絵画はそれを描いた絵師や、描かれた時代の精神がビジュアルとして表現されている。
先史時代以来、日本には有名無名の数多くの「絵師」が現れ、作品を遺していった。
日本絵画と絵師の歴史を振り返る。
我が国の絵画の歴史は、先史時代の人々が様々な祈りを込めて器物などに描いた抽象的、或いは具象的な絵に始まる。
6世紀の仏教伝来は、仏教絵画という形で我が国の本格的な絵画の発展を即した。
この後、平安時代の初めまで、日本の絵画は、中国絵画の影響を受けながら、描き続けられていく。
玉虫厨子の須弥座に描かれた捨身飼虎図(国宝)。
中僕南北朝の影響を受けた、初期の仏教絵画を代表する作品。
それまでの絵画は、中国の風物が描かれていたが、平安時代半ばになると、中国絵画に学んだ技法を用いて、日本の風物を描いた絵画が登場する。
それまでの中国的な主題を描いたモノを「唐絵」と呼ぶのに対し、日本を主題に描いたモノを「やまと絵」と呼ぶ。
絵巻物は、中国から輸入された画巻などの影響を受けて成立したと考えられている。
絵巻物に描かれた絵画は、当時のやまと絵の作風を現在に伝えている。
絵巻物では、屋根を外して建物の中を見えるようにする「吹抜屋台」や、同一画面内に同じ人物が何度も登場して時間の経過を表す「異時同図法」など日本独自の表現が生まれた。
12世紀前半に制作されたといわれる物語絵巻の代表的作品。
やまと絵と仏教絵画の融合によって生まれた日本的な仏教絵画の初期の作品。
日本古代の肖像画は、唐から持ち帰った画像の模写が多かった。
しかし、平安時代後期以降、直接本人を写生する、頂相や似顔絵といったリアルな物が生まれた。
無準師範像(国宝)
東福寺蔵 南宋時代 嘉熙2年(1238年)自賛
中国から宗全と共に伝わった水墨画は、禅宗のの僧の修行の一つだった。
やがて室町時代に絵を専門とする画僧が現れて発展し、足利将軍家に保護されて、盛んになっていった。
雪舟は、都を離れて山口という地方にあって数多くの作品を残した。
独特の空間表現で、独自の水墨画の世界を作りだした。
襖や屏風など、日本家屋の室内を仕切る調度に絵を描く障壁画は、奈良時代の鳥毛立女図屏風などが知られるように、古くから作られていたが、大きく発展したのは安土桃山時代である。
この時代の障壁画は、武士の権力を表す装置として巨大化し、豪壮華麗なものになった。
このような巨大障壁画は、狩野派の狩野永徳によって大成された。
織田信長に見出された狩野永徳は、居城の安土城をはじめ、数多くの障壁画を信長の為に描いた。
信長が本能寺の変で倒れた後は、豊臣秀吉に臣従し、天下人の空間を彩り続けた。
やまと絵の伝統を受け継ぐ土佐派と、水墨画とやまと絵の融合により新たな世界観を生み出した狩野派は、日本の絵画史を代表する二大流派。
室町時代を通して日本絵画界の中心にいた土佐派だったが、室町時代後期に起きた、新興の狩野派にその地位を奪われてしまった。
その狩野派は、安土桃山時代、江戸時代を通じで、権力者の御用絵師としての地位を得て繁栄を誇ったが、江戸時代前期の狩野探幽以降、画風はマンネリ化し、芸術的には停滞した。
江戸時代の画壇の中心となったのは将軍の御用絵師となった狩野派だったが、一方で、浮世絵など、様々な在野(民間など)の絵画が生まれた。
それらの絵画は、江戸時代に力を付けてきた庶民たちに受け入れられ、発展していった。
江戸時代、特に大衆の人気を集めたのが江戸の風俗を描いた浮世である。
版画で大量・安価に生産された浮世絵は、庶民の娯楽の必需品となった。
後にフランスの印象派の画家たちによって高く評価され、彼らに大きな影響を与えた。
江戸時代初期にデザイン性を感じさせる新たな絵画を生み出した俵屋宗達に私淑した尾形光琳が大成し、江戸時代後期の酒井抱一が受け継いだ。
近代日本画にも大きな影響を与えた。
江戸時代には、専門の絵師だけでなく、知識人たちも絵を描いていた。
江戸中期の知識人たちは、マンネリ化した狩野派の絵に飽き、唐の時代の文人画(南宋画)を学んだ。
やがて池大雅や与謝蕪村らによって大成された。
中国趣味的な現実世界からの逃避ともいえる主題を描く事の多かった文人画が知識人たちによって描かれる一方で、それとは全く逆に、現実をありのまま描く写生画が江戸時代に生まれた。
こうした絵は、遠近法など西洋絵画の技法を学んだ円山応挙や伊藤若冲などの絵師たちによって描かれた。
明治維新以降、文明開化の中で西洋絵画がもてはやされ、洋画が盛んになった。
一方で、従来日本で描かれてきたやまと絵や浮世絵などの伝統的な絵画の流れは、洋画との対立概念としての日本がを生み出した。
明治初期、西洋画の流行により一時廃れかけた日本の伝統的な絵画は、フェノロサや岡倉天心らによって復興が目指され、それらの総称としての「日本画」というジャンルが生まれた。
日本画は、西洋画の技法も取り込みつつ発展していく。
西洋絵画の技術を用いた絵画、8代将軍・吉宗による漢訳洋書の禁輸緩和以来、蘭画や紅毛絵として描かれていた。
明治になると、御雇外国人や、海外で学んだ画家たちによって、洋画というジャンルとして日本の画壇に位置づけられた。
洋画は印象派や抽象画など国際的視野時代の流行を取り入れ発展していく。
第二次世界大戦後の画壇は、絵画や彫刻などのジャンルにとらわれない、自由な作品が作られるようになった。
また、エアブラシや、コンピュータ・グラフィックス(CG)など、表現方法にも、新たな広がりが生まれている。