神社

神社の起源と発展の変遷

神社の歴史は太古に始まり、神社の歴史は日本の歴史と極めて密接である。
神社の起源、神社が現在の形になるまで発展の変遷をみてみよう。

仮説の祭祀場から常設の神社へ

古代の神社は“文字”による記録が残っていない

神社がどのように誕生したのか、実は良く分かっていない。
その原型は日本で文字が使われる以前にまで遡るため、史料の残っておらず分からないのだ。

自然の“モノ”に神が宿る

日本の神社・神道は自然崇拝(アニミズム)が中心となっており、古代の人々は目に見えない神が山や滝、樹木、巨石などの依り代に依り憑くと考えた。
古い神社では磐座(いわくら)と呼ばれる神が依り憑く石が残っている。

簡易な祭祀場“神籬”

元々は自然界(人が住む人界はとは異なる地→神界)にあるそのような依り代の周囲に簡易な祭祀場を設けて祭事を行い、祭事後にはその設備を持ち帰っていたようだ。
古くはそのように設けた神域の事を神籬(ひもろぎ)と呼ぶ。
いわば仮設の神社(祭祀場)である。
現在でも神を迎える神籬として、家を建てる際の地鎮祭などで見る事が出来る。

祖先崇拝

自然崇拝とともに神道における重要な要素が祖先崇拝である。
神典には神々から人々の時代への変遷が記されているように、祖先を敬う精神が随所にみられる。
実は祖先崇拝は東アジアや南洋諸島などにしかみられず、世界的には希少な信仰といえる。

屋内に氏神を祀る“同床共殿”

人々の生活基盤が安定し有力者は居館に氏神を祀るようになった。
それまで神を祀る場所(自然界・屋外)と人が生活する場所(人里・屋内)は明確に分けられていたが、神と人間の空間が合わさったのである。
これを同床共殿(どうしょうきょうでん)という。

古墳祭祀

更に大和王権が誕生した4世紀頃になると、神界ではない人里の屋外に巨大な古墳が多く築造されるようになり、故人を埋葬する古墳祭祀が行われるようになった。
五世紀頃になると現在の神社にもある一部の祭祀道具が使われるようになった。

アマテラスを祀る伊勢神宮より、現在の神社の形に

古墳の築造が終わりを迎える7世紀初め、伊勢神宮の式年遷宮が始まる。
古墳ではなく社殿を建立して神を祀るようになったのだ。
神界・屋外の臨時の祭祀場→人界・屋内の同床共殿→人界・屋外の古墳祭祀→常設の社殿を持つ神社、と変化していき、現在の神社の形になったのだ。

祭祀場形態の変遷

祭祀場形態の変遷

神仏習合と勧請による分社

律令制度の確立より、朝廷が神社を管理する時代へ

8世紀初めには『古事記』と『日本書紀』の二つの歴史書が編纂され、日本神話が体系化されていった。
また律令制度が確立し、主要神社を国が管理する神祇制度(じんぎせいど)が生まれる。
さらに905年に成立した『延喜式』により神祇官や地方行政官である国司などによって祭祀が行われるようになった。
そして全国で2861社の神社(3132座の神々)が選定され、序列化された。

神と仏を同一視し、神の偶像化が始まる

社殿祭祀への移行は6世紀の仏教伝来も影響している。
明確な教えや煌びやかな仏像・寺院の影響は大きく、それまで祀っていた日本の神々と仏教との信仰の整合性が議論された。
やがて、両者は同じ神(仏)であり、姿を変えて現れたという、神仏を同一視する考え方が生まれる。
こうして8世紀頃からこの神仏習合の考え方が広まり、仏像と同様に神像、神を描いた曼荼羅(まんだら)などが創られるようになった。
神が仏によって救われるようにと、神前読経が行われたり、神社の中に寺院(神宮寺)が建立されたりする。
そして、八幡神のように、朝廷から「大菩薩」号を送られ、仏になる神も出てきた。
平安時代になると、神は仏が人々を救うために別の姿で現れたものとする本地垂迹説(逆の反本地垂迹説もある)が生まれた。
以降、明治時代に至るまで神官が寺を管理したり、僧侶が神社で読経するなど、千年以上神仏習合の時代が続く。

アマテラスを大日如来、イチキシマヒメを弁財天

神仏習合では、アマテラスを大日如来、イチキシマヒメを弁財天といったように、同一となる仏様がそれぞれの神様に当てられた。
以降、明治時代に至るまで、神官が寺を管理したり、僧侶が神社で読経したりするなど、神仏習合の時代が続く。
ちなみに神田明神や根津権現など、神社の通称として現在も「明神」や「権現」が使われるが、これらは神仏習合の時代の神様の尊称である。

「客人神」外来の神様

神道には「客人神」という神様いる。
客人神とは外来の神様のことであり、排斥されることなく神様として祀られた。
もともと八百万の神々の信仰がある日本では、新たな神様を受け入れる精神的土壌があったといえる。

キリスト教とも習合した

こうした他宗教との習合は神道と仏教に限らない。
キリスト教が日本に伝来し、やがて江戸時代に禁止されると、隠れキリシタンなどによって聖母マリアを観音としたマリア観音がつくられるようになったが、これも日本の習合の文化が下地となって生まれたものといえる。

何故、神社が全国各地に創建されたのか?

武将や商人が自らの土地に「勧請」して氏神を祀る

何故これ程までに神社が各地に創建されたのか?
ある神社から分霊をして他の地に祀る事を「勧請(かんじょう)」といい、この勧請によって神社が増加していく。
神道は祖先崇拝をベースの一つとするが、氏族が各地へと広がる中で、新天地で自らの氏神を祀るようになったのだ。
更に武士の世の中になると武将が、経済が発展すると商人が邸内に個人的な神社を勧請するようになったのだ。

稲荷神社や八幡社が全国に勧請

例えば、全国で最も多い稲荷神社は稲作や商売の神、八幡社は武士の守護神として全国に勧請された。
今日でも大企業ではビルの屋上や敷地内に神社を持っている場合がある。

明治初期、約200人に対して一社の神社

こうして全国に創建された神社の数は、明治時代初期で20万社とも云われる。
明治時代初期の日本の人口は約3500万人だったので、およそ200人に対して一社の神社があった事になる。

明治維新による神社の変化

神仏分離令と一村一社制度

1867年に明治政府が発足すると、新政府は神社を活用した国家造りを進める。
新政府は神仏判然令(神仏分離令)を出し、寺社は約1000年ぶりに明確に分けられるようになる。
そして、古代の社格制度に倣って新たに神社管理の制度を整えた。
神社を地方コミュニティの中心と位置付ける一村一社制度が導入され、統合・合祀されるようになる。
こうして20万社あった神社は半減する事となった。

敗戦による神社の変化

国家と神社を分断した政教分離

この神社の行政管理体制は、昭和20年の敗戦によって一変する。
連合国軍総司令部(GHQ)は、昭和20年の進駐後ほどなく、「神道指令」を発し、国家による神社祭祀の禁止と、政教分離を強力に進めた。
こうして全ての神社が宗教法人となり現在に至っている。
神社は外来文化や国家方針などによって大きな転換期を幾度となく迎えながら、自然崇拝と祖先崇拝というベースを残しつつ柔軟に形を変え、今日に至っている。


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