義時追討の宣旨

北条義時追討の宣旨

後鳥羽上皇が義時を討つべく挙兵

承久3年5月14日(1221年)、北条義時追討の宣旨を発し後鳥羽上皇が挙兵する。
五畿内諸国は、義時を追討し院庁に三条して裁断を仰ぐように、と全国に宣旨が下る。
上皇の下には幕府側の武士も幾らかが付き、鎌倉幕府は窮地に追い込まれた。
承久の乱の始まりをまとめる。

実朝暗殺で事態が動く

将軍不在で幕府は地に脚が着かぬ状態に

源実朝の暗殺は、幕府に重大な政治課題をもたらした。
実朝には子供がいなかったため、将軍が不在となったのである。
以前から政子は子のない実朝の後継に気を揉んでおり、後鳥羽上皇の乳母として京都政界に隠然たる影響力を有していた藤原兼子(卿二位)らと接触していたが、突然その時が来たのである。

後鳥羽の皇子を将軍にしようとし失敗

これを受け、幕府は朝廷に対し、次期将軍として実朝の義姉が生んだ後鳥羽上皇の皇子を要請した。
しかし、上皇は皇族の将軍が誕生すれば「日本国を二つに分ける」ことになると言って、要請を拒否した(「愚管抄』)。

頼朝の血縁者・三寅が次期・将軍に

幕府は次善の策として天皇家に次ぐ家柄にある摂関家の子弟に狙いを定める。
こうして、将軍候補として鎌倉に下ったのが、左大臣・九条道家の子で弱冠二歳の三寅(頼経)である。
三寅の父祖には九条兼実・一条能保・西園寺公経といった親幕派貴族の名前が並ぶが、なかでも能保の妻で父方の曾祖母・坊門姫(一条能保室)は、源頼朝の実の妹であった。
三寅は頼朝と血の繋がりもあったのである。

北条への不信を持った後鳥羽上皇

実朝暗殺で北条に不信を持った後鳥羽

しかし、この一連の動きに後鳥羽上皇は納得しなかった。
実朝は上皇をはじめ京都の貴族と親睦があり、しかも、上皇とは義理の兄弟でもあった。
友好関係にある実朝が甥の公暁(こうぎょう:頼家の子)に暗殺されたことは、上皇をして幕府への不信感を抱かめるには十分であった。

源氏に比べ北条は田舎者でしかなかった

後鳥羽から見れば、幕府が実朝に代わる将軍として自らの子を要求し、それが叶わないとなるや、摂関家の子弟を将軍に引き抜いたことは、不穏以外の何物でもない。
そして、貴族社会における身分は取るに足らない北条義時が、幼い三寅を傀儡として、我が物顔に権力を振るう様に憤慨した。

武家側に立っていた義時

御家人の資産を気軽に取り上げる後鳥羽

上皇が挙兵に踏み切った事情を、『吾妻鏡』は次のように語る。
上皇は愛妾亀菊の所領摂津国長江・倉橋両荘(大阪府豊中市)に置かれている地頭の停止を幕府に求めた。
しかし、北条義時は頼朝が御家人に与えた御恩を特段の理由もなく取り消すことはできないと拒んだ。
このことが上皇の逆鱗に触れたという。

後鳥羽と義時、両者の違い

『吾妻鏡』は鎌倉時代後期に幕府側の立場から書かれた歴史書である。
愛妾の願いを叶えようとする上皇と、頼朝の御恩を重んじる義時。
両者を対照させると、私情を挟む後鳥羽の不当性、あくまで武家側の立場を重んじる義時の正当性も見えて来る。
ただ、義時が上皇の要求を拒むようなことが実際にあったとすれば、それは上皇の目には分不相応な振る舞いに映っただろう。

後鳥羽が幕府に対し挙兵

承久の乱の始まり

こうして後鳥羽上皇は、1221年(承久三年)、幕府に対して兵を挙げることになる。 この時の上皇の命令を伝える5月15日付の文書が2種類伝わっている。
一つは官宣旨(弁官下文)という形式の文書、もう一つは院宣という形式の文書である。

いずれも世の政治を牛耳り、朝廷の権威を軽んじていると、義時の横暴を非難する点は共通しているが、ただし、命令の対象と内容は多少異なっている。

義時を糾断した後鳥羽上皇

官宣旨は公文書

官宣旨は朝廷の歴とした公文書で、形式上の宛先は「五畿内・諸国」であり、内容的には全国の守護・地頭に対して「義時の身を追討」するよう指示を出している。

院宣は私的文書

一方の院宣は、個人に宛てて出される私的文書であり、幕府の有力者に対して「義時の奉行を停止するよう働きかけている。
ここでの「奉行」とは御家人を統率し幕政を担っていることを指す。
すなわち、前者は不特定多数の武士に対する軍事動員であり、後者は特定の関係者に対する政治工作である。

義時だけを潰したかったのか、幕府ごとか

軍略と政略の両面から、義時の権力を切り崩そうとしたわけである。
ただ、この時の挙兵の最終目的が、あくまで義時個人を排除することにあったのか、幕府そのものを崩壊させることにあったのかについては、見方が分かれている。

他の事例を見ると、幕府ごと潰す気だったか

上皇の命令は義時個人を名指ししており、幕府という組織に対する敵意は必ずしも表明されていない。
ただ、承久の乱の30年ほど前に起きた平泉政権の滅亡は「藤原泰衡の追討」と表現され、乱の110年ほど後に起きる鎌倉幕府の実際の滅亡の際は「北条高時の追討」と表現された。

当時は組織の代表者の追討が、組織そのものの打倒を意味することもある。
仮に上皇の「義時の追討」が成功していた時、幕府も滅んでいたかも知れない。

鎌倉幕府の軍勢19万が出陣

政子の演説が御家人をまとめる

後鳥羽上皇が挙兵を命じたとの情報は、19日に鎌倉に達する。
幕府内に衝撃が走るが、御家人たちの動揺を抑えたのが北条政子の演説であった。
演説の内容は史料によって違うが、政子の演説が御家人たちをまとめ上げたのは史実であると思われる。

『承久記絵巻』北条義時と義時追討の報せを聞く御家人たち

『承久記絵巻』義時追討の報せを聞く御家人たち
三浦義村(中央)、北条義時(左上)

幕府軍が3手に分かれて京を目指す

そして承久3年5月22日、19万ともいわれる幕府の大軍が3手に分かれて京に向けて出陣する。

上皇のもとに集まった武士たち

藤原秀康
上皇からの信頼が厚く、検非違使となる。下野・上総などの国司も歴任。承久の乱では総大将に任命される。
大江親広
大江広元の長男。源頼家・実朝の側近。実朝の死後出家し、京都守護となる。承久の乱では北条泰時軍と対峙。
三浦胤義
鎌倉幕府の御家人で、和田氏の乱などで功を立てる。北条義時と反目し京で検非違使に任じられる。
佐々木広綱
近江、長門などの守護を務めるも、次第に上皇との関係を深め、上皇の推挙により西面の武士となる。
尊長
延暦寺の僧侶。上皇に才能を認められ側近となる。その後、院近臣に加えられ法勝寺の執行となる。

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