先史の時代から、人類は生きる為、或いは知的好奇心にかられて、何かを学ぶという行為を続けてきた。
師について学び、友と学び、或いは一人で独学自習する。
ときには留学や渡来人によって、海外に学ぶ事もあった。
歴史のなかで学びは組織化されていき、学校という制度が生み出された。
日本における教育と学校の歴史を振り返る。
古墳時代、大陸から多くの学者・僧・仏師・技術者などが先進の文化とともに渡来し、人々は彼らからそれを学んでいった。
6世紀(古墳時代後期)になると、宮廷人を対象にした私塾も生まれた。
教師となったのは渡来人や、隋や唐(中国)で学んだ留学生たちだった。
最初は渡来人から先進学問を学び、徐々に日本独自での教育環境が育まれていったのだ。
中国との交渉において漢字の習得は不可欠であった。
漢字の伝来は時期は不明だが、弥生時代には既に伝わっていたと考えられる。
また、国家が形成されていく中で、文字は政治の道具として重要になっていった。
日本に百済から仏教が伝えられたのは、538年とされている(日本書紀では522年)。
聖徳太子は仏教を基にした教育を行おうとしたとされている。
太子の建立した法隆寺は、僧侶たちの教育機関でもあったとされる。
飛鳥時代以降、日本は律令国家を目指した。
そして、それを支える人材を育成する為の学校組織が作られた。
また、この時代には寺院が教育機関として大きな役割を担っていた。
有力貴族の子弟たちは「蔭位の制」で大学寮に入る必要がなかった為、主に家庭教師によって教育が施された。
「蔭位の制」とは、親王以下五位以上の貴族の子と、三位以上の貴族の孫に、その父祖の位階に応じて自動的に位階を授ける制度の事。
そのため、有力貴族の子弟は、大学寮に入る必要はなかった。
寺院は、子弟間での最新の文化や数学伝授など、僧侶にとっての教育機関であった。
また、庶民にとっての学びの場でもあった。
律令国家は文書行政が基本である。
庶民でも文字の読み書きが出来る者が少なからずいて、帳簿の作製など政府の手伝いをしていた事が分かっている。
武士が次第に力を持つようになった中世は、教団化した仏教が広く発展する時代でもあった。
貴族の為の教育機関は衰退し、寺院が教育の中心となった。
数多くの寺院が生まれ、武家や庶民の教育機関としての役割を果たした。
また、漢文の素養に裏打ちされた五山文字が発達した。
戦場で戦う武士たちにとって、流鏑馬や犬追物などの武芸の鍛錬は重要なモノであった。
最低限の読み書きは寺院で学んでいたようだ。
だいたい8〜9歳で寺院に行って学び始め(寺入り)、14〜15歳前後で学習を終えた。
なお、「家訓」といわれる武家で守るべきモノとして子孫に伝えられていった、教訓は訓戒が在った。
武家の家庭教育の一つとして、この家訓が広く用いられた。
有名なモノとして、鎌倉時代の「極楽寺殿御消息」や、室町時代の「今川了俊制詞」などがある。
中世後期からの商業の発達により文字の重要性が増していった。
庶民も寺院などで読み書きを学んだ。
また、文字は訴状などを作るのにも必要だった。
社会変動の激しい中世は、宗教者や商人、学者、芸能者など様々な遊歴者が各地を移動していた。
彼らは行く先々で自らの知識や技術・経験を伝え、教育者の役割を担っていた。
江戸時代は日本史上、教育が大きく花開いた時代であった。
幕府や藩による武士を対象とした公的な教育機関はもとより、私塾や寺小屋など、庶民が学べる教育機関も数多く生まれた。
こうした教育熱は識字率の高さに繋がり、明治時代に急速に近代化を達成する下地となった。
「徳川の平和」の成立と、幕藩体制の安定に伴い、江戸幕府は文治政治を志すようになる。
そして儒学、特に朱子学を用いて武士の教化を行うようになった。
庶民の経済力が上がった江戸時代は、庶民教育が盛んだった。
各地に生まれた手習塾は、基礎教育を担っていた。
また、私塾でより高度な教育を受ける者もいた。
江戸時代、女性は「家」を守り尽くす事が美徳とされた。
『女大学』などの、女性がどう生きるべきかを書いた教科書が作られ、女子教育が行われた。
近代国家を目指す日本は、その担い手となる人材を作る為に、教育を重視。
欧米諸国に倣った教育制度を整えていった。
義務教育が始まり、年々学校制度も充実していった。
1872年に公布された「学制」は、日本最初の近代的学校教育制度だった。
「学制」では、@立身出世、A国民皆学、B実学主義が理念として挙げられ、誰もが教育を受ける権利を有する事と、教育によって高い地位に就く事が出来る可能性が示された。
「学制」の後、「教育令」(1879年)、ついで「学校令」(「小学校令」「中学校令」「師範学校令」など1886年)が出され、全国に沢山の学校が作られていった。
「小学校令」において、4年間の尋常小学校の期間が義務教育とされた。
昭和初期以降、いわゆる軍国主義教育が行われるようになった。
軍人の在校や軍事教練など、学習内容や教育制度もそれに応じて変更されていった。
1937年に日中戦争がはじまり、1938年に国家総動員法が制定されると、教育界でも戦時下の体制に切り替わっていった。
1941年には、尋常小学校は国民学校と改められ、戦時体制に合わせた教育が行われる事になった。
国民学校のカリキュラムでは、教練が重視された。
戦局が悪化し、本土が攻撃されるようになると、都会の児童を就寝の学童疎開が行われるようになる。
戦争が長引くと労働力不足が深刻化し、これを解消するために在学中の学生・生徒を軍需工場に動員するようになった。
戦後、GHQの支配下で完全な民主主義国家に生まれ変わった日本では、教育基本法を作り、それに基づいた、新たな教育制度がスタートした。
以来60年以上、時代ごとに様々な問題も起きている。
終戦直後の1945年9月、文部省は「新日本建設ノ教育方針」を公表し、軍国主義教育を改め、民主化を目指した教育改革を行う事を示した。
1947年に教育基本法と学校教育法が制定され、市町村などの自治体には教育委員会が設置された。
そして現在まで続く6・3・3・4制の新学制が始まった。