千早城の戦い

千早城の戦い

千早城の戦いは、1333年(元弘3年、正慶2年)に後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した河内の武将である楠木正成と、鎌倉幕府軍との間で起こった包囲戦。
千早城は上赤坂城・下赤坂城と並び、現在の大阪府千早赤阪村に位置する山城である。
正成は1331年に後醍醐天皇の笠置山挙兵に応じて、下赤坂城で挙兵するも、すぐに落城してしまう。
鎌倉幕府軍は下赤坂城・上赤坂城を落城させた後、楠木正成の最後の拠点である千早城を100万騎ともいわれる大軍で包囲
しかし正成は丸太や大石を崖から落とすなどの奇策で約100日間も幕府軍を釘付けにし、最後まで落城しなかった。
千早城の戦いが終了して約2週間後、鎌倉幕府は滅亡した。

『河内千破城図』

『河内千破城図』(湊川神社蔵)

鎌倉幕府軍を楠木軍が翻弄

100万もいた?幕府軍

蒙古襲来後、鎌倉幕府が弱体化すると、後醍醐天皇は倒幕を計画する。
「悪党」と呼ばれた新興武士・楠木正成は、天皇の動きに同調して蜂起し、千早城に立て籠った。
太平記』の記述によれば、鎌倉幕府の北条高時は約100万騎の兵士を派遣し、1333年2月、千早城を包囲させたという。
※実数は数万人から10万人程と思われる

悪党・正成のゲリラ戦術

鎌倉時代の戦いは、戦闘前に「やあやあ我こそは!」と名乗りを上げてから正々堂々と戦うのが流儀であった。
だが、悪党・正成は、そうした作法を無視して、ゲリラ戦を展開していく。
盾をかざして城に攻め上がった幕府軍兵士には大石を投げ下ろして盾を打ち砕き、矢を射った。
幕府軍は正面からの城攻めを一旦止め、水源を断つ持久戦に切り替えたが、城内には大木をくり抜き300もの木船が水を蓄えており、食料も十分蓄えていた。

わら人形作戦

さらに正成は藁(わら)で等身大の人形を作って甲冑を着せて敵から見える所に並べた。
そして、夜が明ける頃に勝ち鬨をあげてこの人形たちを本物の兵士と思い込ませ、敵が攻撃を仕掛けたところに、大石や丸太を投げ落とした。

『大楠公一代絵巻』(

『大楠公一代絵巻』(千早城内でわら人形を作っている光景)/楠妣庵観音寺蔵、土佐光成筆

城攻めを続ける幕府軍

しかし、幕府軍も手をこまねいているだけではなかった。
京から大工を呼び寄せて長い梯子を作り、千早城の空堀に架けて渡ろうとする。
しかし正成軍は、この梯子に大量の油を注ぎ、火を放って焼き、兵士もろとも谷底に落としてしまったのだ。

千早城合戦図

千早城合戦図(長梯子の計の場面が描かれている)/湊川神社蔵、歌川芳員画

頑強だった千早城

この戦い以前は、本格的な攻城戦は数が少なく、山城への攻撃となるとこの合戦が初めてに近い。
籠城側は、弓を射かけ、石や木を投げつけるのに対して、攻城側は城壁を目指しひたすら攻め登るか、水の手を切るか兵糧攻めによる持久戦しかなかった。
そのため、城内に水源があった千早城は鎌倉幕府軍に対して落城することはなかったのだ。

『太平記絵巻』巻二「千剣破城軍事」「新田義貞賜綸旨事」

『太平記絵巻』巻二「千剣破城軍事」「新田義貞賜綸旨事」
右側に楠木勢と幕府軍の戦いのようす、左側に新田義貞が早良親王からの倒幕命令を受け取る姿が描かれている

千早城を落とせなかった幕府軍

こうした戦術によって、正成軍は幕府軍を100日あまりも釘付けにする。
その間、各地で倒幕勢力が蜂起する。
新田義貞鎌倉幕府を攻め滅ぼしたのは、千早城包囲が解かれてからわずか2週間後の事であった。

鎌倉幕府の滅亡

六波羅探題が陥落

後醍醐天皇が隠岐国の配所を脱出し、討幕の綸旨を全国に発する。
これに呼応した大名らが千早城の包囲を止め相次いで帰国。
そして、5月7日に足利高氏によって京の六波羅探題が陥落させられた。
六波羅陥落を知った千早城の幕府軍にも伝わり、千早城から撤退。
しかし幕府軍はその後も大混乱を引き起こし、そのほとんどが鎌倉へ入る事はなかった。
そして、手薄となった鎌倉を攻めるべく、関東で新田義貞が挙兵、鎌倉幕府は滅亡する。


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