磐井氏

九州の豪族・磐井氏

「磐井氏」とは筑紫君の氏

磐井氏は筑後平野を本拠とした筑紫君の氏で、筑紫姓を称した。
磐井は大陸・朝鮮半島との強いパイプを持ち、弥生時代後期から古墳時代に掛けて九州に出現したとみられる。
やがて磐井氏(筑紫君氏)はヤマト政権に臣従し組み込まれ、筑紫国造に就任する。

九州で大乱を起こしたとされる

弥生時代の九州北部は大陸や朝鮮半島と交流し大いに栄えた。
しかし、古墳時代に入るとヤマト王権が九州にも進出し、かつての繁栄は徐々に陰っていく。
こうした中で、6世紀前半に起きたのが「磐井の乱」であった。

「磐井」の表記は史書によって違う

ヤマト王権・継体天皇と戦った磐井は『古事記』では「竺紫君石井」と書かれ、『筑後国風土記』では「筑紫君磐井」とされている。
『日本書紀』では磐井の官職を筑紫国造としているが、筑紫君氏の国造就任は磐井の乱の後だったとみられる。

九州北部と新羅は密接な関係だった

2020(令和2年)、福岡県古賀市の船原遺跡から、6世紀末から7世紀初頭の玉虫の羽をデザインした装飾品がつけられた金鋼製の馬具が出土した。
同様の馬具は朝鮮半島南部の新羅の王墓クラスで出土した程度で、国内では初の発見だった。
このことから、九州北部と新羅が密接な関係性があったことが裏付けられた。
やはり磐井氏も新羅や朝鮮半島の国家群と密接な関係にあったとみられる。

古事記と日本書紀で歴史が食い違う

『日本書紀』 における磐井

『日本書紀』 継体天皇2年6月、近江毛野が6万の兵を率いて任那に向かい、新羅に破られた南加羅・喙己呑の復興をはかることになった。
これに対し、新羅は磐井に賄賂を贈り、毛野軍の妨害を要請した。
磐井は挙兵して火の国(肥前・肥後)と豊の国(豊前・豊後)を制し、海路を封鎖して毛野軍の進軍を阻んだ。
継体天皇は物部麁鹿火を九州に派遣し、筑紫三井郡で交戦する。
激しい戦闘の末に磐井軍は敗れ、最期は物部麁鹿火に斬られた。

『古事記』における石井(磐井)

上記のエピソードは『日本書紀』での話であり、『古事記』では「石井(磐井)が天皇の命に従わなかった為、物部荒甲大連(物部麁鹿火)と大伴金村連の2人を遣わせて石井を殺害した」とされている。
『日本書紀』にあるような、磐井氏がヤマト王権に対して軍事行動をとった、という話は信憑性は高くない。

磐井氏のその後

滅んだわけではない

磐井が反乱を起こしたからといって、筑紫君の一族が滅びたわけではない
磐井の子である筑紫君葛子は命乞いのため、糟屋屯倉を朝廷に献上して服属している。
この屯倉は朝鮮との交通における重要な場所だったとされ、ヤマト王権の対朝鮮交渉がさらに容易になったとみられる。
※ただしこれも日本書紀の記述である為、信憑性は低い

磐井の実子・筑紫葛子

史書では磐井の実子の葛子の後も7世紀末まで筑紫君一族の名が見られ、その存続が確認される。
ただし、磐井の名前や氏はその後の歴史には出て来ない。
なお、室町時代から登場する「筑紫氏」は全く別の氏族である。

磐井の墓

『筑後国風土記』逸文には、磐井の墓に関する詳しい記述がある。
現在は福岡県八女市の八女古墳群にある岩戸山古墳が、磐井の墓に比定されている。
文献から被葬者と築造時期が推定できる稀少な古墳である。
全長約135メートルと巨大で、磐井が生前から築かせたとみられる。
しかし、戦いに敗れたので、墓に入ることはなかったと考えられる。


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