瀬田・宇治川の戦い

承久の瀬田・宇治川の戦い

東国から京に入るために必ず渡る必要のある2つの橋、そこは上皇軍にとっての最終防衛線であった。
ここを幕府軍に突破されてしまい後鳥羽上皇は降伏した。(承久3年(1221年)6月15日)
承久の乱の終盤の戦いのみスポットを当ててまとめる。

橋を巡る二つの戦い

歴史上、何度も攻防が発生している

幕府軍と上皇軍との最終決戦の地となったのが、近江国の瀬田(勢多)と山城国の宇治である。
この二つの場所は環境が似ている。
いずれも川を挟んで対峙する両軍の間で起きた、橋をめぐる攻防なのである。
橋とは、瀬田川に架かる瀬田橋と宇治川に架かる宇治橋である。
東国から京へ入る場合、必ず川を越える必要がある。 その主たる場所が瀬田橋と宇治橋で、古代以来、政変の発生においては攻防の舞台となっている。

瀬田の唐橋

瀬田は京と東国との境界

琵琶湖の南端、瀬田の地から湖水が大阪湾に向かって流れ出る。
これが瀬田川で、この琵琶湖の南端に位置する瀬田川の源流部に架かるのが瀬田橋である。

瀬田川を越える軍を待ち伏せ攻撃

近くには、紫式部が源氏物語を構想したことで知られる石山寺がある。
瀬田橋はたびたび再建を繰り返しているが、唐橋とも呼ばれ、交通の要衝であるだけでなく、景勝地としても知られる。
東海道や東山道から京へ向かう大軍が、琵琶湖という巨大な湖を船で渡るのは容易でないので、瀬田で川を越えることになるのである。

日本列島を横切る瀬田川・宇治川

瀬田川と宇治川は同じ川

瀬田が京と東国との境界であるとすれば、宇治は京と南都(奈良)との境界である。
瀬田川と宇治川とは同じ川で、琵琶湖から流れ出た瀬田川が、下流で宇治川と名を変えて巨椋池に流れ込む。

宇治は京と南都(奈良)の境界

戦前に干拓されたため現在は姿を消しているが、京の南方には巨椋池と呼ばれる湖が存在していた。
宇治川が巨椋池に注ぐその河口部が宇治であり、ここに宇治橋が架かっている。
京とかつて都だった奈良とは当時の二大都市である。
二大都市の中間に横たわる宇治川は往来を阻む障壁であり、そこに架かる宇治橋は往来を保証する生命線であった。
中世において、奈良興福寺の僧兵は強訴のため春日社の神木を担いでしばしば京へと迫ったが、都を守る武士との間で攻防を繰り広げたのがこの宇治である。

東西の往来は必ず川・橋を越える事に

このように、東国から京に向かうには、瀬田川と宇治川を越える必要がある。
代表的な渡河点が、琵琶湖から流れ出る瀬田と巨椋池に注ぎ込む宇治であった。

承久3年6月13日〜14日

瀬田宇治へ幕府軍は二手に

瀬田には時房、宇治には泰時

瀬田と宇治とにおける合戦の様子は、『吾妻鏡』や『承久記』に見える。
6月13日、幕府軍は川を越えて京へ侵攻すべく、渡河点に通じる「方々の道」へと軍勢を手分けして進めた。
このうち、瀬田には北条時房の部隊が、宇治には北条泰時の部隊が向かう。

上皇は瀬田宇治を最終防衛線に据えた

上皇軍も両所を最終防衛ラインと位置づけて、多くの軍勢配置したので、まさに激戦となった。

瀬田橋を時房軍が突破

川を渡れないよう障害物を設置される

瀬田橋では、比叡山の僧兵も加勢した上皇軍が橋板を外し、幕府軍が大挙して橋を渡る事が出来ないようにした上で、垣楯(楯を並べて相手からの矢を防ぐ防御壁)を構築し、向かってくる幕府軍に矢の雨を浴びせかけた。
また、川の中には綱を張り、乱杭(不規則な杭)を打ち込み、川辺にも逆茂木(尖った木の枝を結び合わせた柵)を並べて、浅瀬からの侵入を防いだ。
網・乱杭・逆茂木といっ障害物は、人の行く手を阻むのはもちろんだが、特に武将たちが乗る馬が障害物に弱かった。

14日夜、突破に成功

時房率いる幕府軍は苦戦したが、14日夜、突破に成功した。

宇治川では浅瀬を渡り突破

宇治橋を渡る作戦は中止

宇治橋でも、上皇軍は同様の戦術で幕府軍の行く手を阻んだと思われる。
泰時は一帯が見渡せる栗子山に陣取ったが、幕府軍の中で一部不用意な武士たちによ先陣争いが起き、負傷者が相次いだ。
翌日、泰時は宇治橋を正面突破するのではなく、川の浅瀬を渡る作戦をとった。

宇治川の戦い『承久記絵巻』

宇治川の戦い『承久記絵巻(龍光院所蔵)』 に描かれた
上皇方に付いた悪僧が橋板を外し矢を射っている

泳ぎの名人に浅瀬を調査させる

宇治川が巨椋池に注ぎ込む辺りには多くの中州や中島が形成されており、水深の浅い場所をうまく見つけ出せれば、必ずしも橋を渡らずに対岸へ進入できる。
泰時は水練(泳ぎの名人)の武士に浅瀬の調査を命じた。

浅瀬を渡り突破に成功

そして、浅瀬や中島を利用して対岸へと到達した幕府軍により上皇軍は撃破された。
『吾妻鏡』には幕府軍で軍功を挙げた武士の一覧が引用されており、戦闘の激しさを今に伝えている。

近隣住民にまで被害を出してしまう

この戦いで、泰時は周囲にある民家を破壊し、その廃材を利用して作らせた筏で川を渡っている。
また幕府軍は、敗走し周辺に逃げ隠れた上皇軍の兵士を掃討すべく、近隣の民家を焼き払っている
戦場となった地域に住む民衆は、戦禍を免れなかった。

承久3年6月15日

後鳥羽上皇の降伏

こうして、上皇軍にとっての最終防衛ラインである瀬田と宇治とは突破された。
ここに乱の勝敗は決した。
翌15日、京へと入った幕府軍に上皇は降伏した。

上皇の命令は絶対ではなくなっていた東国の武士

最終防衛ラインの宇治・瀬田が突破された翌日、後鳥羽上皇は降伏したが、上皇はそこである言い逃れをする。
「挙兵は自分ではなく、一部の臣下が企てたこと」
幼い将軍を操る義時を非難して挙兵した権力者の降伏宣言は、トカゲのしっぽ切りによる保身の弁であった。

後鳥羽上皇が流刑に

結局、後鳥羽上皇は許される事は叶わず、流刑となった。
武士として上皇や朝廷に対する畏怖と畏敬の念はまだ残っていたが、上皇の命令は既に絶対ではなくなっていた。


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