縄文時代に入ると定住化が進み、各地に竪穴住居が造られるようになった。
縄文人は定住場所を厳選しており、特に南向きで日当たりの良い大地を好んで生活していた。
そして、複数の住居が集まり、集落が形成されていく。
縄文人たちの生活の様子を探る。
旧石器時代の人々は特定の拠点を持たず、移動を繰り返しながら狩猟採集生活をおくっていた。
しかし、縄文時代の草創期に入ると、特定の場所に一定期間暮らす半定住生活を始める。
最初からずっと定住生活をおくっていた訳ではなく、長逗留した事で同じ場所に住み続ける事の利点を見出し、定住生活が浸透していったようだ。
定住によって身体を動かす時間が大幅に減り、移動に費やしていた時間や体力を、「考える事に」費やせるようになった訳だ。
その結果、便利な狩猟具や漁労具が発明され、更に生活の利便性を更に高める工夫を思い付くなど、暮らしを豊かにする為の知的活動が活発になった。
定住生活が人々にもたらした変化とは、人類の発達において、非常に重要な出来事であったのだ。
また、人間は長らく自然の秩序に従って生きて来たが、定住生活の開始によって、その関係に変化が生じていく。
人間は自然の一部を切り取り、占有して自分たちのモノとした。
今までは他の動物と同じように自然の下で生活していたが、定住によって自然と対峙・対立する関係になったのである。
移動生活に終止符を打って定住を始めた縄文人は、適当にその辺に住居を作って住み始めた訳ではない。
キチンと地形の情報収集を行い、長期的に暮らす為に最適な場所を選んで定住していたのだ。
縄文人は様々な場所に住んだが、主に南向きで日当たりが良い、乾燥した台地や丘陵が好まれたようだ。
縄文時代の遺跡も、台地や丘陵に多く残っている。
また、生きる為に必要不可欠な水が近くで得られるのも重要なポイントの一つであった。
かと言って、川のすぐ近くに住む縄文人は少なかったようだ。
当時の日本列島は降水量が多く、低地では川が氾濫を繰り返していた。
また、当時の低地は湿原が広がっており、夏になると蚊のような不快な虫が多かったのだ。
その為、人々は低地を避けて、高台で暮らしていた。
縄文時代中期に入ると気候が乾燥化する。
低地に形成されるムラも増え、海に繋がる入り江の畔でも集落が営まれるようになった。
その後、弥生時代に入ると水稲耕作が普及し、低地に住むのが一般化する。
弥生時代には河川整備技術が発達していた為、低地に住む事を可能としたのだろう。
縄文人たちは快適に過ごせて長持ちした縦穴住居に暮らしていた。
縄竪穴住居は一見簡素に見えるが、実は作るのに大変な労力を要し、集落の男たちが共同作業で築いていた。
旧石器時代後期から作られるようになったといわれる竪穴住居の形態は、地域や時期によってそれぞれ異なる。
床面が円形の竪穴住居が最も一般的だが、なかには楕円形や長方形の住まいもあった。
地面を掘り下げた底の深さも50〜80センチほどであったが、北海道標津町の伊茶仁カリカリウス遺跡では、深さ2メートル超の竪穴住居も発見されている。
一見すると簡素に見える竪穴住居だが、成人男性が1人で作れるような代物ではなかった。
先ずは竪穴を掘るのだが、当然ながらスコップのような金属器はないので、先端の尖った棒などで地面をほぐし、それをかき出す作業を何日も続けた。
それから柱を組む作業に移るが、粘土層に柱穴を掘るのも容易ではなかった。
また、住居の柱に相応しい木を選定し、それを石斧などで伐採し、ムラまで運ぶ必要もあった。
これだけの作業を一世帯の家族で行うのは非常に厳しく、何世帯かが協力して作業を進めた可能性が高い。
縄文人は家作りを通してコミュニケーションを深めていたのだろう。
柱を組んだ後は屋根の骨組みを作り、放射状に垂木を掛けて樹皮で覆う。
そして、最後は茅葺きで屋根を覆って完成となるが、寒冷地域では保温性を高める為、更にその上に土を被せた。
縄文時代は雨が多かったが、竪穴住居は雨が屋根に沿って外へ流れていくので雨漏りを心配する必要は、あまりなかった。
また、屋根が太陽の強い日差しを遮ってくれ、地面(地熱)の冷たさと相まって、夏は心地よい涼しさがあった。
地面に穴を掘っている為、保温性も高かったので、冬でも過ごしやすかったのだ。
縄文時代は水回りの設備を作る技術が未発達であった為、日々の生活に必要な水は近くの池や川から汲んでいた。
ただし、食料を貯蔵する穴や火を焚く炉、煮炊きに必要な道具を収納する場所はあったので、縄文時代には既にキッチンの基礎が作られていた。
トイレだが、当然、家の中には作られず、少し離れた川などで直接用を足したとみられる。
排泄物などはバクテリアによって分解されてるので、縄文時代の遺構は殆ど残っていない。
ただし、福井県若狭町の鳥浜貝塚では大量の人の排泄物の化石が出土している。
鳥浜の縄文人たちは、湖に杭を打って桟橋を作り、そこで用を足していたようだ。
竪穴住居といえば縄文時代のイメージが強いが、庶民は奈良時代・平安時代まで竪穴住居で生活を営んでいた。
中世以降は庶民の家も掘立柱建物に移行したが、東北地方では鎌倉時代・室町時代になっても竪穴住居が用いられていた。
更に、江戸時代初頭に島原の乱が勃発した長崎県の原城では、発掘調査で竪穴住居跡が発見されている。
建築年代は定かではないが、原城の一揆軍は竪穴住居で生活していたようだ。
定住した縄文人は家族単位でまとまって住み、やがて集落が形成されていく。
彼らは互いに助け合いながら、日々を過ごしていたようだ。
弥生時代には邪馬台国などの古代国家が誕生するが、その原型となる集落における秩序が縄文時代から作られていく。
定住するようになった縄文人は竪穴住居を作って住んだが、一人で勝手気ままに住むという事はなかったようだ。
住まいには家族単位で住み、日常生活を営んだとみられる。
縄文時代の集落遺跡は各地で発掘・調査されているが、なかには住居棟が一棟しかないという最小限の集落の存在も確認されている。
ただし、基本的には2〜3棟単位の集落が多かったようだ。
これは、集落の多くが親子2世代、または3世代の親族で構成されていたからだと考えられる。
縄文時代は複数の人々が集まって住んだ方が、圧倒的に便利だった。
食料や燃料、建築材が共有できるほか、仲間同士で助け合い、身体が弱い老人や幼子の安全も確保出来たからだ。
集落の登場によって「年長者を敬う」という考え方も生まれただろう。
移動生活の時代は、足腰が弱い老人は単に足手まといな存在だった筈だ。
しかし、定住化によって年長者の知識や経験が子や孫に継承され、集落での暮らしにも活かされた。
この時代の平均寿命は男女とも14歳ぐらいだったと考えられ、長生きする事自体が尊敬の対象であったのだろう。
2〜3世帯の小規模な集落がある一方で、10棟を超える大規模集落も形成されるようになる。
その中でも特に規模が際立っているのが、青森県の三内丸内遺跡である。
約5500〜4000年前の集落跡で、近年の発掘調査で竪穴住居跡や墓、掘立柱建物跡などが見付かった。
三内丸山遺跡のような大規模集落では、竪穴住居を勝手に作る事は出来なかった。
住居群は親族ごとに幾つかのグループにまとめられ、それらが中央の広場を囲んでドーナツ状に配置された。
こうした集落を「環状集落」といい、縄文時代前期から後期に掛けて、東日本を中心に形成された。
集落には共同のゴミ捨て場や食物を保存する貯蔵穴、埋葬施設、屋外の共同調理施設、祭祀的な施設など、集団が共同生活を営むために必要不可欠な施設も設けられた。
常民同士が日常的に関わり合いながら、集落の秩序を保つ努力を行っていたと考えられる。
縄文時代は身分制度はなかったであろうが、集落のまとめ役・リーダーはいたであろう。
竪穴住居を中央にあった重要設備「炉」を囲んで一家団欒していた。
炉は単に暖房や料理の為に使われた訳ではなく、「家族」の絆を育む場としても機能していた。
竪穴住居の床面積は5〜10畳ぐらいで、4〜6人の家族が仕切りのない部屋に住んだ。
住居内には空間や棚があり、土器や狩猟具、食料などを保管していた。
物が多すぎると手狭になりがちだが、そこは様々な工夫で過ごしやすくした。
住居のほぼ中央にある炉は、暖房や照明、料理、種火の保存、植物性食料のアク抜きに必要な灰を作るなど、様々な役割を担った。
炉から立ち上がった煙はハエや蚊などをいぶし、煙の中の成分が屋根材の草や木の皮の腐食を防ぐ役割も果たした。
竪穴住居の上部には煙り出しの穴もあるので、住居内が煙だらけになる心配もなかったという。
炉の形状も多様で、石囲炉や地床炉、埋甕炉、複式炉、土器敷炉などがあった。
最も一般的だったのは床面を掘りくぼめた地床炉で、掘り込みが20p以上あるモノもあれば、浅く皿状に掘りくぼめたモノもあった。
一方、埋甕炉は胴下半部や底部を割り取った深鉢形土器を埋め込んだ炉で、前期までは地床炉とともに炉の主流を担った。
しかし、中期以降は4〜10個の石で円形や方形、長方形に囲んだ石囲炉が主流になる。
他にも、炉が2つの構造からなる複式炉、土器と石囲を組み合わせた石囲埋甕炉などがつくられたが、弥生時代以降は簡素化し、竈が登場すると炉は徐々に姿を消していった。
とはいえ、炉の伝統が完全に消え去ったわけではない。
伝統的な日本家屋の中心には灰を敷き詰めた囲炉裏があり、料理を作ったり、暖をとったり、家族のコミュニケーションの場になっている。
炉は住まいの中心的となる設備として、現代にも引き継がれているのである。
縄文時代、竪穴住居に暮らした世帯構成については不明だが、おそらく現代とあまり変わらず、両親と子供、祖父母が住んでいただろう。
ただし、当時の「家族」がどういった構成だったのかは明らかではない。
もしかしたら男女別に住んでいたかも知れないし、あるいは配偶者と別のパートナーが一緒に住んでいたかも知れない。
確かなのは一つの竪穴住居に何人かで住んでいた事だ。
焚火やキャンプファイヤーなどで火を囲むと何か語りたくなる気分になるものだが、それは縄文人も同じだったと考えられる。
炉は闇夜の空間を照らす灯としての役割も果たしたが、火を神聖なものとして見ていた縄文人は、炉を囲んで語っていただろう。
「家族」という概念が人の心に植え付けられたのは、縄文時代からだったかも知れない。
無数の貝殻が積もった貝塚には、縄文時代の暮らしを知る手掛かりが幾つも残っている。
古代人が捨てた貝塚が層をなす貝塚は全国に約2500ヵ所あり、そのうち約1/4が関東地方に集中している。
日本海側は貝塚が殆ど見付かっていないが、これは単調な砂浜や磯海岸が多く、塩の干満の差がなく、干潟が発達しにくかった為だと考えられる。
貝塚では貝殻だけでなく、土器や石器、土偶、骨角器、更には縄文人や犬の骨も出土している。
こうした出土品からかつては「貝塚は縄文人のゴミ捨て場だった」という説が一般的だった。
しかし、なかには貝殻がキチンと整列した貝塚もあり、近年では「貝塚は単なるゴミ捨て場ではなかった」とする見方が強い。
貝殻が貝塚に積み重なっているのは、縄文人が貝を沢山食べていた事の表れである。
しかし、アサリだと1キロ獲っても食べられるのはわずか400グラム。
カロリーも低かったので、いくら食べても満腹にはならなかった筈だ。
ただし、貝には亜鉛やタウリンといった栄養素が多分に含まれていたので、シジミ汁やアサリ汁など、スープ状にして食していたとみられる。
東京都北区にある中里貝塚の近くでは、焼石で貝の身を蒸したとみられる跡も発見されている。
おそらく貝を蒸した後、干し貝にしたと考えられる。
中里貝塚の周辺には人が住んだ形式が殆どみられないので、貝の加工を専門で行っていたとみられる。
干し貝は保存食として食されたとみられるが、内陸部との交易品だったという説もある。
また、南西諸島の貝塚では夜光貝やオオツタノハといった新貝類の貝類が出土している。
食用だけでなく、怪しく光る貝の内側の光沢が装飾品として好まれたと考えられる。
こうした貝類の出土は、縄文人が潜水漁法を行っていた事を伺わせる。
火山が多い日本列島は土壌が酸性なので、骨や植物遺体といった有機物は土中の微生物に分解され、なかなか残らない。
しかし、貝塚の場合は、大量の貝殻から生じる炭酸カルシウムが土壌をアルカリ性に変える。
その為、他の場所では残りにくい骨などが比較的多く残っているのだ。
一般的な住居は直径3〜4メートル程だが、一方で、長さ20メートル以上の大型竪穴住居や床に石を敷き詰めた住居もあった。
大型竪穴住居は長方形もしくは長楕円形である事が多く、その形状から「ロングハウス」とも呼ばれる。
縄文時代前期末から中期に掛けての建物が多く、主に東北・北陸で発見されている。
用途に関しては諸説あるが、豪雪地帯で次々と発見されている事から、屋根裏にトチノミなどの堅果類を大量に保存し、冬に集落の人達が共同でアク抜き作業をする為に用いたという説がある。
富山県朝日町の不動堂遺跡にある長い楕円形の竪穴住居は、日本で最初に見付かった大型建物である。
長さ17メートル、幅8メートル、広さ約120平方メートルを誇り、床面中央には4基の石囲炉が規則正しく配置されている。
秋田県能代市にある杉沢台遺跡では4棟の大型竪穴住居跡が見付かっている。
なかでも台地の最も高い場所にある長さ31メートルの大型住居は、集落のシンボル的存在だった可能性がある。
他にも、40軒の竪穴住居跡や食料を保存する貯蔵穴が100基以上発見されている。
縄文時代の建造物の中で最大の長さを誇るのが、山形県米沢市にある一ノ坂遺跡である。
大型竪穴住居後の幅は4メートルだが、長さは44メートルを誇る。
未製品・半製品の石器が多く出土している事から、石器工房の跡だったと考えられている。
大型竪穴住居は豪雪地帯で多く発見されているので、冬季の作業用に用いられていたと考えられる。
ただし、雪の少ない関東地方でも跡地が見付かっている。
大型竪穴住居は集落外からの訪問者の宿泊施設、儀礼や祀りを執行する場、宴会や集会の場としても用いられていただろう。
一般的な竪穴住居は地面を掘っただけなので、基本的に床は土地である。
しかし、なかには床面の一部、もしくは全面に平らな石を敷いた住居もあった。
これを「敷石住居」といい、関東から中部地方に掛けて広く分布している。
住居の形は様々だが、なかには出入口が出張った柄鏡形のものもあった。
入り口付近の床下には、幼子の亡骸を納めたとみられる土器も埋められている。
敷石住居が登場したのは縄文時代中期末だが、当時は気候が冷涼化して収穫できる食料が減り始めていた。
その為、祭祀などで神に祈りを捧げていた様だが、住居の奥に石囲いの祭壇のようなものが在ったり、石棒などが出土している事から、敷石住居が祭祀の場として用いられたという説がある。
住居の建設に際しては方々から重い石を運んでくる必要があったが、作業としては非常に手間が掛かる。
その為、敷石住居はとても重要で、格調高い場所だったのではないだろうか。