源頼朝が荘園領主に

源頼朝が荘園領主に

東国の支配権を得た源頼朝

頼朝が平家討伐に挙兵

1180年(治承4年)、清和源氏の嫡流である源頼朝が伊豆で挙兵し、東国の武士を味方につけて一大勢力を築いた。
このとき頼朝は、自分の下で戦った御家人たちの軍功に報いる恩賞として所領を与えた
その後の武家社会ではこれが慣例化しており当たり前の事であったが、当時としては画期的な事だった。
平清盛が率いた平氏政権は配下の武家に特に恩賞を与えておらず、結果として多くの武家から反発を買っている。

源平争乱で日本中が大混乱に

混乱に乗じて勝手に東国を支配した頼朝

頼朝は所領を与えるために所職(在地領主が所持する荘園の下司職、公領の郡司職・郷司職など)を与えたが、公領の郡司・郷司の任免権は国司や知行国主、荘園の下司の任免権は領家や本家にあった。
勝手にそれを替えるのは許されない行為だったが、頼朝は東国の在地領主の団結を高めるため、任免権を無効化したのである。

朝廷は平家討伐を最優先した

敵対した武士の所職を勝手に奪い、味方した武士にすげ替えた頼朝の行為は脱法行為であった。
しかし、頼朝の挙兵を機に全国で反・平氏の挙兵が続いたことで、朝廷にはそれに対処する余裕がなかった。
1181年(養和元年)には平氏政権の棟梁である平清盛が没し、幽閉から解放された後白河上皇の院勢力が盛り返した。

大飢饉が発生「養和の飢饉」

この頃、畿内や西国は低温と旱魃に見舞われ、清盛の没年から翌年にかけて養和の飢饉が発生した。
鴨長明の『方丈記』によると、京は餓死者の死臭に満ち、諸国の民は土地や家を捨て、金よりも栗が重んじられたという。

源義仲が平家を京から追放

平家の領地を義仲に給与

こうした中で、信濃国木曽で挙兵した源義仲が1183年(寿永2年)に京へ侵攻し、平氏の一族郎党は都落ちを余儀なくされる。
平氏は朝敵となり、一門の所領であった500カ所は朝廷に没収された。
これを平家没官領といい、新たな京の支配者となった義仲には140カ所余が与えられた

義仲は京都で嫌われ者に

しかし、義仲軍は飢饉で苦しむ京の市中で兵糧を徴発しようとしたため、京の人々からの支持を失ってしまう。
後白河上皇とも対立し、法住寺合戦に及んで上皇を幽閉した。

朝廷に取入る頼朝

朝廷が頼朝に東国支配を任せる

一方、頼朝は朝廷と接触し「自分が挙兵したのは上皇様の敵を討つためであって、異心は一切ありません」と申し述べた。
これを受け朝廷は「寿永二年十月宣旨」を発し、頼朝の東海・東山両道の諸国の支配権を認めた
その代わりに荘園公領の年貢の保障を命じ、服しない者がいれば、頼朝が処罰することになった。

朝廷は遠方の東国に関心がなかった

頼朝は挙兵の際、勝手に所職をすげ替える脱法行為に及んだが、朝廷はそれを不問に付すだけでなく、東国の支配を頼朝に任せた。
朝廷としては、東国からキチンと年貢が納められるのであれば、東国の支配体制はどうでもよかったのだ。

国地頭を設置して支配体制を固める

義仲と平家が滅ぶ

1184年(元暦元年)1月、頼朝が派遣した源範頼・義経の軍勢が義仲を討つ。
その勢いで、一の谷に陣を構えた平氏軍も撃破した。

頼朝が巨大な荘園領主となる

後白河上皇は恩賞として、平家没官領500カ所を頼朝に給与する。
これにより頼朝は巨大な荘園領主となり、この所領は鎌倉幕府の直轄地である関東御領になった。
また、頼朝には三河・駿河・武蔵の3カ国が知行国として与えられ、翌年には相模、伊豆、上総、下総、信濃、越後、豊後が加えられた。
これらの知行国は関東御分国と呼ばれた。
頼朝の直接的な勢力範囲は、関東御領や関東御分国に限られていた。

義経が都を追放される

1185年(文治元年)3月、義経が壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼしたが、安徳天皇の入水と三種の神器の喪失という失態も招いた。
それに気付けなかった義経は戦後の処遇に不満を抱き、後白河上皇に頼朝追討の宣旨を出すよう求めた。
義経は頼朝を討つための兵を集めたが味方する者はなく、都落ちして行方をくらませた。

上皇から「守護・地頭設置の勅許」

頼朝は舅の北条時政を京に派遣し、義経追討のための諸要求を認めさせた。
ここで出された上皇の勅許は、後に「守護・地頭設置の勅許」と呼ばれる。
だが実際は、このときに設置されたのは国単位の地頭だったと考えられる。
すでに半年前から補任が始まっていた荘郷地頭(東国と平家没官領や謀反人跡地に限定した地頭)と区別して、国地頭ともいわれる。
その権限は諸説あるが、惣追捕使として国中の武士を動員したり、1反あたり5升の兵髟トを徴収したり、田地を管理する権限があったとみられる。


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