蕎麦

蕎麦の歴史

日本における蕎麦の歴史とても長く、実に約9000年前から食べられていた事が分かっている。
高知県内の遺跡からは9300年前の蕎麦の花粉が出土しており、埼玉県内の遺跡からは3000年前の蕎麦の種子が発見されている。
稲作が日本に入って来たのが縄文時代の後期(約2800年前)とされるが、蕎麦はそれよりも早くから食べられていた事になる。
ただし、稲作のように栽培されていた訳ではなく、あくまで採集の延長であったと思われる。
また、初期の蕎麦は、現在のような麺状ではなく、団子の様な形をしていた。
麺の蕎麦が誕生したのは室町時代である。

何故、蕎麦は主食になれなかったのか?

蕎麦の硬い殻に原因があったようだ。
米のもみ殻は取りやすいのに対し、蕎麦の殻は硬く、脱穀が大変だった。
石で叩き、粉にしてからようやく食べる事が出来る。
そのため、蕎麦は凶作に備えた備蓄食品として栽培されていた。
米のように人々の生活を支える主食としての栽培価値はなかった。

奈良時代 蕎麦は麦の一種とされていた

平安時代に記された『類聚三代格』には養老7年8月28日(723年10月1日)と承和6年7月21日(839年9月2日)付けの蕎麦栽培の奨励を命じた2通の太政官符を掲載している。
当時は「曾波牟岐(蕎麦・そばむぎ)」と呼ばれていた。
ただし、蕎麦が積極的に栽培されていた訳ではない。
平安時代中期に作られた辞書である『和名類聚抄』では、蕎麦(そばむぎ)を麦の一種として紹介している。

平安時代 蕎麦は食物として認知されず

平安時代、上流階層である貴族や僧侶らは「蕎麦が食べ物である」という認識はまだなかった。
その根拠として挙げられるのが、『古今著聞集』だ。
平安中期の僧・歌人である道命(藤原道長の甥)が、山の住人より蕎麦を振舞われた際に、「食膳にも据えかねる料理が出された」として驚いた逸話を記されている。
この時代においても、蕎麦は農民が飢饉などに備えてわずかに栽培する程度の雑穀だったようだ。

鎌倉時代 団子や餅の様な蕎麦が誕生

鎌倉時代に入り中国から石臼(いしうす)が伝った事で、蕎麦粉の大量生産が容易になり「蕎麦掻き」や「そば焼き餅」が広がっていく。
この頃の蕎麦は細長い麺状ではなく、団子や餅のような形状で食べられていた。

室町時代 麺としての蕎麦が誕生

室町時代に入ると、麺状の蕎麦が登場した(ただし、文献には残っていない)。
麺状の蕎麦は、旧来の「蕎麦掻き」と区別する為、「蕎麦切り」と呼ばれていた。
その名残として、現在でも「蕎麦切り」の名称が残っている地域があるのだ。
なお、『蕎麦』の二文字で「そば」と読むようになったのも、この時代である(拾芥抄)。

江戸時代 日本を代表する食べ物に

江戸時代、蕎麦は江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着していった。
初期には、寺院などで「寺方蕎麦」として蕎麦切りが作られ、茶席などで提供された。
1643年(寛永20年)日本で最初の料理本である「料理物語」には、饂飩、切麦などと並んで蕎麦切りの作り方が掲載されている。
当時の蕎麦は今のようにお湯で茹でるのではなく蒸籠で蒸していた。
蕎麦粉100%で作られており、茹で辛かったようだ。
つなぎに小麦粉を使うようになってからはお湯で茹でる料理法が主流になった。

蕎麦全書

1751年(寛延4年)にはそばの製法から蕎麦屋の様子まで記した「蕎麦全書」が刊行される。
蕎麦屋はもちろん、江戸中のあちこちに蕎麦の屋台も出ていた。
なお、醤油が一般的に出回るようになるまでは蕎麦ツユは味噌から作られていた。

将軍へ献上された蕎麦

諸大名から将軍家に献上された品などが記された武鑑のうち『大成武鑑』が残っている。 大成武鑑によると「時献上」という季節の節目には、将軍家へ9家の大名から蕎麦が献上された記録がある。
蕎麦は大名へ献上される程の高価な食べ物となった。

結局、蕎麦は主食になれたのか?

蕎麦のたんぱく質は、タンパク質の栄養価の指数であるアミノ酸スコアで92である。
同じ数字において、うどんは41、米(白米)が65、牛乳(生乳)が100。
蕎麦が92ということは、タンパク質に関しては白米より蕎麦の方が栄養価が高い事になる。
数字の上では、もしかしたら蕎麦も主食になれたかも知れない。
なお、この数字は蕎麦のみの数値であり、現在流通している、小麦粉入りの蕎麦ではない。


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