日本の埋葬と墓制

日本の埋葬と墓制

権力者の登場により巨大な古墳が造られた時代や、中国の思想に倣って埋葬の簡素化が尊ばれた時代など、かつての日本には様々な墓制と埋葬の形が在った。
社会の在り方や人々の死生観とともに、墓制・埋葬も姿を変えてゆく。
墓とは亡くなった人を埋葬する為のものだが、その歴史は、生きている人々の営みの歴史に他ならないのだ。

旧石器〜縄文時代

墓地の始まり

約2年前の旧石器時代後期から、日本列島を含む東アジアやシベリアでは、土坑墓(地面に穴を掘って遺体を埋めたモノ)が誕生した。
中には、副葬品を持つものもある。
この時代は墓は集落の中、人々が生活する近くにあり、現世と死後の世界が連続していると考えられていたようだ。
多遺体埋葬という埋葬方もあり、一度埋葬された後に掘り起こされ、共同の穴に再葬される事もあった。

弥生時代

地域性を持つ墳墓

弥生時代中期に入り、稲作が発展して人口が増え、大きな村が作られるようになると、墓地は集落の外に営まれるようになった。
一つの墳丘に複数の被葬者を埋葬する家族墓も見られ、掘った穴に木の棺を直接埋葬した。
幼くして亡くなった子供は、大人と一緒の墓ではなく、甕や壺などに入れて集落内に埋葬される事が多かった。
また、集団の中に貧富差や身分差が現れ、盛り土をした大きな墳墓が造られるようになった。
墳墓の形には地域性があり、地域ごとに分立する勢力が在った事を物語っている。

墳墓での葬儀を再現した模型(写真:出雲市)

墳墓での葬儀を再現した模型(写真:出雲市)

子供を葬った甕棺墓(東大阪市郷土博物館蔵)

子供を葬った甕棺墓(東大阪市郷土博物館蔵)

墳墓の種類

甕棺墓
土器に遺体を入れて埋葬する墓で、九州北部で盛んに造られた。
方形周溝墓
周りに溝を巡らした方形の墳墓で、近畿を中心に、主に本州で多く見られる。
四隅突出型墳丘墓
方形墳丘墓の四隅が突出した形の墳墓で、山陰地方に多い。
方形周溝墓(東大阪市郷土博物館蔵)

方形周溝墓(東大阪市郷土博物館蔵)

四隅突出型墳丘墓模型(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)

四隅突出型墳丘墓模型(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)

古墳時代

権力の象徴としての前方後円墳

3世紀後半に始まる古墳時代には、ヤマト王権の成立にともなって、権力者の墓としての前方後円墳が近畿地方を急速に広まった。
墓は、単なる埋葬の場に留まらず、王権を継承する儀式の為の祭場でもあった。
古墳には多くの副葬品が入れられており、古墳時代前期は鏡・玉など呪術的なものが中心で、中期以降は、武器や馬具など、武人的な要素を持つものが増える。
古墳の棺・石室の位置や形状にも複数の種類があり、墳丘の中に石室を埋め込んだ竪穴式石室(前期〜中期に多い)や、古墳の横から出入りできる石室の横穴式石室などがみられる。
横穴式石室は追葬がしやすく、家族墓としての性格を持っていたようだ。
古墳時代には「殯(もがり)」と呼ばれる儀式もあり、遺体を仮の建物に安置し、葬儀までの間、様々な儀式を行ったいわれる。
古墳時代後半になると、山間部の谷間などに規模の小さい墓が群集して造られた(群集墳)。
ヤマト政権に取り込まれた人たちの墓だという説もある。

古墳の形状

  • 円墳
  • 上円下方墳
  • 方墳
  • 八角墳
  • 前方後円墳
  • 前方後方墳
  • 帆立貝式古墳

飛鳥・奈良時代

墓と埋葬の簡素化

7世紀半ば、大化の改新の一環として「薄葬令」が出され、葬送儀礼は簡素化していく。
薄葬令とは、「身分に応じて墓の規模を制限」、「殯の禁止」などで、他にも豪華な副葬品や殉死・殉葬なども禁止された。
既に古墳時代の後期から巨大な古墳は造られなくなっていたが、薄葬思想により、特別な墓を造らない天皇も増えていった。
なお、この時代の貧しい庶民は「風葬」と言い、特別な墓を造らず、荒野で土に還っていたようだ。

火葬の始まり

700年(文武4)の僧・道昭、704年(大宝2)の持統天皇の火葬を切っ掛けに、貴族や役人の間で火葬が進んでいく。
火葬した骨は蔵骨器に入れ、土坑に納められた。
『古事記』の編纂者として知られる太安万侶も火葬された事が分かっている。

平安時代〜

寺と墓の結びつき

平安時代に入って多くの人口を抱えるようになった平安京で大規模な共同墓地が誕生する。
また、仏教の広まりと共に、僧が埋葬を担当するようになる。
貴族は弔いの為の寺を建立し、庶民も寺の境内に墓地を求めた。
墓地に寺が建てられたり、寺の境内に墓地が造られる事で、仏教と葬送はより強く結びつくようになる。
9世紀、京内に墓を造る事が禁止されていた為、郊外の山野が墓地として発達し、庶民だけでなく、天皇や貴族の墓所としても広く使われ、共同墓地が発達していく。
11世紀頃には、仏教の霊場に火葬骨を納める習慣が起こり、納骨が広がって行く。
この時代に天皇の埋葬を寺が担当するようになり、1242年に四条天皇の火葬が京都・泉桶寺で行われ、1374年以降には同寺で天皇の火葬が恒例化した。

納骨をする男『一遍上人絵伝』

納骨をする男『一遍上人絵伝』
東京国立博物館蔵

聖による弔い

京では河原が遺体の遺棄地として使われ、民間の宗教者である「聖(ひじり)」が遺棄遺体の弔いを行ったり、埋葬したりしていた。 15世紀頃になると、「三昧聖」と呼ばれる火葬の専門職が現れる。

年忌供養

10世紀までは一周忌が最後の法要だったが、貴族の間では一周忌後も忌日に仏事を行う事があった。
鎌倉時代に入ると、庶民にも三回忌、十三回忌が、後に七回忌、三十三回忌が広まった。
年忌供養の広まりと共に墓参りの風習が広まっていく。

安土桃山・江戸時代

華美化する埋葬

15〜18世紀に、公家や武家、庶民の間で、家名と財産を永続的に相続する「家」が成立する。
家格を誇示する為、また、家督相続のお披露目の為、葬儀が華美化していく。
宣教師ルイス・フロイスは「日本人が大いに重んじている事の一つは、死者に対して行われる葬儀の豪華さである」との言葉を残す程であったようだ。
華美化した葬儀を支えたのは、地域の互助と装具業者であった。
装具を製造・販売・賃貸する業者が葬送儀礼を支えた。
庶民の間でも墓を建てる事が増えていき、墓石に刻まれる名は、個人から家へと移り変わっていく。
ただし、各地から人口が流入した江戸では身寄りのない人が、特定の墓地に運び込まれる「投げ込み」と呼ばれる粗略な埋葬も行われていた。

遺体を納める輿を造る様子『人倫訓蒙図彙』

遺体を納める輿を造る様子『人倫訓蒙図彙』
京都大学付属図書館蔵

白昼に行われる葬列

鎌倉時代まで夜に行われていた葬列は、徐々に昼間も行われるようになる。
江戸時代になると、白昼に華々しい葬列で町中を行進する事も多かった。

明治〜現代

葬儀の産業化

葬儀全体を取り仕切る「葬儀社」が登場する。
また、交通機関の発達により、徒歩での葬列が廃れていった。
葬儀の中心儀礼は、葬列から自宅での告別式、次いで葬儀場での告別式に移行する。
告別式の普及と同時に、葬儀の中心となる祭壇が浸透していく。

墓地の変化

都市に人口が集中し、墓地不足が起こった為、都市計画を踏まえた公営墓地・公園墓地が設置された。
また、墓地不足や価値化の多様化により、葬儀の形も多様化しており、近年では「樹木葬」なども行われている。

出典・参考資料(文献)

  • 『週刊 新発見!日本の歴史 08号 邪馬台国と卑弥呼の謎』朝日新聞出版 監修:勝田至

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