源頼朝の肖像は誰なのか

頼朝の肖像に描かれているのは誰なのか?

誰なのかが記されていなかった

正確には“源頼朝と伝えられる肖像画”である

源頼朝の肖像として有名な「絹本着色伝源頼朝像」は別人だった可能性がある。
従来説としては、肖像は「源頼朝像」あるいは「【源頼朝像】藤原隆信筆と伝えられる」とされていた。
新説としては、肖像は「伝源頼朝像」あるいは「源頼朝と伝えられる肖像画」とする。
なお、頼朝像は「足利直義ではないか」とする説が有力である。

絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)

「源頼朝」と伝えられる肖像画『絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)』
1345年(貞和元年)に記された史料に、神護寺に自身と兄である足利尊氏の肖像画を奉納したとの記載がある事から、足利直義の肖像である可能性が新たに指摘されている

「源頼朝像」3つの疑問

  • 像主(モデル)の名前が記載されていない
  • 足利直義が神護寺に兄・尊氏と自分の肖像画を奉納した旨の記述が『足利直義願文』に
  • 14世紀の制作と考えられてきた大英博物館所蔵の源頼朝像が17世紀末に描かれたことが明らかに

新たに浮かび上がった「足利直義像」の可能性

公家の正装、かなり位の高い人物なのは確実

源頼朝を描いた肖像画としては「黒色の袍を着た束帯(公家の正装)姿のものが有名である。
しかし、今ではこの肖像画は【源頼朝と伝えられる肖像画】という風に記載されるようになった。

肖像は神護寺に遺されていたモノ

頼朝以外の候補は非常に少ない

この肖像画は、神護寺に伝わる3つの肖像画のうちのひとつだった。
それらは寺伝により、源頼朝像、平重盛像、藤原光能像とされてきた(1951年(昭和25)国宝指定)。これ三つの肖像を『神護寺三像』という。
そして、神護寺の由来を記した『神護寺略記』(14世紀に書写か)によると、神護寺の仙洞院に、後白河法皇と平重盛、源頼朝、藤原光能、平業房の肖像画があると記されている(肖像画は藤原隆信によって描かれたとも記載されている)。

寺に伝わる話と『神護寺略記』の内容が一致していた

略記の記述と寺伝が合致していた事もあり、いわゆる「源頼朝像」は頼朝に違いないとされてきた。
さらに、似絵の名手・藤原隆信の筆によるものとされ、美術史の観点からも評価を得てきた。
そして、教科書にも掲載され、誰もが頼朝として信じてきたのである。

「頼朝の肖像だ」とする根拠がなかった

肖像画すべてが無記名

これらの肖像画には、誰を描いたものかという記述はなかった。
更には略記に挙げられた5人の中で、なぜ3つの肖像画を先述の3名としたのかについて、はっきりした理由がなかったのである。

頼朝ではなく足利直義か?

室町時代初期に描かれたものか

そのような中、1995年(平成7)に、これらの像を巡り新たな説が提示された。
「源頼朝像」の耳や目、眉、唇の表現は、14世紀に出来た夢窓疎石像によく似ていること、足利直義の願文(1345年:貞和元年)に、自分と兄・尊氏の肖像画を神護寺に奉納したとの記載がある事から、3つの肖像画のうち2つが「足利尊氏像」「足利直義像」ではないかとされたのだ。

『神護寺三像』は尊氏の一族を描いたものか?

画像がセットになっている場合は向かって右側に上位の者を、左に下位者を配することから「源頼朝像」は「足利直義像」ではないかと考えられたのである。
そして他の2像は「足利尊氏像」「足利義詮像」(尊氏の子)とされた。

伝・源頼朝像、で落ち着いた

反論もあったが、その後、新説は広く受容され、今では「源頼朝像」は「伝源頼朝像」と記載されるようになったのである。


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