縄文人の外見

縄文人の特徴

縄文人はカゴも衣類に使う布材ですらも、植物から自力で作り出していた。
彼らが持っていいた編み物技術は現代と遜色がなかったという。
また彼らはとてもオシャレで、耳飾りや首飾り、腕はなど様々なアクセサリー(装飾品)を身に付けていた。
彼らの外見や特徴、服装、日常、暮らしを見てみる。

目次

縄文人と弥生人の身体の違い

縄文時代弥生時代では、日本人の容姿の特徴が異なっていた。
アジア人の殆どは南方アジア人(古モンゴロイド)が北方アジア人(新モンゴロイド)の2系統で、縄文人は古モンゴロイドの特徴を有していたとされる。

屈強だった縄文人

縄文人は弥生人に比べて全体的に頑丈で、筋肉が良く発達して、腕力や脚力にも優れていたという。
出土した人骨を調べたところ、縄文人の平均身長は男性が約158p、女性が約145pだった。
現代人よりも小柄だが、腕と足は割りは長かったようだ。
おそらく狩猟などの身体を酷使する仕事が多く、野山を掛けたり、丸木舟に乗って漁へ出たりしたので、強靭な身体が必要だったのだろう。
食生活が狩猟から植物採集へ移り変わっていくうちに、徐々に生活環境にあわせて身体的特徴も変わっていたのだろう。
勿論、渡来人との混血による影響もあったと思われる。

縄文人と弥生人の顔の違い

両者の顔の特が徴だが、縄文人は顔の幅が広く、下顎で四角形、目は二重、眉毛は濃く、鼻孔が広く、耳たぶは垂れ下がり気味、唇は厚かった。
弥生人は顔が面長で頬骨が出っ張り、下顎が細く、目は一重で捕捉、眉毛は薄く、鼻は低めで長く、耳たぶは小さめ、唇は薄めだった。

縄文人の服装

非常に発達した縄文人の編み物技術

食物繊維であんだ衣服

縄文人が普段着ていたモノは、アサやカラムシ、アカソなどの食物繊維から糸を取って編んだ衣服である。
衣服が全て見付かる事はないが、食物繊維の布切れなどが低湿地遺跡から見付かっている。

夏場の服装

日本列島には太古の時代から四季があるが、縄文人の衣服も季節に応じて変わっていた。
夏場は強い日差しや蚊、ブユといった不快な虫から身を守る為、食物繊維で編んだ衣服を身にまとった。
衣服には脇を閉じたモノがあれば、脇は閉じずに紐のみで縛ったモノもあった。

冬場の服装

寒い時期は熱が奪われるのを防ぐ為、イノシシやシカなどの動物の毛皮を利用した。
また、動物の毛を鞣した革も防寒用として利用したとみられる。
土器や土偶などには様々な文様があしらわれたが、革で作った衣服にもそれらが描かれていた可能性がある。
積雪期には動物の革で作った靴を作り履いていたようだ。
アイヌの人達はサケの皮で靴を作っていたが、縄文時代は本土の広い地域でサケが遡上したので、或いは、縄文人も同じようなサケ皮製の靴を作っていたのかも知れない。

縄文人の編み方・材料

食物繊維は、衣服以外にもカゴ類や袋物で用いられた。
ツル植物やアシとといったイネ科の植物を利用したものの他に、木や竹などを細く割ったヒゴを用いたモノもあった。
編み方には、紐を交互に潜らせながら編む「網代編み(あじろあみ)」、紐を絡ませながら編む「もじり編み」などがあるが、縄文人は網代編みを用いた。

出土した編み物

青森県の三内丸山遺跡では、「縄文ポシェット」と呼ばれる網代編みの植物繊維状の袋が出土している。
また、佐賀県の東名貝塚から見付かった縄文時代早期後半のものとされるほぼ完形な大型袋状のカゴは、縄文時代の編む技術が現代とさほど遜色がない事を示している。
新潟県の青田遺跡からは大型の簾状のモノが出土するなど、様々な編み物類が見付かっている。
縄文人たちが有していた編み物技術は、今現在、解明しつくされていないのだ。

縄文人の装飾品

豊かなアクセサリー文化

日本には、縄文時代から豊かなアクセサリー文化が存在した。
縄文時代の遺跡からは耳飾りや首飾り、腕輪など、多くの装飾品が出土している。
縄文人は様々な装飾品を身に付けていたが、こうしたファッション文化は弥生時代には受け継がれなかった。
アクセサリー類が日本女性の定番アイテムに返り咲いたのは、ここ戦後の事。
縄文人たちのオシャレ感覚は、実に数千後の未来を先読みしていたのだ。

普段用と祭祀用の装飾品があった

縄文人のアクセサリー文化は、縄文時代早期後半から始まった。
普段から身に付けていたモノもあれば、祭祀や儀礼の時だけ身に付けたモノもあったようだ。
耳飾りは普段から付けていたとみられ、耳たぶに穴を開けてはめていた。
耳飾りのサイズは大小様々で、なかには直径9センチ以上のモノもあった。
こうした大きな耳飾りは、成人が身に付けたと考えられる。

儀礼の場での装身具

縄文遺跡から見付かった装身具の素材には、動物の骨や角、貝塚、植物のツル、ヒスイ、コハクなどがある。
男性も身に付けたと考えらえており、実際に装着した状態で出土した例もある。
縄文人が装身具を身に付けた理由には諸説あるが、邪悪なモノが依り憑かないようにする為、或いは自分を高める為に装着していたと考えられている。
装身具には加工に手間が掛かったり、貴重な素材で作ったモノもあるので、なかには呪術師(シャーマン)や集落のリーダーなど、限られた人しか身に付けられなかった装身具もあっただろう。

髪型と髪飾り

髪型についても正確な形は分からないが、女性を模したとされる土偶の頭部には不思議な突起がある。
これは、女性が髪を団子状に結っていた可能性を示している。
また、装身具には漆塗りの櫛(くし)、シカの角で作ったヘアピンのような物もあり、縄文人が髪型にも気を配っていた事が窺える。

化粧や入れ墨も

縄文人は装飾品だけでなく、顔や身体に化粧や入れ墨を施していたという。
祭事などの特別な場では、赤いベンガラなどで化粧を付けた。
入れ墨は皮膚に傷をつけ、そこに墨や白色粘土、朱などを塗り込んで入れたとみられる。
縦横の線や模様の入れ墨を入れる事で、獣から身を守ったり、自分の力を高めたといわれる。
中国の歴史書『魏志倭人伝』には弥生時代の日本人が入れ墨を入れていたという記述があるが、こうした習俗は、縄文時代から受け継がれていたようだ。

死者と共に装身具も埋葬した。

装身具は縄文遺跡の墓地からも出土しており、亡くなった時に副葬品として葬られた可能性もある。
ただし、沢山の鏡や馬具を副葬品として埋葬した古墳時代に比べると、その出土数は少ない。

縄文人の1日

日の出に目覚め、日の入りに寝る

少し火の残った囲炉裏で早朝に目覚める

縄文人たちは、とても規則正しく生活しており、1日は日の出とともに始まっていただろう。竪穴住居の床面は、マット状の敷物が厚く敷かれているので、雑魚寝をしていても、それほど体が痛むということはない。夜の間も、囲炉裏では、オキ程度の火があったと考えられ、寒さにも対応していた筈だ。

朝食でエネルギーを確保

水は毎朝毎日くみに行く

起きて最初に取り掛かるのは食事の用意だ。まず、水を調達する。水は集落近くの泉の水場まで、汲みに行っていただろう。水を素焼きの土器で保存するのは難しく、毎朝、水を汲みに行ったはずだ。木をくりぬいた器や、曲げ物や篭に漆を塗った容器は縄文時代の後期や晩期には存在するが、それほど大きなものではないため、やはり毎回水を水場まで汲みに行ったものと想像される。

朝食はエネルギー源になる物を摂取

食事は、朝と午後ないしは夕方あたりの1日2回程度であったものと考えられる。日本人が1日3食をとるようになったのは、それほど昔のことではない。そして、暗くなったらすぐ就寝するだけである。朝の食事の内容は、推測だと、比較的高カロリーな、ドングリやクリ、トチノミのデンプンを加工したマッシュポテトのような食事と干し魚や干し肉等であったものと推定される。

男女が別々に1日の作業を担当

男女で役割分担が存在

食事の後で、男女がそれぞれの1日の行動に取り掛かる。
男女で性別の分業があった可能性は、狩猟採集民の民族誌学から高いと考えられる。
時間に関して、日時計状組石が発見されてはいるが、縄文人達は時間を細かく分割はしていなかったとみられる。

男は狩と狩のための準備

男たちは、小動物の狩りに出かけたり、罠や陥し穴の確認に出かけたものと考えられる。ときには、隣村等も含めてかな大きな狩猟チームを組織して、シカ猟やイノシシ猟を行ったものと考えられる。猟がないときは、狩猟道具の手入れや新調、あるいは狩猟の練習や、若者への伝習などが行われたものと考えられる。一方、海辺の漁村では、網を使った漁労や、銛を使った大型魚や海獣の狩猟や、釣りなどが行われていたものと考えられる。網漁などは、シカやイノシシ猟を超える大がかりなものでチームワークが要求されるので、事前の話し合いが重要だったのであろう。漁がないときは、網や漁具の手入れなどが行われていたものと考えられる。

女性の働きの方が重要だった

狩猟より採集の方が得られる食料が高カロリー

縄文村の女性たちは、集落の周りで、木の実や根茎類などの採集活動を行っていたものと想像される。実は、狩猟採集民の食料と摂取カロリーの研究からは、女性たちの地道な採集活動によって、集団全体で必要とされるカロリーの4分の3ほどが得られていることが明らかになっている。狩猟や漁猟は、ほとんど貢献していないのである。

土器作りや篭編も女性が担当

海辺の集落では、貝の採取などが、女性によって行われていたと推定される。女性たちは、このほかに土器作りや篭編みなどを行っていたとみられる。特に、縄文時代後期や晩期の小型で精緻な縄文土器は、女性の手によるものの可能性が高い。この他にも毛皮製品や樹皮繊維の加工なども女性が行っていた可能性が高く、縄文村は女性の力で維持されていた。

夜は活動せず就寝

そして、日の入り前に夕食を済ませると、日の入り間もなく就寝した。

薬用植物の知識が豊富だった

頑丈な身体を持っていた縄文人

医療態勢はまだまだ未熟

縄文人の骨には、彼らの生活ぶりが、さまざまな痕跡として残されている。
縄文人の骨格は、現代人に比べ上腕骨や大腿骨が頑丈である。が、当時は、現代のような医療態勢はなかったため、呪術的な治療法に頼ってもいた。

植物を痛み止めに用いていた可能性

しかし、薬用植物の知識は豊富だったと思われるので、それらを利用した治療行為もあったものと想定される。縄文人の出土人骨をみて、まず驚かされるのは、歯の摩耗である。とくに奥歯の摩耗がはなはだしい事例が多く、かなりの痛みがあったものと考えられる。

医療が支え合いの社会を育む

老人の骨折を治療した形跡

また、事例はそれほど多いわけではないが、骨折の治癒痕跡が見られるものもある。特に、富山県の小竹貝塚では、老齢の男性で、大腿骨骨折の治癒痕跡がある。老人になると、転倒等によって骨折が生じる場合が多い。特に体を支える大腿骨の骨折は重傷で、歩行が困難になる場合が多い。小竹貝塚で発掘された人骨は、大腿骨に治癒痕跡がみられ、長期間の療養の成果といえる。今から6000年前の縄文時代前期の社会を想定してみると、ケガをした老人が取り残されずに、長期間の療養ができるような安定的な生活が存在したと考えられるのである。

他者を見捨てない社会を形成していた

同じように、北海道の入江貝塚で発掘された、縄文時代後期の男性人骨は、ポリオないしは筋ジストロフィーによって、肢体不自由のまま長期間生存した状況が、明確に残されている。
このように、縄文時代は狩猟採集社会でありながら、骨折した老人や、肢体不自由な若者も、見捨てられることなく長く生活できた社会であったのである。


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