干拓地とは、浅い海を名前のとおり、干す事で新たな陸地を作る事である。
干拓の主な建築法や、主な種類、昔の干拓地での暮らしなどを記述する。
埋立と干拓は用地や施設を作るという目的は同じであるが、それを造る工法に違いある。
埋立とは、土砂で海を埋め立て、高さを調整する事で、新たに陸地を増やす事を言う。
干拓は、海水面や湖面の一部を堤防で仕切り、その内側の範囲を干し上げて造る、新たに陸地を増やす事である。
この為、水深の浅い所や潮の干潮差の大きい所に適している。
堤防で閉め切られた干拓地には、海水が入り込む事が無いため、時間をかけて、大地の除塩を行っており、豊かな生産力を持っている。
ただし、河川水や雨水も海に排水する事が出来なくなっている。
大雨などによる水浸し・水害を防ぐため、堤防の一部に干潮の時間を利用して排水させる水門が用意されている。
潮が満ちてくると水門の扉を閉めて、海水が入るのを止め、潮が引いて内側の水面より低くなった時、扉を開いて、溜まっていた水を外へ排水する仕組みである。
尚、古くからあった干拓地の水門は、排水に際に海側へと扉を開け、満潮時には海水の圧力で閉まるといったものであった。
大昔から、多大な工夫が行われていたのだ。
長崎県諫早市の有明海などは、こうした環境に加えて、潮流によって運ばれる微細な土粒子(一般に「潟」という)が堆積しやすい環境となっている事から、浅瀬が形成され、干拓の適地となっている。
「干拓」という言葉は大正3年の耕地整理法の改正から用いられた。 干拓は水面や低湿地などを堤防で閉め切った後で排水し、干上がった土地を新たに陸地とするもので、「海面干拓」と「湖面干拓」の二つに分けられる。
干拓そのものは、有史以前、古くから積極的に行われていた。
太平洋戦争後は食糧増産対策として、その事業が進められ、近年では優良農地の造成や高度利用などの観点から、干拓事業が全国的に推進されている。
今日のように、道路が舗装され、自動車などが普及していなかった頃の干拓地の暮らしは、まさに泥んこ道と水との戦いであったという。
特に梅雨の季節は路面が乾く事もなく、普通の履物などは用をなさず、裸足か、または「つっかけなめら」という特殊な草履を用いていた。
米や麦は十分にあり、魚介類も前海や水田わきの水路などから豊富に取れ、食べ物には不自由しなかった。
最も困るのは薪(たきぎ)であったという。
冬になると、遠くの山村まで出掛けて「山切り」という薪の切り出し作業を何日も続けなければならなかった。
また、春さきの「庭つくり」という外庭の補強作業も、重要な仕事であった。
夏の水田の草取り作業は、歌の文句に「腰の痛さよ、この田の長さ、4月5月の日の長さ」とあるように、それは、極めて過酷な作業であった事を思わされる。