農民の名字

江戸時代以前から農民に名字があった

日本では江戸時代には農民に名字があった。
明治時代に名字の多くが出来た」というのは誤りで、武士以外の人達にも「小川」「増田」「田中」など、現代にも馴染み深い名字が存在していた。

下級武士と農民の境は曖昧

先に記したように、江戸時代より前の農民たちも既に名字を持っていた。
ただし、一概に農民とはいっても、様々な階層に分れていた。

関ヶ原合戦の後、農民になる武士が増える

各地域の農民の上に立って取りまとめていた階級が「庄屋」や「名主」と呼ばれ、これらの人々には“もとは武士”という人が多くいた。
1600年の関ヶ原の戦いを境に、西軍に付いて敗走した武士の多くが武士である事を捨てざるを得なくなり、農民として暮らすようになった。
また、関ヶ原で勝利した東軍の人達も全員が武士であり続けたわけではない。
合戦後、東軍の大名は、総大将の徳川家康よりそれぞれに恩賞として領地を与えられて各地へ移住していったが、大名に付いて行かずに、地元に留まって農民として生きる道を選んだ人々も多くいたようだ。

戦国時代、下級武士は農民も兼任

戦国時代は江戸時代の様に、武士と農民とで職業がはっきり分かれていたわけではなかった。
下級武士の多くは、普段は農業にも従事しており、「いざ戦の際には武士として戦う」という風に武士と農民と両方の顔を持っていた。
そして、そういった人たちの多くが、関ヶ原合戦の後は武士としてではなく農民として暮らす事になった。
(江戸幕府的には、敗残兵が決起を起こすくらいなら、農民として暮らしてくれた方が安心でもあった)

もと武士の農民には名字があった

武器も所有し、治安維持に貢献

「もと武士」だった農民たちは当然、名字を持っていた。
大名によっては農民たちには名字だけではなく、刀などの武器を所持する事も許可していた。
それによって地域の秩序・治安が守りやすくなったからである。

一般の農民も名字を持っていた

もと武士の有力農民だけが名字を持っていたわけではなく、もっと身分の低い一般の農民でも名字を持っていた。
東京都小平市小川町にある小川寺の梵鐘には江戸時代の農民たちの名字がハッキリと刻まれているのだ。(梵鐘を寄進したのが農民たちであったため)
そこに記されている名字は現代でもよく目にする馴染み深い名字ばかりである。

小川寺の梵鐘に刻まれる農民の名字

小川・武松・浅見・増田・藤野・平沢・川久保・中里・宮寺・若林・宮崎・野村・久下・吉沢・富田・立川・比留間・清水・加藤・向坂・田中・内山・高木・関口・青木・師岡・原嶋・金子・竹内・尾崎

公的に名字を名乗れたわけではない

なぜ農民たちが名字を持っていなかったかとの誤解を生むのかであるが、公文書として残っている資料(史料)には農民の名字が書かれていない事が挙げられる。
あくまで農民たちが任意で名字を名乗っていたという話であり、幕府ら正式な武士たちがそれを認めていたわけではなかったようだ。
一般人が名字を名乗る事が公的にも認められるようになるのは明治維新後の話である。


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