日本の農業(農耕)

日本の農業の歴史

人は食べ物なしでは生きられないが、紀元前まで遡る日本列島の農耕は、国家の体制や政策に翻弄され続けた。
一方で農民は、農耕の苦楽と共にたくましく生き、技術の進歩や農地の開拓などで収穫量を増やし続けた。
私たちの自然観の形成と共に、列島の風景や固有の文化までをも育んできた農業の移り変わりを振り返る。

縄文後期〜弥生・古墳時代

採集から栽培へ

栽培(農耕)の起源は、雑穀や根菜類採取の為に雑草を取り除き移植した事にあるとされる。
縄文時代後期に九州北部で始まった稲作は、弥生時代前期の後半には東北まで伝播したと推察される。

この時代の栽培植物

弥生人はソバ、麦、マメ類、ヒョウタン、スイカ、マクワウリ、繊維を得るためのコウゾ、カラムシなどを栽培した。

水田跡が見つかった遺跡

福岡県の板付遺跡から縄文後期〜弥生時代の稲作を裏付ける土器が出土した。
畦の跡から、一区画が400平方メートルの水田の存在も判明した。
佐賀県の菜畑遺跡からも、水路、堰、畦畔が見つかっている。

原初の農具

木製の鍬や鋤が最初の農具の始まりだった。
刃幅の狭い狭鍬(打ち鍬)と、多量の土を引き寄せる幅の広い広鍬を使い分けた。
弥生初期は籾の直播き(じかまき)が主流で、後期に苗を植え付ける田植えが始まったといわれる。
収穫は、石包丁で穂の部分を刈り取った。

飛鳥・奈良時代

律令制と土地利用

律令体制の下、公民を戸籍と計帳に登録し耕地をあてがう「公地公民制」が始まる。
古墳時代に始まった牛馬による畜力耕は、西日本では牛耕、東日本で馬耕が多かった。

この時代の栽培植物

アワ、ヒエ、ニラ、フキ、ウリ、イモなど。

公地公民制から私有制へ

班田収授法が施行

6歳以上の男子に2段(約1983平方メートル)、女子にその3分の2の口分田を支給する班田収授法が始まる。
農民は租(そ:田に対する課税)、庸(よう)、調(ちょう:人頭税として産物を納める)、公的な労役(雑徭、仕丁、兵士など)を課せられた。

開墾奨励と三世一身法

722年の100万町歩(9917平方メートル)開墾計画の下、約600万人と推定される人々に動物や食料を支給して開墾させた。
(これらの数値はほぼ実現不可能であり、ただのスローガンであるともされている)
開田した者には3代にわたる所有を認める三世一身法を施行(723年)。

墾田永年私財法

743年、開墾者の身分によって墾田面積を制限。
実際に大規模な開墾を行ったのは地方豪族、中央貴族、大寺院などで荘園の起源となった。
農民は現物税や労働手段の負担に苦しみ、口分田を手放し、荘園に吸収されていく。

平安時代

荘園増加

平安時代10世紀以降、荘園が増加。
11世紀には不輸租権・不入権を持った一円領域型の荘園が現れ、何度も荘園整理令が出された。
大寺社や貴族たちは徐々に財政基盤を国家財源から荘園に求めるようになり、上級貴族や大寺社に荘園が集積された。

鉄器と畜力の利用

鉄を用いた農具が地方にも普及し、牛馬利用の農作業も一般化した。
根元近くで稲を刈る根切収穫が普及。
刈った草やその灰、牛馬のフン(厩肥)などの施肥も広まった。
平安時代前期には冬作の麦、夏作の大豆を中心とした畑作も展開し、平安後期に一部で二毛作も始まった。

二毛作と品種の増加

畿内など列島の南西部で、稲の収穫後に麦を裏作とする二毛作が始まる。
早稲、中稲、晩稲など品種も増えた。
用水路の規格化や水車の利用も広まった。
脱穀には、こき箸が用いられ、カカシなど鳥獣害防除も工夫された。

田楽

田植えの神事として編木(びんざさら)や太鼓に合わせて踊った「田楽」は、平安時代に遊芸化されて都で流行した。
能楽に通じる民族芸能として、各地に伝わる。

大山寺縁起絵巻(模本)

大山寺縁起絵巻(模本)
東京大学史料編纂書蔵

鎌倉時代

組織化される農村

鎌倉時代、鎌倉幕府は諸国に守護、荘園や公領に地頭を置いた。
武士は戦時以外は荘園で年貢の徴収などを担い、武芸を磨いた。
荘園は、名田の経営と納税を請け負った名主とその下の小百姓、名主に隷属した下人などが耕作した。
荘園支配を巡って次第に地頭と荘園領主の対立が激化し、荘園を二分支配する下地中分なども行われた。

逃散、逃亡が相次ぐ

組織化された農民は、年貢の減免などの要求も共同で行った。
「百姓申状」を提出するなど幕府に訴えたほか、一時的に集団で姿を消す「逃散」も、期間を前提に認められていた。
一方、永久に立ち去る「逃亡」は処罰された。

室町時代

大名の支配と村の自治

室町時代の荘園は14世紀以降、大名や地方武士の横領、農民の要求で衰退した。
大名は、領主や名主に支配地の面積や収穫量を申告させ、貨幣に換算して「貫高」という単位で年貢を統一した。
室町時代は冷涼多雨な気候で、たびたび洪水や大風に見舞われた。

戦国時代

戦国大名のよる大規模な開墾

戦国時代に入ると各地大名同士の勢力争いが激化、大名らは他大名との領土争いに勝利する為、自国の国力増強が求められていた。
その為、この時代には全国各地で土地開発が積極的に行われた。
武田信玄による甲府盆地の信玄堤豊臣秀吉による木曽川や淀川の改修など、大名による同地開発が行われた。
築城や鉱山開発で土木工事の技術革新が進み、大掛かりな用水路の掘削なども可能となり耕地面積が拡大した。

信玄堤

現在の信玄堤

農民の自治組織

戦乱期、農民は自力で村を守る「惣村」を形成する。
年貢納入、耕地や灌漑施設の補修作業などを共同で行い、入会地を管理。
神社の境内などで「寄合」を開いた。

安土桃山時代

石高制と兵農分離

安土桃山時代、豊臣秀吉の太閤検地で石高制が成立する。
村に耕作権を保証した代わりに年貢の負担を村の連帯責任とした。
1591年には身分統制令を発布。
年貢は原則、地行主へ3分の2、農民に3分の1という思い負担だった。
>> 秀吉の政策

検地絵図(松本市立博物館蔵)

検地絵図(松本市立博物館蔵)
面積を測り土地の生産高で田畑の等級と年貢高を決める検地

江戸時代前期

幕藩体制と飢饉

江戸時代「士農工商」の身分制度の下、農民人口は約75%を占めた(19世紀中頃の秋田藩)。
農民は、耕作権をもち年貢を負担した本百姓、本百姓の田畑を小作する水呑百姓に大別された。
村では名主(庄屋)を長として、補佐役の組織、監査役の百姓代が置かれた。
名主は年貢の取りまとめ、土木工事の指揮、戸籍・宗門の調査、土地売買、祈願などを行った。

この時代の栽培植物

琉球にサツマイモ(甘藷)、九州にジャガイモ(馬鈴薯)、サトウキビ(甘蔗)が伝わった。

寛永の大飢饉発生

1640年に九州で牛の疫病が発生、牛耕が多い西国では支障をきたした。
同年には蝦夷駒ケ岳の噴火による降灰で津軽地方が大凶作。
1641年も全国的に不作だった。
幕府は打開策として倹約と米作を奨励し、農民の日常に分け入った法令を連発した。

慶安の御触書(1649年)

種子の吟味、農具の手入れ、家畜飼育による厩肥などを推奨した。(近年、存在が疑問視)

土民仕置条々(1643年)

百姓の経営安定と年貢確保を図って、主に関東の幕府領を対象として、小百姓の木綿以外の着用禁止米食禁止と雑穀食の推奨などの法令を制定。

諸国山川掟(1666年)

下流域の氾濫防止のため、草木の根を掘る事、川を狭める田畑などを禁止した。

分地制限令(1673年)

相続による耕地面積の縮小防止の為、20石以下の名主、10石以下の百姓の分割相続を制限。

江戸時代の新田開発

大飢饉以後、大名は新田開発に精を出した。
備前(岡山県)の児島湾の干拓、下総(千葉県)の手賀沼・印旛沼などが知られる。
仙台藩中心の北上川改修や、最上川中流域の用水路開削なども行われた。
江戸でも市中に飲料水を供給する玉川上水や灌漑用の見沼代用水などが造られた。
信州佐久郡の五郎兵衛新田のように豪商が資金投下した例もあり、また農民たちも自ら開拓した。

改良農具と金肥(購入肥料)

17世紀後半、より深く耕せる備中鍬、こき箸の10倍以上の高率で脱穀できる千歯こきが普及する。
脱穀後に籾殻や藁屑を選別する唐箕は17世紀末頃に登場した。
採種など搾油で生じる油粕(あぶらかす)、鰯(いわし)など小魚を乾燥させた干鰯など金肥(購入肥料)も使われ始めた。

藁の利用

稲わらは俵や縄、筵(むしろ)、屋根材、草鞋(わらじ)、笠、食品加工など、様々に利用された。
藁製品作りは農閑期の副業となり、籾殻の灰を肥料に用い、根も田に鋤き込んで堆肥にした。

江戸時代中期以降

商品作物への傾斜

城下町を中心に消費経済が発展し、幕府や諸藩は財政難に直面する。
農民は、財政不足を補う重い年貢に苦しんだ。
米よりも年貢で有利な畑作を増やす農村が増え、強い生産力を持った農家が台頭してくる。
新興農家が村役人となり、金貸しを行う者も出現する。

江戸時代の三代改革

幕府の財政難の解決策として、次々と改革が打ちされた。
享保の改革(1716〜45)では「米将軍」徳川吉宗が倹約の傍ら増収策を推進、年貢率を1割増しとし、米価を引き上げ、米の代わりに一部を銀で納入させた。
寛政の改革(1787〜93)では老中・松平定信が網紀粛正を求め、米価の標準相場を設けるなど諸物価の安定策を敢行し、米の貯蔵も行った。
天保の改革(1841〜43)では老中・水野忠邦が、農村から都市への移住を禁止、印旛沼を干拓した。
>> 江戸幕府の三大改革

多発する飢饉・百姓一揆

18世紀以降、享保(1732)、宝暦(1755〜56)、天明(1782〜87)、天保(1832〜36)と飢饉が多発し、百姓一揆も頻発した。
藩や都市の高利貸、米屋に数万人もの農民が抗議した。

明治時代

地租改正と欧米技術の流入

明治時代に入ると新政府の地租改正(1873年)で、課税基準は米(収穫高)から土地(地価)に改められた。
ところが地租の基準が地価の3%と高めで一揆が頻発した為、1877年に2.5%に引き下げている。
新政府は欧米の農業技術導入を図って、農事試験場など公的研究機関を設置。
種子、苗、化学肥料、農機具などを輸入した。

この時代の栽培植物

リンゴ、レモン、オレンジなどが導入された。

大農場の誕生と北海道開拓

明治政府は北海道に開拓使を置き、移民を募集し屯田兵を設け、札幌農学校を設立した。
1880年代後半には、華族や官僚などが欧米風の大農場を志向。
官有地の払い下げを受け、家畜や機械を輸入した。

小岩井農場(1935年頃)

小岩井農場(1935年頃)
1891年に岩手県に創業した小岩井農場

最新技術の治水工事

1879年、国直轄でダイナマイトやセメントなどの最新土木技術を駆使して安積疏水(あさかそすい:福島県)を、民間資本と県の援助で明治用水(愛知県)を着工。
1896年に河川法を、翌年に森林法と砂防法を制定した。

大正〜昭和(戦前)

昭和恐慌から戦争へ

第一次世界大戦が好景気をもたらし、小作人などが工業に流れて農業従事者が減少
化学肥料や動力農具に頼る傾向が加速した。
物価が高騰し、米価の上昇は一時それを上回ったが、不況で一気に暴落する。
昭和恐慌で疲弊する農村救済策は進まず、満州移民が推進された。

動力と化学肥料の導入

大正時代、国や各地の農事試験場が連携、品種育種を行った。
石油発動機や電動機も普及し、農繁期の労働を補助した。
硫安の国産化が始まり科学肥料の比重も高まった。
戦時下には増産計画が推進されたが、限界もあった。

化学肥料の広告「農村文化」

化学肥料の広告
農業誌「農村文化」1953年から

昭和〜平成(戦後)

農地改革と機械化・国際化

敗戦後の深刻な食糧不足、インフレなどの情勢下、GHQ指令の下で農地改革が推進された。
農村民主化を求めて農民運動が起こった。
農地解放で、改革直前の小作地の約9割、約194万ヘクタールの耕地が475万戸の農家に売り渡された。
その後、機械化と農業研究の成果で収穫量が飛躍的に増加
1970年以降は米余りに直面し、就農人口の減少、グローバリズム、地球規模の環境問題などの課題もある。

エネルギー消費型農業

耕運機、田植え機、コンバインなど稲作の機械化が進み、労働の省力化の一方、石油などの燃料消費に直結した。
ビニールハウスなども石油製品で、温室の保温にもエネルギーを要する。
ハウス栽培のトマト1個に石油を200t消費するともいわれる。
農薬や除草剤の使用も問題視され、近年では有機栽培への回帰も見られる。

出典・参考資料(文献)

  • 『週刊 新発見!日本の歴史 07号 幕藩体制と「名君たち」』朝日新聞出版 監修:木村茂光

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