梶原景時は、源頼朝&頼家に側近として仕えた鎌倉幕府の重鎮・御家人。
義経の監視、上総広常の暗殺など、常に頼朝からの諜報役を担当。
頼朝の死後も最側近として頼家に仕えたが、北条時政ら他の東国御家人らと対立し、鎌倉を追放され失脚した。
失脚後は、景時ごと梶原一族は尽く討ち取られた。
坂東八平氏のひとつ、梶原氏の武将で、石橋山の戦いでは平氏側の大庭景親に与していたが、頼朝の窮地を救い、以降、源氏側に付いた。
平家追討の際には、源義経に同行し、義経の独断専行や越権行為を頼朝に報告したと伝わる。
のちに頼朝にとって危険な存在となった上総広常を暗殺するなど、頼朝からも信頼の厚い武士だった。
鎌倉幕府内では侍所の別当を務めている。
頼家からの信頼も厚く、天台宗の僧・慈円が記した『愚管抄』には「鎌倉の本体の武士(頼朝第一の家来)」とされ、頼家の「第一の郎党」と記されている。
いわば二代将軍・頼家の側近ナンバー1と目されまた人物であった。
しかし、頼朝・頼家と二代にわたる源氏将軍に重用され過ぎたことが、他の御家人の反感を買ってしまう。
結城朝光の事件をきっかけに比企能員、三浦義澄、和田義盛や足立遠元といった同じ13人の合議制のメンバーたち、そして「鎌倉武士の鑑」と評された畠山重忠ら総勢66人の御家人たちが、景時に対する弾劾状に署名したのである。
その結果、景時は鎌倉を追放され、失脚。
一族ともども滅ぼされるほどに御家人たちからは嫌われていた。
13人の合議制を導入し、二代将軍・頼家の権力抑止に成功した北条時政が次に狙ったのは、頼家の「一の郎等」と呼ばれた、実質、将軍の側近ナンバー1の梶原景時を追い落とすことだった。
景時は侍所の所司、のちに別当となった人物である一方で、弁舌に優れ、和歌を嗜む教養人でもあった。
文官を兼ねることもできる文武両道の武士だ。
当時の武士はほとんど読み書きができなかったとされる。
多少の心得がある者でも、自筆で書かざるを得ない遺言状ですら、ひらがなで書かれており、漢字は不得手だった。
そのなかで、読み書きができ和歌も詠める武士は稀少だったのである。
逆に景時は、平家追討の折には源義経の越権行為を咎め、頼朝に報告するなどして、義経失脚の切っ掛けを作った人物として、『平家物語』『義経記』では描かれている。
読み書きの心得があったから頼朝に細かな報告か可能だった。
上総広常を暗殺するなど、頼朝の忠実な部下であった。
頼朝、頼家と二代にわたり、将軍からの信任が厚かった景時。
しかし、信頼され過ぎたことが逆に仇となり、他の御家人からは反感を買っていたようである。
これが景時失脚の最大の要因だった。
景時の失脚は、頼朝の乳母の1人、寒河尼の子である下野の有力御家人・結城朝光のある発言がきっかけとなった。
結城朝光は、頼朝の寵愛を受けた御家人である。
隠し子ではないかと噂されるほどの頼朝のお気に入りだったという。
そんな関係だったからか、頼朝の死後、朝光は「忠臣は二君に仕えず、とはいうが、遺言があり、出家することは叶わなかった。でも、亡くなったときに頭を剃って仏門に入っていればよかった」と嘆いたという。
朝光にとっては、特に他意のない発言だっただろう。
ところが、この発言が御家人の間に大きな波紋を引き起こす。
頼朝の異母弟である阿野全成の妻で、幕府の女官を務めた阿波局が、朝光に「梶原景時殿が、あなたの発言は謀反の表れだと頼家様に訴えて、あなたを討つことになったそうです」と伝えた。
これを聞いて驚いた朝光は、三浦義澄の子・三浦義村の元に駆け込み、助けを乞うた。
義村は「景時の讒言によって命を落としたり、職を失ったりした者は数え切れない。(中略)世の為、君(頼家)の為にも退治しなければならない」「吾妻鏡』より)と述べ、御家人たちを集めて、弾劾状を用意することにした。
義村の呼びかけに次から次へと賛同者が増えていき、総勢66人の御家人による弾劾状ができあがると、義村と和田義盛が大江広元の取次を通じて、頼家に提出。
この弾劾状には、比企能員や三浦義澄、安達盛長といった同じ13人の合議制のメンバーや、千葉常嵐畠山重忠などの有力御家人が名を連ねた。
正治元(1199)年11月、頼家は景時に弁明の機会を与えたが、景時は抗弁せずに自身の領地・相模一宮に戻り、謹慎した。
結局、頼家は自らの1番の側近を庇い切れず、弾劾状を受け入れ、景時を鎌倉から追放してしまう。
こうして景時は一族を引き連れ、西国を目指した。
当時、京を中心とする西国には、朝廷に直接使える「西国の武士」たちがいた。
教養人で知られる景時は、土御門通親や徳大寺家など、貴族たちとも通じていた景時が、京で再起を図ろうと考えた可能性は高い。
ところが、正治2(1200)年、駿河国清見関に差しかかった時に、御家人・吉川友兼たちと出くわし、戦闘に発展。
景時とその一族は、1人残らずその場で討ち果たされたという。
吉川友兼らは景時らとたまたま出くわしたとされるが、おそらく待ち伏せしていたのであろう。
その後、源平合戦のなかで滅ぼされた越後の城氏や奥州藤原氏の生き残りなどが、梶原一族の滅亡の報を聞き蜂起。
全国で数カ月にわたり、梶原派の残党狩りが行われた。
城氏や奥州藤原氏の生き残たちはいずれも、景時がとりなして命を救われた者たちだった。
如何に景時が全国の武士と鎌倉幕府を繋ぐ実力者だったかが偲ばれる。
この景時の失脚と殺害を、裏で手を引いていた人物はいたのか、いたのなら誰だろうか。
最も怪しまれるべきは北条時政である。
景時失脚の要因となった、結城朝光に景時が讒言をしていると伝えた阿波局は、実は時政の娘で、北条政子の妹にあたる。
彼女は三代将軍・源実朝の乳母でもある。
また、吉川友兼が待ち伏せしていた駿河国の守護は、時政であった。
吉川らはたまたま景時と出くわしたのではなく、おそらく時政の命を受けて景時を討ったのだろうと思われる。
吉川友兼自身は、この襲撃の際の矢傷が元で亡くなっているが、その息子が、景時追討の褒美に播磨国の旧梶原領の地頭に就任した。
また結城朝光の兄・小山朝政は播磨国の守護となっている。
景時死後の論功行賞で、北条氏の息がかかった人物たちが、景時の所領をごっそりと頂戴した結果になった。
これに対して黙っていなかったのは、源頼家である。
自分一番の側近を殺されて心中穏やかではない頼家は、景時失脚の要因を作った北条時政の娘・阿波局の夫・阿野全成に謀反の疑いをかけ、殺害してしまったのである。
建仁3(1203)年5月のことだった。
この阿野全成は、常盤御前の3人の子の1人で義経の兄で、頼朝の弟だった。
つまり、頼家の叔父でもあった。
彼は妻の父である時政と深く繋がっていた。
全成の死によって、頼朝の兄弟はすべて亡くなったことになる。
このとき、頼家の命で阿野全成を討ったのは13人の合議制のメンバーの1人、八田知家であった。
頼家の側近中の側近である梶原景時が亡くなったことは、北条派と反北条派(頼家派)の勢力図が大きく変わることを意味する。
同じく頼家に近い比企能員をはじめ、反北条派と見られる御家人たちがこぞって景時の弾状に名を連ねたところを見ると、御家人たちは景時自身が力を持ち過ぎるのを恐れたのかもしれない。
ただ、反北条派にとって、北条時政に抗する大きな勢力を失ったことは確かである。
弾劾状に比企能員らも署名したことは悪手だったと言わざるを得ないだろう。