の“乱”なのに“戦”はしてない

このとき朝廷は、大和から武蔵へ大軍を派遣して戦で小杵を討ったわけではなかったようだ。
『日本書紀』には“誅した(殺した)”とあり「〇〇が小杵を討った」といった報告が特になされていないからだ。
朝廷と使主とで協力して小杵を暗殺したのだろう。

使主が朝廷に土地を献上

そして使主は、例として朝廷に武蔵の国の四か所(横渟・橘花・多氷・倉樔)を屯倉として献上したという。

武蔵国造の乱の後

宣告に広がる朝廷の直轄領・屯倉

屯倉はのちに役所に発展

武蔵国造の乱の翌年(535年:安閑2年)のこと、安閑天皇は東は上野、西は肥後に至る範囲に置くの屯倉を設置した。
それら屯倉の中には後に、国や郡の役所に発展していくものがあった。

乱後、大和の地方統治を強化されていく

朝廷の直轄領である屯倉は米など必要なモノを大和に納める農園としての性格があった。
しかし六世紀から屯倉は役所としての機能も強めていった。
朝廷が宮家に役人を送って周囲の地方豪族を監督させたのだ。

地方内紛を治める事で、大和が勢力圏を広げていった

このとき、上毛野氏の本拠の近くに「緑野屯倉」という屯倉が設置されている。
朝廷は上毛野小熊が笠原氏の内紛に介入した事を利用して、上毛野氏の勢力圏に屯倉という楔を打ち込めたわけだ。

史実ではなかったとしても

武蔵国造の乱が歴史的な史実でなかった可能性は否定できないのだが、
しかし、日本全体が大和朝廷によって統治されていくのは間違いのない歴史的事実であり、のちの歴史と見返しても特に矛盾はない。

大和と地方との力関係を示した歴史

細かな点で事実と違う事が歴史に遺されているのかも知れないが、少なくとも「飛鳥時代に入る頃には大和朝廷の影響力が日本全土に及んでいた」「武蔵国を含めた各地が大和朝廷に逆らえなくなっていた」という事。
確実に“武蔵国造の乱のような出来事が起こっていた”といえる。


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