日本にはもともと「名字(苗字)」も「姓」も存在しなかった。
国家が出来上がるにつれて、血縁による「氏」、役割による「姓」が出来ていく。
その流れをみてみる。
文明が育つ前の太古の昔、日本には「名字(苗字)」も「姓」も存在しなかった。
魏志倭人伝に女王・卑弥呼やその使いである難升米(なしめ)・都市牛利(としごり)といった名前が記されている。
この3人は名字に当てはまるモノは記されず、“名前しか”記されていない。
恐らくまだ名字が無かったから記されなかったのだろう。
※魏志倭人伝に記される漢字表記も、恐らく中国側が用意した当て字であり、当時の日本にはまだ漢字表記もなかったと思われる
中国では当時から人の名前は“姓と名の組み合わせ”が普通であった。
卑弥呼からの使者を迎えた当時の中国の魏の皇帝は「曹叡(そうえい)」という名前で、これは曹(姓)と叡(名)である。
5世紀の中国の歴史書に「倭の五王」という日本(倭)の5人の王の事が記される。
※倭の五王とは、16代・仁徳天皇〜21代・雄略天皇と比定される
中国の歴史書には、倭の五王の姓は「倭」であったと記されており、これが外国の歴史史料から確認できる日本最古の姓である。
その後、飛鳥時代の日本では蘇我氏や物部氏といった氏族が現れて来る。
(ただし、実際は家族の枠組みを示す姓(名字)は便利であっただろうから、もっと早くから日本に存在した可能性も否定はできない)
飛鳥時代、大和地方では葛城氏・大伴氏・蘇我氏ら豪族が勢力を振るっていた。
当時のヤマト王権(政権)は大王家(天皇家)のもとで有力豪族が構成し、かつて小国であった各地の豪族も朝廷の組織に組み込まれる様になった。
その際、国の支配の仕組みや政治の制度を整える基盤となっていたのが「氏姓制度」である。
「氏」とはもともと血縁を表す言葉で、「氏族」と呼ばれる血族の集団の名称である。
ヤマト王権では、その血族を「氏」と呼んで管理し、氏族もその氏を名乗った。
各氏族の代表は「氏上」とそれに率いられる「氏人」がヤマト王権に仕え、政治に参加した。
各氏族には、ヤマト王権の中で担当する職務が定められていた。
その役割(地位)や家柄にあわせて、大王家が氏族に与えた称号が「カバネ(姓)」であった。
「姓」の起源はもともと各地の首長に対し、その支配した土地の名前に因んだ尊称から始まったと考えらえる。
しかし、古墳時代から飛鳥時代へと大王家を中心とする秩序が確立していくにつれ、大王家が姓を与奪できる権利を持つようになっていった。
ヤマト王権は、豪族たちに「臣(おみ)」「連(むらじ)」「君(きみ)」「直(あたえ)」「造(みやつこ)」「首(おびと)」「史(ふひと)」などの姓を与えた。
「臣」の姓を与えられたのは葛城氏・蘇我氏・平郡氏・巨瀬氏・吉備氏・出雲氏などで、臣の最有力者は「大臣」と呼ばれた。
「連」の姓を与えられた豪族は中臣氏・大伴氏・物部氏など大王とは祖先の違う豪族であったが、特定の役割を与えられて王権に仕えて来た豪族たちであった。
物部氏は武器の製造から軍事、中臣氏は神事や祭祀、大伴氏は中央に出仕して王権に仕える事を担当していた。
これらの氏族らは、朝廷で担当する役職によって姓が連に決められたということ。
このように氏の血縁による組織を元にして、姓によって秩序付けられたのが「氏姓制度」であった。
日本では天皇に姓がないため、一般人の名字にあたる部分がない(中国の皇帝には姓が存在した)。
これは天皇は姓を与える側であったからだ。
中国では王朝交替と同時に皇帝の姓も変わっていたが、日本では王朝交替(ずっと天皇のまま)がなかった為、ずっと天皇家には姓がないままなのである。
当然だが天皇にも多くの血族がいて、その全てを皇族にしておくわけにはいかなかった。
その為、皇族には姓を与えて臣下にし(臣籍降下)、その時に用いられたのが「源」「平」「橘」という姓であった。
乙巳の変で蘇我入鹿を討った天智天皇(中大兄皇子)は、中臣鎌足に「藤原」という姓を与えた。
鎌足の子孫の藤原氏は、摂政や関白といった要職を独占、「摂関政治」を行い栄華を極めた。
「源平藤橘」という平安時代の代表的な4つの姓を「四姓」という。
四姓は源氏・平氏・藤原氏・橘氏の4つであった。
日本には天皇家に並ぶほどの古い歴史を誇る姓が存在する。
それは「荒木田」「渡会」「出雲」「阿曇(安曇)」である。
荒木田氏と渡会氏は姓は伊勢神宮に由来し、出雲氏は出雲大社に由来する天穂日命が祖先とされ、阿曇(安曇)氏は海神である綿津見命を祖とする。
いずれも天皇の祖先にも所縁がある姓であった。