日本の稲作の起源

日本の稲作の起源

日本列島における稲作は北部九州で始まり、そこから約600年かけて本州全域に広まっていった。
高温多湿で水が豊富という水稲栽培に適した土地が多かった為、稲作は日本人の生活の中心となっていった。
日本における稲作の起源を見てみる。

稲は日本に自生しない

米を実らせる稲は、日本列島の自生植物ではない“外来作物”であり、そのため人間によって大陸から運ばれて来て栽培されるようになった。
その稲とは水田で稲栽培を行う水稲耕作に適した「温帯ジャポニカ」を指し、水田の雑草を取り肥料を与えて管理すれば、実りが豊かになる。

稲作は縄文時代中期から

日本列島で稲作が始まったのはいつだったのか?
かつては弥生時代からとされていたが、近年ではより研究が進み、日本の稲作は縄文時代中期ごろには始まっていたと考えられている。
特に北部九州の遺跡から弥生時代よりも古い稲作跡が見付かっている。

灌漑技術は早くから普及

福岡県福岡市の板付遺跡での発掘調査の結果、縄文時代晩期の土器をともなう地層から灌漑水田跡が見付かった。
これによって日本の稲作は弥生時代よりかなり前から稲作が始まっていたと考えられるようになった。
他には、佐賀県唐津市の菜畑遺跡では1980年(昭和55)から始まった発掘調査で、日本最古の水田跡や真っ黒な炭化米、農具、石包丁などが検出されている。
菜畑遺跡で出土した炭化米は250粒ほどで、そのうち100粒以上がジャポニカ種であった。

青森で2200年前の米が出土

青森県弘前市の岩木山麓にある弥生時代の遺跡・清水森西遺跡から、約2200年前の炭化米が出土した。
炭化米の他にも西日本の水稲耕作文化の影響を受けた土器や、縄文時代の影響が残る遺物も見付かっている。
日本においてかなり北方である青森でも、かなり早い段階で水稲が始まっていたという事だ。

科学調査でも約3000年前という結果に

「炭素14年代測定法」を用いて測定された結果でも、稲作が縄文時代晩期(約3000年前)から始まった事が明らかになっている。

縄文時代の遺跡から“稲”が発見

“稲”のプラント・オパール

岡山県総社市の南溝手遺跡で出土した縄文時代後期中葉(約3500年前)の土器片からは稲籾の痕が発見されている。
また、岡山県岡山市の朝寝鼻貝塚からは約6400年前の稲のプラント・オパール(植物細胞に形成される小さな珪酸体)が発見。
同じく岡山市にある彦崎貝塚の約6000年前の地層からも、稲のプラント・オパールが大量に出土している。

“稲”は縄文時代前中期には渡来

“稲”と“稲作”は別物

それらの発見例は、稲が縄文時代の前〜中期には日本列島に上陸していた事を示している。
ただし“稲”だけが大陸から持ち込まれ、“稲作”は後の時代に始まったという可能性も勿論ある。

寒冷化が稲作をもたらした

寒冷期に農耕が始まる傾向

地球の気候は一定ではなく寒冷期と温暖期のサイクルを繰り返しているが、そのサイクルが人々の生活に大きな影響を与えて来た。
例えば一万年以上前の「ヤンガードリアス寒冷期」では、気候の寒冷化によって狩猟・採集による生活ができなくなってしまった為、代わりに農業が始まったと考えられている。
その次の温暖期に日本で狩猟・採集や原始的な農耕が発達、そのまた次の寒冷期(紀元前1500年頃)に狩猟・採集が難しくなり農業生活に移っていった。

中国の動乱が稲作をもたらした?

水稲耕作は、秦の始皇帝の圧政や楚漢の動乱から逃れ日本列島に流入した「渡来系弥生人」によってもたらされた、という見方がある。
寒冷化が中国の動乱を生み出し、それを機会に日本に水稲耕作が伝わり、日本は縄文時代から弥生時代へと移行していった。

稲作の伝播ルート“江南地方説”

稲作の起源、中国・雲南省

稲作が日本列島に伝わったルートは諸説あるが、考古学や植物学などの分野では「中国・江南地方説」が有力視されている。
稲作の起源は現在の中国・雲南省とされるが、そこから朝鮮半島は経由せずに海を渡って来たと考えられている。
また、当時の中国大陸は戦乱の真っただ中だった為、戦乱を避ける為に対馬海流に乗って海を渡ったという説もある。

日本に似ていた?中国・江南

江南地方では日本に似た文化や風習の遺構や遺物が発見されているという。

稲作の伝来ルート

稲作の伝来ルート


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