縄文時代の信仰と祭祀

縄文人の信仰

縄文人に恵みと災いをもたらした自然

祭礼は秋に行った

縄文時代の人々は人間の知恵や力が及ぶ領域が限られていた。
その為、縄文人は自然界の万物に対して畏敬の念を抱いていた事だろう。
自然界では木の実や山菜、動物、水など、人間が生きていくために必要な恵みをもたらした。
縄文人はその恵みに感謝し、収穫が行われる秋に祭礼を行ったと考えられる。

自然災害を恐れた縄文人

自然は台風や地震、豪雪など、様々な災いをもたらした。
現代でも災害は脅威であり、縄文人が抱いた恐怖は大変なモノであっただろう。
自然は人の命を繋ぐ存在であり、奪う存在でもあった。
特に縄文人は火山の噴火を恐れた事だろう。
約7300年までには鹿児島県沖の鬼界カルデラで噴火が発生、西日本の縄文文化は一時後退する程の被害を被った。
ただし、火山の近くには黒曜石などの資源もあり、火山が人々に恵みを与えていた事も事実である。

太陽を用いて時間の流れを把握した

電気による証明も無ければ、火を使った照明を発明するまで、人は多くの時間を要した。
唯一の照明だった太陽は、縄文人にとっては何よりも偉大な存在であっただろう。
縄文人は太陽の動きを把握する事で、「一年」を観測するカレンダーとして用いたと考えれている。

縄文時代の祭祀場

縄文人は神々に日頃の恵みを感謝し、祈りを捧げていた。
縄文時代の集落の中央には祭祀場と思われる遺跡が発掘されている。
全国各地にあるストーンサークルは、彼らの「祈りの場所」だった可能性があるのだ。
縄文人たちの祈り・祭祀を探ってみよう。

環状集落の中央で祭祀が行われた

科学が発達していなかった時代、人々は地震や火山の噴火、大雨や嵐、河の氾濫など、人の力の及ばない自然災害を「神の怒り」と考えていただろう。
その為、自然の神々への祈りは特に重要視されてきた。
神々と対話できる呪術に長けた人が尊敬されるようになり、いつしか集落のリーダー格となったとみられる。

集落内に一定の階層があった

また、当時は狩猟や漁労を生業としていたので、狩りなどに長けた人も尊敬の対象となり、集落のまとめ役になったと考えられる。
縄文時代は食料や生活資源を分け合う平等社会だったが、後期〜晩期になると豪華な副葬品を有する死者が現れるようになる。
封建社会のような身分の差はなかったと思われるが、呪術師(シャーマン)などのリーダー格と一般のムラ人との間には一定の階層差はあったと推測される。
弥生時代に入るとその傾向はさらに顕著になり、邪馬台国の女王・卑弥呼のような指導者まで現れた。

集落内の祈りの施設で祭祀を行った

それでは、縄文時代の人々は何処で祈りを捧げていたのか。
大規模集落は中央の広場を囲んで住居群が配置される環状集落の形態を執ったが、この中央の広場で祭祀が行われたとみられている。
集団が共同生活を営むには、こうした「祈りの場所」が必要不可欠だったようだ。

ストーンサークル

秋田県鹿角市の大湯環状列石

大規模集落には貯蔵穴、ゴミ捨て場など生活に役立つ施設が設けられたが、祭祀が行われたとされる遺構も発見されている。
その代表的な存在といえるのが、秋田県鹿角市にある大湯環状列石だ。
石組みの環状列石は北側の野中堂(直系40〜42メートル)と南側の万座(直系45〜46メートル)からなり、内側にもそれぞれ直系15メートル程度のサークルがある。
環状列石の周辺には貯蔵穴や土杭、掘立柱建物などの跡のほか、土器や土偶も出土している。

大型の日時計だった

大湯環状列石には日時計状の組石があり、環状列石の中心部から日時計の中心部を見た方向は、夏至になると太陽が沈む方向になる。
その為、この地で何かしらの祭祀が行われた可能性が高い。

各地のストーンサークル

日本列島のストーンサークルは主に北海道や東北で見付かっており、青森県にある小牧野遺跡の物は細長い石を縦長に並べた独特な石の組み方をしている。
また、秋田県の伊勢堂岱遺跡には4つのストーンサークルがある。
形状は地域によって異なるが、環状列石の築造が全国的な慣習だった事は間違いない。


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