縄文人の食事

縄文人の食生活

縄文時代、氷河期があける事で海面が上昇し、日本列島が現在の形になった。
近年の研究では縄文時代の人々は自然と共生しながら、豊かな生活をおくっていた事が明らかになっている。
自然を征服するのではなく、共生していた縄文人の食生活をみてみる。

大型哺乳動物と人類が日本列島へ

約260万年前から現在までにあたる第四期は、寒さが厳しい氷期と、温暖な間氷期が交互に繰り返された時代だった。
間近の氷期は約11万年前に始まり、約1万5000年前に終わったといわれる。

動物と共に日本人も日本に定着する

当時は大陸と日本列島が陸続きになっており、オオツノジカやナウマン象、マンモスといった大型哺乳動物が大陸から渡って来たが、それらを追って人々も列島に移って来た。
彼らは獲物を求めて各地を転々と移り住み、生活を営んだ。

気候と共に植生も変化

氷期の日本列島は乾燥した大陸性気候で、東日本ではエゾマツやコメツガなどの亜高山帯針葉樹の疎林、西日本では五葉松など針葉樹の疎林と、ミズナラなどの礼温帯落葉広葉樹の混合林が広がっていた。
しかし、1万5000年前から1万2000年前に掛けて地球規模で温暖化が進み、植生や気候にも大きな変化が生じる。
現在よりも平均気温が1〜2℃高い温暖湿潤な海洋性気候になり、落葉広葉樹や照葉樹が日本列島の大半を覆うようになった。

堅い果実を食すために調理が始まる

落葉広葉樹と照葉樹の森林では、コナラやクヌギなどのドングリ類、トチノキやクリなどの堅果類が豊富な実を付けるようになる。
これらを調理・保管する為の土器も作られるようになり、人々の食生活は大きく変わっていった。

気候の温暖化で食生活が豊かに

温暖化によって日本が現在の形に

気候の温暖化によって生じた最も大きな変化が、海面の上昇によって陸地側に海が広がった「縄文海進」である。
極北の氷山や高緯度地帯の氷河が溶けて海に流れ込み、列島の河谷にも海が入り込んだ。
最暖期には関東、古河(茨城県)や藤岡(栃木県)辺りまで海が入り込み、房総半島の館山付近にはサンゴ礁の海が広がっていた。
低地の水没によって日本列島は大陸と切り離され、北海道・本州・四国・九州・沖縄などからなる現在の姿になった。
現在の日本列島が形成された事で、日本海側では暖流の対馬海流が流れるようになった。
その影響で、大陸からの季節風が日本海を渡る際に海から大量の水蒸気を含むようになり、そこで発生した雲が日本海側に大量の雪を降らせた。

大型動物は絶滅し、中型・小型動物が増える

地球規模で起きた激しい気候変動は、日本列島の生態系にも多大な変化をもたらした。
温暖化で植生が変わった事で、マンモスやオオツノジカなどの生育環境が悪化し、やがて絶滅していった。
代わりにウサギやイノシシ、ニホンジカなどの中型・小型動物が増えた。

地形・気候の変化が“海の幸”を生んだ

海面が上昇した事で海辺の地形は複雑化したが、これも人々の食生活に変化を与えた。
また、大陸と日本列島を結んだ陸橋が沈んだ事で黒潮(暖流)や親潮(寒流)が日本列島の側を流れるようになったが、これによって南から北へ回遊魚が運ばれていった。
こうした地形や気候の変化が様々な“海の幸”を生んだ。

土器や弓矢が生まれ、定住生活が始まる

更新世と完新世の狭間で起きた気候の変化で、日本列島の自然環境は現在に近いモノになった。
食生活や暮らしや豊かになり、土器や弓矢などの新しい道具も生まれた。
更に定住生活が始まった事で、現在に繋がる精神世界も構築されていった。

再び寒冷化、人口は縮小傾向へ

ただし、縄文時代は常に温暖だった訳ではない。
後期に入ると再び気候が寒冷化し、海面が低下し干潟が縮小した。
採集できる植物性食料も減り、前期から中期に掛けて上昇していた日本列島の人口が減少に転じだ。

縄文人の「食」に対する豊富な知識

縄文人は“旬”を知っていた?

自然の変化を注視していた縄文人

本格的な農耕を知らなかった縄文社会では、自然の恵みを食する事でしか命を繋げられなかった。
その為か縄文人は、気温の上昇・下降や山の芽吹き、海や川の代わり具合など、自然の変化に対して非常に敏感だったと思われる。

動物・魚介類より植物が“主食”だった

食べ物にはそれぞれ“旬”の時期があるが、近年の研究から「縄文人は食材を美味しい時期に食べていた」と考えられている。
例えば、ウニは産卵期だと身がなかったり、味が落ちたりするが、縄文人は試行錯誤を重ねながら“旬”を見極めていた可能性がある。
各地の遺跡から出土した食糧関連品目は、陸上動物60種、魚類70種、貝類は300種以上を数える。
縄文時代といえば、狩猟や漁労で捕まえた動物を食する肉食的なイメージが強いが、野生動物の確保はそう容易くない。
その為、確実に収穫できる野山の植物の方が“主食”であっただろう。

季節に合わせ、新鮮な植物を探していた

縄文人が食べたとされる野山の植物には、ドングリやクリ、クルミなどの木の実、フキやワラビ、ゼンマイなどの山菜、ヤマユリやユリ根などの根菜などがある。
春になると野山に新芽が芽吹き、秋には木の実が沢山実るが、縄文人は“旬”の時期を見計らって収穫し、食べていたとみられている。

冬に行われた野生動物の捕獲

冬は植物が枯れる為、動物を捕まえていた

縄文人の食を主に支えたのは木の実などの植物性食料だが、イノシシやシカ、ノウサギ、タヌキといいた野生動物も重要なタンパク源だった。
こうした生き物を捕獲する為に狩猟を行ったが、他の食糧が確保しにくい冬に行われる事が多かったようだ。
冬は森林の下草が枯れる為、獲物を捕らえやすいという利点もあった。

縄文人は動物に詳しい

縄文人が自然の変化に対して敏感だったが、動物に対する知識も豊富だった。
それまでの経験則から動物の行動を読み取り、狩猟に臨んでいた。
地域によって生息する野生動物は異なるが、北海道では本州で殆ど見られないエゾシカやアシカ、オットセイ、ヒグマなども狩猟の対象になった。

落とし穴

狩猟では、動物を捕まえる手段の一つとして落とし穴も用いられた。
縄文人は動物の習性を熟知していたので、あらかじめ通りそうな場所に穴を掘り、シカやイノシシなどが落ちるのをひたすら待っていた。
穴の底には先端が尖った逆茂木などが備えられ、落ちた動物の自由を奪っていた。

素早い動物を捕られる為、弓矢が普及

旧石器時代の狩猟では、大型哺乳動物を捕まえる為に石槍などが用いられていた。
しかし、縄文時代に入ると獲物が小型化し、従来のやり方で捕まえるのは困難になった。
そこで新たなに使われるようになったのが弓矢で、縄文時代の草創期に登場して以降、急速に普及していった。

縄文時代の狩りの主役・弓矢

離れた場所から安全に獲物を射抜く

シカやイノシシといった素早く動く動物を捕まえるには、遠く離れた場所からでも正確に仕留められる弓矢が有効だった。
槍を使った狩りでは至近距離まで獲物に近づく必要があったが、弓矢の登場で狩りの安全性が高まった。

様々な材質を駆使し弓矢を製作

弓の材料には、イヌガヤやアズサ、マユミなど、堅くて粘り気がある材質の木が用いられた。
また、矢の幹にあたる矢柄には、ヤダケやシノダケのようなササ類が用いられた。
矢の先端には獲物を射抜く為の鏃(石鏃)が付けられたが、黒曜石や頁岩、チャートといった硬い石が使用された。
先端や刃は薄くて鋭く、相当な貫通力や殺傷力を有していたようだ。

石材・木材も使っていた

縄文人は石を使った調理用具も用いていた。
石皿は石臼に近い道具で、木の実の殻を破ったり、磨り潰すときに使った。
なお、あまり遺物は見付かっていないが、木製品も使用していたようだ。
泥炭層から腐朽を免れて出土した遺物をみると、縄文人の木工技術は相当のモノであった事が分かる。

縄文土器

世界最古の土器だった縄文土器

縄文土器を使うから縄文時代という

旧石器時代と縄文時代の最も大きな違いとしてあるのが、土器の使用である。
縄文時代が始まった年代については諸説あるが、土器の使用開始時期を縄文時代の始まりとするのが一般的だ。

縄文土器は約1万6000年前には誕生していた

日本列島で縄文土器の製造が始まったのは、放射性炭素分析法などによる年代観測によって約1万6000年前とされている。
土器は日本列島以外でも製作されたが、西アジア(イラン、イラク)のメソポタミア地方や南米のアマゾン川流域でも作られていた。
しかし、西アジアで土器の製作が始まったのは約9000年前、南米のアマゾン川流域は約7000年前で、現在確認されている中では、縄文土器が世界最古である。

手作業と野焼きで作る土器

土器とは水を加えて練り、容器を形作ってから800度前後の温度で野焼きした器の事を指す。
製作にあたって窯やロクロは用いず、全て手作業で作り上げる。
時代や地域によってその形状は異なるが、稲作を生業とする弥生時代が始まるまでの約1万年間、縄文土器は作られ続けた。

縄文土器によって食生活が豊かに

海外の土器は水の運搬や種子の貯蔵などに用いられたが、縄文土器は食べ物を煮炊きする為に用いられた。
その証として、出土した土器の底からは食べ物の残りカスの焦げが付着していたり、加熱による2次的な変色が確認できる。

初期の土器の底は尖っていた

また、草創期には土器の底が尖って尖底土器が作られていたが、当時は土器を炉の灰や地面に突き刺して使っていたので、尖っていた方が便利だった。
ただし尖底土器は縄文時代前期には姿を消し、底が平らで地面に置ける土器が一般的になった。

土器のおかげで煮炊きが発達

煮炊きできる縄文土器が発明された事で、人々の食のバリエーションは格段に広がった。
熱を加える事で食材が殺菌されて衛生的になり、硬い食物繊維や動物の肉が柔らかくなって食べやすくなったのだ。

植物の毒抜き「アクを取る」事が可能に

また、ドングリに含まれるデンプン類は、生のままだと消化できなかったが、煮炊きによって化学変化が起き、消化可能になった。
他にも、植物には動物に食べられるのを防ぐ為に身に付けた毒成分「アク」が含まれたものがあるが、これも煮炊きで取り除く事が出来た。

植物も魚介類も、より多く食べられるように

煮炊きが出来るようになった事で、ドングリやトチノミ、ワラビといった山の幸、貝類などの海の幸が食べられるようになった。
更に、複数の食材を組み合わせる事で、味覚や栄養のレパートリーも広がっていった。

縄文人の調理法

様々な方法で食材を調理していた

「鍋料理」の原型が縄文時代に誕生

縄文人は肉や魚介、山菜、キノコなどを土器の中に入れて煮炊き料理を作っていた。
焼石を土器の中に入れると、具を早く煮る事が出来た。
また、土器と同時に獣の皮も使用し、一度に沢山の食べ物を煮ていた。
イノシシの皮一枚で約30人分の料理が用意できたという。

「串焼き」もこの時代に誕生

魚や肉は煮るだけでなく、串に刺して焼いて食べたりもしていた。
焼くと味が香ばしくなるほか、保存できるという利点もあった。
他にも、火で熱くなった石の上に食材を置いて焼いたり、フキやホオノハなどの大きな葉に魚を包み、それを穴に埋めて砂を掛けて蒸し焼きにするという調理法もあった。

生で食べられる食材はオヤツの原型

ドングリやトチノミといったアクの強い木の実は、深鉢の土器を用いて木の灰を一緒に入れて煮たり、石皿で磨り潰してから団子状にして食べたりした。
一方でアケビやヤマブドウ、アク抜きの必要がないクリなど、そのまま食べられる手軽な食材も多かった。
自然の中で手に入るそのまま食べられる物は間食とされていただろう。
現在のオヤツに近い感覚だったかも知れない。

縄文人がクッキーを食べていた?

縄文人は、石皿と磨石を使って粉上にしたクリやクルミなどの木の実、シカやイノシシなどのミンチ肉、動物の血や卵、地域によっては蜂蜜やユリ根なども入れて混ぜ合わせ、熱した石の上で焼いて作った「縄文クッキー」を食べていたようだ。
縄文クッキーは長野県富士見町の曽利遺跡でパン状炭化物で発見されたといわれる。

有毒植物の判別には犠牲もあった

ただし、自然の中には食べられないモノもあった。
その為、最初に誰かが口の中に入れて、食べられるかどうか判断していた。
なかには食材に含まれた毒で命を落とした人もいただろう。
そうした試行錯誤や犠牲の繰り返しによって、人々の食生活は向上していった。

収穫物を保存し冬に備える

定住によって「保存」が可能に

旧石器時代の人々は獲物を追い求めて移住を繰り返したので、「冬に備えて食べ物を保存する」という考え方はまだなかった。
しかし、縄文時代になると人々は竪穴住居での定住を開始し、食料を保存する余裕が生まれた。
縄文人は野外での活動が限られ、食べ物が不足する冬に備え、収穫物を大量保存するようになった。

穴を掘って保管した貯蔵穴

ドングリなどの木の実は、土の中にそのまま埋めると芽が出てしまうので、草や土で覆ってなるべく空気に触れないようにしていた。
また、竪穴住居に底が広くて入り口が狭い貯蔵穴を設け、その中にカゴや土器を入れてドングリなどの堅果類を保存した。
アクが強い堅果類は、アクを抜く為に低湿地に作った貯蔵穴にいれて水浸しにした。
一方、アクの少ない堅果類は高地の乾燥帯に作った貯蔵穴に保存した。
やがて食材は掘立柱建物で保存されるようになり、水稲耕作が普及した弥生時代に稲籾が貯蔵された以外は、貯蔵穴は殆ど利用されなくなった。

様々な方法で加工・保存された

他にも、肉や魚は塩漬けや燻製、天日干しなどの手法で保存した。
東日本では秋になると大量の鮭が川を遡上したが、干物や燻製にして保存食として重宝された。

塩の採集によって、更に調理技術が発達

燻製を作るとき、無くてはならない調味料が塩だった。
塩の入手方法は沢山あるが、海水を入れた土器を何日も日向に置き、水分を蒸発させるのが一般的だった。
東日本の太平洋沿岸の遺跡では、製塩に使われたとみられる縄文時代後期末から晩期に掛けての土器が多数出土している。
また、魚を発酵させて作る「ヒシオ」という醤油の原型となったモノがあった可能性が指摘される。

縄文時代の漁労

四方を海に囲まれた日本列島は、海産資源の宝庫だった。
魚介を捕まえる漁労活動も積極的に行われ、様々な漁労具が製作された。
現代でも使われる「釣り道具」は縄文時代がルーツだった。

漁労で用いられた道具

土器が発明されて煮炊きが出来るようになった事で、縄文人は魚や貝を積極的に食べるようになった。
各地の貝塚や遺跡の調査で、ハマグリやアサリ、アワビなど300種以上の貝類をはじめ、スズキやイシダイ、マグロなど約70種の魚類、更にエビ、カニ、ウニなどの殻が出土している。
魚介類以外では海藻類の他、イルカやクジラ、アザラシといった哺乳類も食べていた。

魚の種類によって道具を使い分ける

魚は動きが素早く、素手で捕まえるのは困難だったので、縄文人は釣り針や銛、ヤスなど、様々な漁労具を活用した。
シカの角などで作られた銛は竹や木の柄に差し込み、固定させるのが一般的だった。
だが、アザラシやトド、マグロといった大型海獣を捕獲する時は、先端に網を通した回転式離頭銛を用い、確実に獲物を仕留めていた。

様々な工夫がなされた釣り針・網

シカの骨や角で作った釣り針は縄文時代早期から使われており、大小様々なサイズの物が出土している。
掛かった魚が逃げないように「かえし」を付けた釣り針もあった。
他にも、釣り針用のおもりの石錘や土錘、浮きなどが見付かっている。
また、貝塚の堆積物からは小魚の骨が沢山見付かっているので、網も使っていたとみられる。
ただし、網の実物は殆ど出土していない。

川でも漁が行われていた

地下から湧き出した水は川となって海へ流れるが、川にはヤマメやイワナなどが泳いでいた。
川魚も漁労の対象となり、ハの字形にした垣で魚を追い込む仕掛け「エリ」などを使って魚を捕まえていた。
また、河川沿いの遺跡では平たい小石で作られた石錘や土器の破片で作られた土錘が出土している。
これらは漁網のおもりとして用いたと考えられており、出土した遺跡の周辺で川魚を捕まえる漁が行われた事を伺わせる。

縄文時代、サケが全国の川に沢山いた

河川を流れる魚の中でも特に大きかったのが、秋に川を遡上するサケやマスである。
河川上流で孵化した稚魚が春先に川を下り、外洋を回遊しながら成長し、数年後の秋に故郷の川を遡上する。
今ではほとんど見る事が出来ない光景だが、縄文時代には大量のサケやマスが川面を埋め尽くしていた様だ。
人々は遡上したサケなどを大網などで捕獲し、燻製などの保存食にして越冬食としていた。
サケといえば北方のイメージが強いが、各地の遺跡でサケの骨が発見されている事から、かつては全国の河川でサケが遡上したようだ。

イルカの追い込み漁

縄文時代から行われていたイルカ漁

能登半島の先端から少し内海に入った位置にある石川県能都町の真脇遺跡では、縄文時代前期末葉から中期初頭に掛けての地層から大量のイルカの骨が出土している。
能登地域では古くからイルカの追い込み漁が盛んだったが、縄文時代から継続的に行われていた可能性が高い。
捕獲したイルカは食用になったとみられる。
真脇遺跡は北陸最大級の縄文遺跡で、他の動物の骨や木製品なども出土している。


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