霜月騒動と平禅門の乱

北条貞時、霜月騒動と平禅門の乱とは

北条時宗の没後、主導権をめぐる争乱が

執権・北条貞時の時代

霜月騒動と平禅門の乱は北条時宗の死後に起こった北条貞時政権での主導権を巡る争いであった。 13歳で執権に就任した北条貞時を支えたのが安達泰盛と平頼綱であったが、この二人ともやがて滅ぶこととなる。 安達泰盛は、御家人制の拡大を目指して強い抵抗にあい安達一族はほとんど族滅。 平頼綱は、その専制的な政治手法を貞時によって不安視され誅殺された。 霜月騒動と平禅門の乱を簡単にまとめる。

13歳の北条貞時が執権に

元寇で日本全国が疲弊していた

13世紀末、鎌倉幕府は二度にわたる元寇(モンゴル襲来)を乗り切ったものの、再度の襲来に備えた警戒態勢が続く一方で、戦後の恩賞問題など、さまざまな課題が残されていた。

貞時政権の主導権をめぐる内紛

側近、安達泰盛と平頼綱

そのようななか、1284(弘安7年)に幕政を主導し対外的危機に立ち向かった8代執権・北条時宗は息を引き取り、当時13歳だった嫡男・北条貞時が後を継いだ。
若年の貞時を支えたのは、外戚(母方の一族)の安達泰盛、そして乳母夫の平頼綱(内管領)であった。
霜月騒動・平禅門の乱は、貞時政権の主導権をめぐって引き起こされた内紛であった。

御家人制の拡大を目指した安達泰盛

まず泰盛は、時宗の死後に「弘安徳政」と呼ばれる幕府政治の抜本的改革を主導した。
この改革は、御家人制の拡大を目指すものであり、霜月騒動の伏線ともなった。
以前は、霜月騒動は、御家人の利害を代表する泰盛と御内人など北条氏被官の利害を代表する頼綱との主導権争いであったと考えられてきた。
しかし、近年では研究によって再評価が進んで降り、泰盛の政策が霜月騒動、そして平禅門の乱にまで関係していたことが分かってきている。

御家人を増やす事で、幕府強化を目指したが

元寇後の御家人の勢力を回復させたい

弘安徳政の目玉となった政策は、モンゴル襲来で功績があった九州の神社と武士に対し、本来保有する権利が実現できない所領を回復させることであった。

元寇に参加して戦った「非御家人」

とくに、九州の武士に対する所領回復令(名主職安堵令)は、御家人だけではなく、戦争に動員された本来、幕府の管轄下にない非御家人(「本所一円地住人」と呼ばれた)をも対象としており、彼らの所領を将軍の下文で回復させようとした。

非御家人を武士する事で、御家人制拡大を目指した

そして、非御家人は将軍の下文をもらった時点で御家人となる。
つまり、泰盛はすべての武士を御家人として組織することで御家人制を拡大し、それを基盤とする幕府権力を強化しようしたと考えられている。

霜月騒動、安達が族滅

幕府内で強い抵抗が起こる

ところが、この「弘安徳政」はすぐに修正法令が出されている。
また、実施が遅れていることから、幕府内での強い抵抗にあったと見られる。

特権を奪われる事を危惧した御家人

抵抗の中心となったのは、存在感の低下をおそれた北条氏被官だけでなく、身分的特権を失う可能性が出てきた旧来からの御家人たちであった。

安達が御家人に滅ぼされる

1285年(弘安8年)に起こった「霜月騒動」は、彼らが反泰盛勢力として結集して安達一族を襲撃した事件であり、単なる御家人対御内人という対立構図ではなかったのである。
この結果、安達一族はほとんど族滅し、騒動は列島各地に及んだ。

安達が滅び、平頼綱が貞時政権を主導

かわらず、元寇後の戦後処理が政治課題

泰盛滅亡後の貞時政権は、御内人の頼綱によって主導された。
頼綱の幕府政治は、泰盛が主導した弘安徳政の修正におもな特色がある。
とくに、九州の神社や武士に対する所領回復令は撤廃された一方で、鎮西談議所を設置して軍事指揮(恩賞配分)と所務沙汰(所領や年貢に関する訴訟)を取り扱わせ、蒙古襲来後の政治課題に対応した。

専制的だった頼綱の政治手法

平頼綱は、政権基盤がぜい弱だった

しかし、頼綱は泰盛のような先進的な政治構想を持ち合わせていたわけではなく、また、自身の家格の低さもあってが、幕府内での権力基盤が脆弱であった。

天皇(朝廷)権威にあやかり、存在感を出そうとした頼綱

そこで頼綱が持ち出したのが朝廷の権威である。
当時、公家政権を主導していた持明院統に接近し、将軍・源惟康を親王にし、執権・貞時を公卿(三位以上の位階を持つ)へ、子息の資宗を諸大夫(四位・五位の位階を持つ)へとそれぞ身分を引き上げさせ、荘厳さを演出した(貞時は拒否)。
また、幕府内でも御内人に引付の監察権を与え、資宗の評定衆・引付衆への就任を狙うなど、権力強化に努めたのである。

貞時によって平頼綱が誅殺

平頼綱・資宗の父子が誅殺される

このような頼綱の幕府政治は「諸人恐懼」と評されるほど専制的であった。
1293(正応6年)、それに不安を抱いた貞時によって頼綱は資宗とともに誅殺され(「平禅門の乱」)、政治の主導権は貞時のもとに帰すことになったのである。


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