日本の名字の始まり、つまり最初に名字を名乗ったのは誰だったのか?
正確には誰が最初か確認する事は出来ないのだが、現代では「武蔵七党(むさししちとう)」という平安時代後期の武士が最初に名字を名乗ったのではないかとする説がある。
名字より先に「源平藤橘」などの姓が誕生し、その次に、姓より詳細に個人を区分する為に名字が誕生した。
「藤原」の姓が出来たのは飛鳥時代であるが、その藤原氏に由来する名字が多く存在している為、名字の始まりがそれ以降である事は間違いない。
源と平の姓は平安時代初期に誕生しており、やはりそれより後に名字が出来たであろう。
俗説的に「日本人が名字を名乗るようになったのは明治維新後」という見方をする人もいるが、それは一般人が名字を名乗る上での法令が整備されただけの話であり、名字の歴史はもっと古い。
あくまで確認できる最初の名字が「武蔵七党」だという事であり、それより古くから存在した可能性も否定はできない。
平安時代末期、各地に「党」と呼ばれる血縁で構成された武士の集団(武士団)が生まれた。
「武蔵七党」もその一部であり、武蔵国(現在の東京都と埼玉県の全域、神奈川県の一部)に住んでいた七つの同族武士団の事で、その一族を記した系図に『武蔵七党系図』が在る。
「武蔵七党」は一般に横山党・猪俣党・野与党・村山党・児玉党・西党・丹党の七つの党を指すが、実際には7集団以上あった。
このページでは以上の七党を扱うが、「七党」を構成する氏族は文献によって異なる。
下記に簡単に記述するが、特に名字には関係ない話ではある。
武蔵七党の一族は、関東各地の地名を名字としており、源平合戦では、坂東武士として源氏方について活躍した。
そして鎌倉時代になると御家人となり、各地に所領を貰い受けて移り住んだ。
そのため子孫が全国に広がり詳細な系図が残っている事で、名字の研究にしばしば登場する。
七党はその多くが居住地を名字としていたが、それ以前から姓も持っていた。
例えば、猪俣党の姓は「小野」で、小野篁(おののたかむら:平安時代初期の公卿)の子孫である武蔵守となった小野隆泰の孫・時範が武蔵国児玉郡猪俣(2022年現在の埼玉県児玉郡美里町猪俣)に住んだのが始まりだった。
他の六党も猪俣党と同様、居住地を名字とし、姓も持っていた。