江戸時代、河川が増水した時、川越かわごしを禁じた事を「川止め」もしくは、川づかえといった。
川によって規定があり、大井川では普段の水位2尺5寸(約76cm)を基準とし、増水2尺(約60cm)以上になると川越を禁止した。
川止めになると両岸の宿場は旅人で満員となり、旅人は旅費がかさんでいった。
幕府は街道を整備したが、それとともに、大井川や安倍川など河川での交通規制も行った。
これは、幕府の防衛措置として川を外堀に見立てた為である。
これらの川は大雨などで水かさが増すと、「川止め」といって川を渡ることを禁じられた。
その為、旅人は、渡船や川越人足に運んでもらうのが通例であった。
天候によっては何日も宿場での待機を余儀なくされ、宿泊費が余分にかかり経済的にも負担になったという。
当時の人々は「箱根八里は馬でも越すが、越すには越されぬ大井川」と、大井川が東海道最大の難所であると馬子唄で唄ったのである。
大井川の渡し
徳川将軍を直接描く事は禁じられていた為、徳川家茂を源頼朝に仮託して表現された絵画。
「頼朝公大井川行列図」(国立国会図書館蔵)
庶民から武士、公家など様々な身分の人が川を渡ったが、特に大名行列の徒渡しは、流れを緩やかにする為、舟や人間を並べた大掛かりなモノであった。