和菓子の歴史

和菓子の歴史

日本人にとって和菓子は日常生活に溶け込んだ存在である。
お茶請け、葬式饅頭、雛祭りの「あこや」や菱餅、端午の節句の粽や柏餅など、日頃の儀礼から年中行事まで和菓子が必要とされる。
かつて行われていた嘉定(かじょう)という儀式では、和菓子が主役というほどである。

江戸の菓子屋の数

和菓子を作る菓子屋の数も非常に多く、それは現代だけではなく江戸時代には既に同様だった。
1824年(文政7年)に出版された『江戸買物独案内』には、江戸市中の有名な商人たち2622軒が掲載されており、そのうち食べ物関係は601軒、菓子屋は120軒を数え、食品を扱う商人の中で最も菓子屋が多かった。
1886年(明治19年)の東京府区部の食品小売店数の統計によると、菓子屋は4921軒もあった(米屋は1954軒)という。

「和菓子」という言葉は新しい

「和菓子」という言葉はそれほど古いモノではない。
元々は「和菓子」ではなく単に「菓子」と呼ばれていた
江戸時代後期の開国後、外国との交易が始まった後、「和服と洋服」「和食と洋食」という風に和と洋を区別する習慣が生まれたため呼び方が変わったのだ。
はじめは和菓子は「日本菓子」「本邦菓子」などとも呼ばれていたようだ。
和菓子という言葉が定着したのはかなり近代で、国語辞典に載るようになったのは戦後の事である。

菓子は果子(果物)だった

『古事記』『日本書紀』には「10年の探索の末に非時具香菓(橘の実とされる)を持ち帰った」と記されており、これが「果子(果物)」、つまり菓子の最初とされる。
菓子の「菓」の古い形は「果」で木の上にある形を描いており、さらに草冠を付け、種子や果実の意味がある「子」を付けて「菓子」となったという。(古くは菓子を「くだもの」とも読んでいた)
『延喜式』という書物には、927年に「諸国貢進菓子」として全国から朝廷へ納められた菓子が記されているが、そこには木の実・草の実などの多くの「果子(果物)」が記されている。

菓子も時代によって変化

菓子の内容は時代によっても一様ではなく、味も甘味だけでなく塩味のモノもある。
ただし、原材料は米や小麦、小豆をはじめ植物性の食材を使う事が原則である。

和菓子の成立ち

菓子の成立ちだが、大きく分けると段階分けすると「果実や木の実」「餅や団子」「唐菓子」「点心」「南蛮菓子」と分ける事ができ、この段階を経て17世紀後半の京都で和菓子は一応の完成をみる。

果実や木の実

最も古い菓子の原型で、かつては単に菓子と言えば果物や木の実を指していた。
その名残が果物を指していう「水菓子」という言葉である。

餅や団子

米や麦、あるいは稗や粟などの穀物を材料として、人の手を加えた餅や団子は、加工食品としての菓子の原型でもある。
現在でも餅や団子は和菓子の基本である。
初めは生のまま食べていたが、次第に保存のため乾燥させたり、あるいは丸めて団子状にしたりと加工をするようになった。

唐菓子

奈良時代に仏教とともに中国から日本に伝えられた穀粉製の菓子で、唐果子8種と果餅14種の唐菓子がもたらされた。
在来のなど単純な穀物の加工品に比べ味、形、加工方法など優れたものがあり、また、油で揚げて作るものもあり、宮中や貴族社会から次第に一般へも普及していった。
こうして、中国大陸との交流を始めたことにより和菓子の原型は整えられてく。
これらの菓子は祭神用として尊ばれ、現在でも熱田神宮や春日大社、八坂神社などの神餞としてその形を残している。
754年には鑑真によって砂糖や蜂蜜が、806年には空海によって煎餅の製法が伝えられた。

点心

鎌倉・室町時代に中国に留学した僧によって喫茶の風習とともに日本に伝えられた。
点心のうちの甘味類は茶人によって菓子として類別されるようになり、現在の羊羹や饅頭のもとになっている。
饅頭はもとは中国のモノに倣って羊豚の肉が餡として使われていたが、これが次第に豆類餡に変化していった。
羊羹も元は羊の肉が使われていたが、饅頭と同様に材料が小豆へと変わっていった。

南蛮菓子

室町時代末期から江戸時代初期にかけてポルトガル・スペイン・オランダなどから伝わった菓子。
南蛮菓子の影響を受けて、日本でも砂糖を大量に使うカステラ・金平糖・ボーロ・有平糖が作られるようになった。

開国後

開国とともに西洋の文化が流入、チョコレートやビスケット、ケーキ、キャンディーといった洋菓子が日本に次々と導入されていった。
あんパン、クリーム入りの饅頭といった和洋折衷の菓子も生まれる。

大昔の和菓子

縄文時代

縄文クッキー

縄文クッキーとは、縄文時代の遺跡などから出土した当時の食べ物で、栗の実などの堅果類のデンプンの粉を固めて焼き上げたものである。
調理法そのものは後の菓子の製法には直接は結び付かないが、加工食品であった事は間違いなく、古代のお菓子として紹介される事が多い。

平安時代

青ざし

青ざしは『枕草子』に記される平安時代に出来た菓子。
煎った青い麦を臼で挽いてよった糸のようにした食べ物で、もっとも古い国産の菓子の一つ。
青ざしはもとは公家など高貴な人々の食べ物であったが、江戸時代には庶民も口にしていた。

椿餅

椿餅は『源氏物語』に記される平安時代の菓子。
椿の実ほどの大きさの餅に、甘葛煎で味を付けた餡のなかった菓子。
椿の葉で包んでいたとも云われる。

粉熟(ふずく)

粉熟(ふずく)は唐菓子の一種で『延喜式』に記された菓子。
稲・麦・大豆・小豆・胡麻などの粉をこね、くり抜いた竹筒に入れて突き出し、碁石状にしたモノに甘葛煎で甘味を付けたとされる。
この竹筒は、文献上から確認できる最古の菓子型ともいえる。
色は青・黄・赤・白・黒の五色で、米や小豆と胡麻などは素材そのものの色を使い、他は母子草やクチナシなど他の植物を利用していた。


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