日本の人口は長期的には増加を重ね、近代以降は急成長を遂げる。
しかし、人口は決して単調に増加した訳ではなく、気候の変動、文明の発展、エネルギーシステムの転換、そして将来への精神的な抑圧などが複合的に関連し、停滞や減少を繰り返している。
これまでの人口変動の推移の「波」を見れば、近未来の人口減少の様子が窺える。
人口分布の中心の位置、つまり日本を大きなシーソーと考えて一点で支えた場合、日本を平衝に保てる「重心(へそ)」がどこかを示したものが「人口重心」。
変遷を見ると、縄文時代は東日本にあったものの、水田稲作が始まった弥生時代以降は西日本に移動する。
明治以降は、北海道への移民や首都圏への人口集中により、東南方向に移動している。
縄文時代早期に2万人前後しかいなかった日本(北海道・沖縄を除く)の人口は、温暖期に入ってナッツ類が豊富に実るようになると順調に増え始める。
中期(4500年程前)には26万1千となったとみられる。
ところが寒冷期が始まると、その後の2千年の中で7万6千人ほどにまで減少する。
中でも総人口の96%が集中していたとされる東日本では寒冷化の影響を強く受け、人口崩壊に繋がったと考えられている。
一方、西日本は東日本の様な増減がほとんどないまま、人口は低く推移した。
総人口:26万人1千人
稲作技術が渡来し食料供給が安定した事で、弥生時代の人口は約60万人にまで回復した。
その後も増加を続け、1千年後の平安次代末期には10倍の600万人に達する。
人口分布は、縄文時代から激変し、西日本の比重が高まった。
水田稲作の導入が西日本(北部九州)から始まった事が大きいと考えられる。
また、人口増加の要因には渡来人の数も考慮すべきだとの見方もある。
その後、致死率の高い伝染病の流行や飢饉の頻発、大規模な耕地開発が行われなくなった事等により人口は停滞、さらには減少期に突入する。
伝染病は、パンデミック(複数地域での大規模流行)として猛威を振るうと、短期間で人口が激減する要因となる。
しかし、期間を経るうちにパンデミックからエピデミック(範囲や患者数の規模が拡大した流行)へ、さらにエンデミック(定期的・常在的な地域流行)へと、被害が小さくなる傾向がある。
一方、人の移動や交流に伴い、新しい伝染病が登場したり、発生する病因が変化したりもする。
総人口:59万5千人
総人口:644万人
人口が700万人から600万人に減少した減退期。
戦乱(源頼朝の挙兵)や飢饉(養和、寛喜、正嘉の飢饉など)により死亡率が上昇した為と考えられる。
室町時代に入ると人口増加に転じ、1450年までに人口は1千万人の大台に乗ったと推計される。
牛馬耕の発達と二毛作の普及による、生産高の上昇及び、食料供給の安定が大きい。
市場経済の発達によって労働力を増やす必要性があった事も重要。
応仁の乱以降、各地で戦乱と飢饉が頻発する。
さらに南蛮貿易によってヨーロッパからもたらされた新しい伝染病の梅毒が広がった。
にも拘わらず人口は増加していく。
室町時代から続く、市場経済の拡大が要因と考えられる。
市場経済の浸透で貨幣流通が農民にまで及ぶと、農業では家族を中心とした、小規模ながら労働集約的で土地生産性の高い小農経営が定着する。
家族内の労働力を増やす為、人口は急激に伸びていく。
江戸時代直前の安土桃山時代には1200万人だった人口は「爆発」し、1世紀後には3100万人超となった。
ところが、その後1世紀以上、人口は停滞する。
18世紀は、世界的に「小氷期」と呼ばれる寒冷気候であり、日本も冷害による飢饉が相次いだ為である。
さらには浅間山の噴火、疫病の流行などで、東日本は人口減少を余儀なくされる。
また、当時のいわゆる「鎖国」下の経済システムでは、「3200万人前後」が、許容できる最大人口だったとも考えられる。
人口が停滞した18世紀半ば、晩婚化と少子化が、どの地域でも共通して起きていた。
これは、糸紡ぎなどの家内工業の労働力として、若い女性が求められるようになった為である。
そのため初婚年齢が上がり、出産回数が減った。
また、様々な手段で出生抑制も行われた。
因みに、都市へ出稼ぎ奉公に行った若者は、帰郷も結婚もしないまま、都市で亡くなる場合が多かった。
1671〜1700年 | 1851〜1870年 | |
---|---|---|
男性初婚年齢 | 26.0歳 | 28.0歳 |
女性初婚年齢 | 18.8歳 | 21.7歳 |
完結出生数 | 6.44人 | 3.79人(1801〜25年) |
総人口:1227万人
総人口:3075万人
寒冷気候の終了、新田開発、農村部の産業化、インフレによる経済の活性化などにより、人口は再び増加を始める。
さらに、開国によって外国から技術、食料、エネルギーが調達できるようになり、社会は本格的な工業社会に突入する。
明治時代末期には人口は約5千万となった。
出生数と死亡数は、明治期は多産多死だったが、大正時代末期には出生率、死亡率が共に下がり始める。
その後、戦時期から戦後に掛けて激しい変動はあったものの、人口は経済成長に合わせて、概ね年率1%の割合で増加を続ける。
そして、1967年に1億人を突破。
しかし、2004年をピークに人口は減少に転じる。
現在の低出生率のままでは、約100年後の2110年には人口が4300万人(2012年推計)を切り、明治中期に戻ると推測される。
総人口:4654万人
総人口:1億2777万人
急激な人口増加を危惧した福沢諭吉は、1896年1月3日付の「時事日報」に「人口の増殖」を寄稿した。
日本の版図には限界があり、このままでは“繁殖停止”も避けられないと説いた。
翌日も「人民の移植」を寄稿し、人口問題の解決策として海外移民(主に台湾)を推奨した。
大正〜昭和戦前における海外進出の主張は、過剰人口の解決策として大いに用いられた。
伝染病や戦争、気候変動による飢饉、災害は、人口減を招く要因として知られるが、人間の心理もかなり作用しているようだ。
例えば平安期に人口が減少した時期は、世を儚む末法思想が蔓延し、子孫を増やす事に歯止めが掛かったという見方がある。
これは現在にも当てはまっており、エネルギーや食料、賃金や雇用などの問題が山積みとなった社会の閉鎖感が、人口を抑制していると考えれる。
1973年のオイルショックでは、日本国内では大衆の大混乱を招いた。
この時、日本国内ではトイレットペーパーが大量に買い漁られるという現象が起きている。
エネルギー問題や経済のマイナス成長は社会に大きな波紋を呼ぶ。
1975年以降、日本では持続的に出生率が低下していく。