観客が集まる祭りが列島にひしめき、「祭り好き」といわれる日本人。
季節の移り変わりや人生の節目では、様々な行事も体験する。
時代とともに盛衰、変容する中にも古来の信仰や宗教観、世界観を彷彿とさせるものが少なくない。
そんな祭りと行事の歴史や成立ちを探ってみる。
縄文時代の遺跡からは、既に祭事場の存在が確認されている。
弥生時代には祭器や墳墓が、古墳時代にも地方ごとに特色ある古墳が造られた。
死者を祀り、豊作を祈願する営みが行われていたと推察される。
天皇(大王)は、そうした祭祀を執り行う権力者であり、宮中行事が始まった。
古語の「マツリ」から派生した「祀り」と「祭り」。
上位の者に贈り物を捧げる「たてまつる」にも通じる。
超越的な存在としての神様を持て成し、願い事をするという意味だ。
現代では、大勢の人が集まるイベント的な性格の強い「祭り」も多い。
祭りには様々な形があるが、目的は概ね二分される。
第一に挙げられるのは農耕、特に稲作にまつわる祭りで、その一方で自然災害や病気、悪霊などを避ける為の祭りもある。
殆どの祭りは、このいずれかの範疇か、或いは両方の性格を持つ。
天皇を中心とする中央集権国家が出来た飛鳥時代には、祭祀の為の役所「神祇官」が設置され、国の祭祀制度が整えられた。
中国から宮廷儀式や行事が伝わり、我が国の宮中行事に取り入れられた。
さらに地方の風習を取り入れた農耕に関わる予祝、感謝の行事、仏教の儀礼なども取り入れらて、飛鳥時代後期には恒例化した。
古代から重要な作物であった稲の実りを願う予祝行事・祈年祭は宮中で旧暦2月に行われた。
朝廷から幣帛を賜う儀式で、全国の3千を超える祝部と呼ばれる地方神祇官が神祇官に集まった。
また、宮中では11月の卯の月に新嘗祭が行われた。
新穀による神饌と斎酒を、天皇自らが神々に供えて口にする儀式だ。
大嘗祭は、新しい天皇が即位して最初の新嘗祭で、特別な宮殿・大嘗宮を建てて、盛大に祝う。
757年施行の法令「養老雑令」には、節日の規定がある。
宮中における祝日として、元日節会(1月1日)、踏歌節会(1月16日)、曲水宴(3月3日)、端午節会(5月5日)などが定められた。
平安時代に入ると宮中儀式が法制化される。
また、二十二社や一宮を中心に節日に祭りが行われるようになる。
3月3日に草餅や桃の花を、5月5日(端午)に菖蒲を神前に供えるなどの風習が始まり、年中行事という言葉も、この時代に登場した。
信仰の世界では密教や神仏習合が広がり、貴人の怨霊を怖れる御霊信仰に基づく祭礼も盛んに行われた。
国家の安寧、五穀豊穣を祈念する行事は寺院でも行われた。
修正会・修二会だ。
752年から東大寺で行われた修二会(お水取り)が文献に現れるのは平安時代に入ってからで、薬師寺(花会式、1107年〜、奈良市)や法隆寺(1261年〜、奈良県斑鳩町)などに波及し、いずれも現在まで続く。
平安時代には、夏季に疫病が流行する事が多く、飢饉も重なった。
疫病は藤原種継暗殺事件の首謀者として亡くなった早良親王(崇道天皇)など、藤原氏に恨みを持つ皇族・貴族の死霊の仕業と怖れられた。
そのため怨霊「御霊」を祀る行事が広がり、なかでも祭神に牛頭天王やスサノオを祀る御霊会が定着した。
祭神を慰撫する為の読経や、相撲、歌舞などの奉納が行われた。
869年に始まる八坂神社(京都市)の祇園御霊会は、祇園祭として現在に続く。
病気とは疫神がもたらすモノと理解され、疫神に供物を供え都からの退却を祈る疫神祭が行われた。
「延喜式」には、平安京を守るように、近江(滋賀県)、摂津・河内(大阪府など)、大和(奈良県)などの国境で「畿内堺十処疫神祭」が行われたと記載されている。
明治時代の分離政策によって神仏習合の要素は失われたが、それまでは寺と神社の関係は深く、神社の祭りを僧侶が主催する例は珍しくない。
春日若宮社の春日若宮おん祭や日吉大社の日吉山王祭は、両社をそれぞれ鎮守社とした興福寺(奈良市)と延暦寺(大津市)により執行され、いずれも神仏習合が定着した平安時代を起源とする。
元旦に屠蘇を飲む。
宮中で重陽の節供。
旧暦10月の亥日、亥の刻に餅を食べて無病息災を願う風習が宮中で始まる。
武士の時代になると、幕府主体の行事も盛んになり、源氏の守護神である八幡神の信仰が広まった。
本社の石清水八幡宮にならって鶴岡八幡宮(神奈川県)で放生会が行われ、御家人による流鏑馬など、幕府への忠誠を示す行事も盛り込まれた。
年始の評定始めや御弓始め、3月の闘鶏会、4月の灌仏会など従来の形式を踏襲した行事の他、武家の行事も盛んになった。
怨霊を鎮める為の御霊会が、山車を巡行させる盛大な祭礼に発展したのは、室町時代後期に入ってからだ。
山車は、古代以来、神が座すと信仰された「山」を象徴したモノだが、そこに疫神の依り代としての鉾が立てられたり、人形が飾られたりした。
こうした山車が町単位で作られた背景には、経済力を付けた町衆たちの台頭があった。
地方でも曳山や屋台(山の象徴)、神社の社殿を小型化した神輿などが現れ、灯篭なども華やかに大型化した。
華美で賑々しい状況を人々は風流と呼んで熱狂、夏の祭礼の特徴になった。
漁村などでは、海の祭りが行われる。
沖縄を中心に九州地方などで催される手漕ぎの舟が競うハーリーやペーロンなどは、航海安全や豊漁を海神に祈願する祭りで起源を中国の端午の行事・龍船競渡にもつ。
海外との交易によって、1400年頃に、まず琉球王国に伝えられた。
海の祭りでは、神輿が海に入って行くもの、舟に華やかな屋台を載せて巡行する祭りなどもあり、漁村などの祈願として現在も行われている。
江戸時代には武家の行事が一般に広まった。
祭りは京都や大坂、江戸をはじめ全国の都市で盛大に行われた。
村々では、農耕や漁労と関わる祈願の為の祭りや行事が催された。
また、この時代には戦国時代に途絶えた石清水八幡宮の放生会や上賀茂神社・下鴨神社の賀茂祭などの祭りが復活した。
江戸幕府は、徳川家光などが人心掌握の政策として祭を奨励した。
特に日枝神社の山王祭と神田明神祭は江戸の大祭礼と定められ、将軍が祭りを見物、庶民も金を投じて熱狂した。
地方でも、大名が祭りの開催を後押ししたり、産業の発展などにより大規模化したりした。
しかし、財政が逼迫した江戸時代後期になると飢饉も起こり、天保の改革などで奢侈を禁じ、祭りの制限を行った。
時宗の開祖・一遍は、民衆への布教として念仏踊りを行った。
次第に全国に広がり、室町時代には風流踊りといわれるようになるが、これが江戸時代に入ると、祖霊を迎え、共に踊る盆踊りとして定着した。
農耕や漁労の行事と同様に職人の行事もある。
代表的なのは聖徳太子を大工神として崇めた太子信仰にちなんだ太子講で、旧暦2月22日に太子像を囲んで飲食する。
大工をはじめとする左官、鍛冶屋、桶屋など職人たちにより、江戸時代に盛んになった。
古来、民衆は身近な田畑や山、川、道、また暮らしや生業に関わる神を信仰してきた。
異界から訪れる来訪神をもてなす祭りは、秋田のなまはげや沖縄八重山諸島のプーリ祭(豊年祭)におけるアカマタ、クロマタなど多くの例がある。
春は田に田の神を迎え、秋に山に送る、稲の豊作を願う儀礼が、地域や時代によって変化しながら継承された。
道の神である道祖神の源流は藁や木で作られた人形(ひとがた)で、小正月の火祭りとの関連も伝えられる。
こうした民俗神信仰は地域ごとにバリエーションを持ち、祭りや行事に溶け込んでいる。
幕府が五節供(人日、上、端午、七夕、重陽)を制定。
七五三や雛祭り、針供養など。
1873年、明治新政府は新しい祝祭日を制定した。
その内容は神道を中心とした皇室寄りのもので、祭政一致の制も復活した。
第二次世界大戦で断たれた習慣は、1960年代頃から、戦前の経験者を中心に復活が図られた。
しかし、近年では山村の限界集落化で存続が危ぶまれる祭りや行事も多い。
一方、大規模なイベントに様変わりするモノ、新しい風俗と結びついた祭りも誕生している。
また、行事は商業活動と結びつき、新しいモノが増えて、日常がイ
ベント化する傾向も一般化している。