鎌倉時代の悪党

鎌倉時代末期の「悪党」

荘園間の境界争いが原因だった

「悪党」とは、鎌倉時代末期に古代からの荘園制が崩壊していくなか、武力によって揉め事の解決を図った集団を「悪党」と呼んだ。
自分の勢力を拡大しようとしたり、実入りがよい地位を奪い合ったり、港湾都市の利権を奪い合ったりなど、悪党が発生するときは基本的に利権が絡んでいた。

応仁記大合戦(骨皮道賢と悪党)

応仁記大合戦(国立国会図書館所蔵)
応仁の乱で活躍した足軽大将の骨皮道賢は、京中および南山城に多くの悪党を従えていたと伝わる

揉め事が起こると「悪党」呼ばわり

争いの当事者が互いを「悪党」と呼び合う

1つの荘園を1人の領主が支配きる「職の一円化(職:しき)」は、荘園間において様々な問題を引き起こした。
鎌倉時代後期には荘園間の境界争い、荘園領主である本家と領家の争い、領家と荘官・地頭との争いが多発し、鎌倉幕府の法廷に持ち込まれた。
彼らは訴訟の中で相手の行為を「悪党」と呼び、互いに非難し合った。
そこから、支配層や体制に反抗し、騒乱を起こす者が悪党と呼ばれるようになった。

現代の「悪党」とは少し違う

ここでいう「悪」は、命令や規則に従わない者に対する価値評価を示している。
また、単に悪いという意味だけでなく「抜群の能力や気力、体力を持っていて恐るべき」という意味も含まれていた。

悪党が発生するパターン

悪党が登場する紛争は、大きく4つに大別される。

  1. 職の一円化に乗じて、中小の在地領主が勢力を拡大しようとした紛争
  2. 年貢代銭納の普及によって、実入りがよい職になった荘園代官の地位をめぐる紛争
  3. 貨幣流通の進展によって成長した港湾都市の利権をめぐる紛争
  4. 1〜3の紛争の当事者に雇われて武力を発揮した「ならず者」による乱行

以上の4つ、以下から一つずつみていく。

悪党の代表例

@職の一円化に乗じて、中小の在地領主が勢力を拡大しようとした紛争

@の有名な例として、播磨国矢野荘の寺田悪党がある。
寺田氏は矢野荘例名の公文職を相伝し、重藤名という広大な名を有する在地領主である。
承久の乱後に東国から海老名氏が地頭として入ると、その配下になった。
しかし、領家と地頭の間で下地中分が行われると、寺田氏の一族である寺田法念は自らの名田を領家方に移し、勢力拡大を謀った。
別名下司の矢野清俊を討ち「都鄙名誉の悪党(都と地方で知らない人が「いない悪党)」と称された。

A年貢代銭納の普及によって、実入りがよい職になった荘園代官の地位をめぐる紛争

荘園の支配や年貢の収納は荘官や地頭の役割だったが、それを代行する代官が増えた。
年貢の代銭納化によって荘務の代行業は“おいしい仕事”になり、なおかつ誰でも務めることができた。
そのため、山僧や禅僧、日吉社・祇園社などの神人、土倉・酒屋などの金融業者や商人、近隣の有力住人など、さまざまな人たちが参入した。

代官には世襲権がなく、年貢や公事の納入が滞ると容赦なく契約を切られた。
しかし、実入りのいい仕事を手放したくない代官の側の抵抗も激しく、そのまま荘園に居座る者もいた。
中には、武力を用いて略奪に及ぶこともあった。

B貨幣流通の進展によって成長した港湾都市の利権をめぐる紛争

鎌倉時代には多くの港湾都市が発達したが、利権をめぐるトラブルも少なくなかった。
瀬戸内海運と淀川水運の結節点だった尼崎では1329年(元徳元年)、鴨社領長洲御厨の番頭・江三入道教性らが東大寺領の長洲荘に乱入し、代官の澄承僧都を殺害する事件を起こしている。

また、鎌倉時代に港湾都市として発展した尾道浦(現在の広島県)では、代官の円清・高致父子が預所代の行胤らを殺害し、高野山から悪党として訴えられている。
円清・高致は守護方、行胤は高野山方について尾道の利権を争い、その果てに起きた事件であった。
港湾都市で暴れた悪党は広い人脈と武力を有し裁判で戦うための法廷技術も駆使しながら利権獲得を謀った。

C1〜3の紛争の当事者に雇われて武力を発揮した「ならず者」による乱行

荘園や港湾都市などの利権をめぐる武力衝突では、助っ人が雇われることも少なくなかった。
その中には盗賊や博打打ちなどを生業とし、状況によっては雇い主を裏切ることも厭わない輩がいた。
彼らは烏帽子を着けず、袴も履かず、菅笠を被って覆面を着け、槍や棒を持って鎧は身に着けないなど、当時の人々から見て異類・異形の風体をしていた。
既成の秩序から逸脱した姿や行動から「ならず者」として恐れられた。

悪党は武家にも朝廷にも媚なかった

悪党は、朝廷と武家が協調していた鎌倉時代の体制を根底からかき乱す存在だった。
中世国家の治安警察部門を担当する鎌倉幕府は、荘園領主からの訴えに応じ、六波羅探題に命じて彼らを取り締まった。
しかし、悪党はしぶとく抵抗し、やがて反幕府勢力として倒幕運動に参加することになる。
倒幕時後醍醐天皇方について活躍した楠木正成は出自が不明だが、悪党の出身だったという説もある。


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